18 執務室
執務室の扉の前まで来ると、クラウスが軽くノックをした。
「旦那様、クラウスです。少々よろしいですか?」
中から「入れ」と短く返事があり、三人は執務室の中に入る。。
部屋の中では、ヴェルフリートが机に肘をついて眉間を押さえていた。
横には書類の山――まるで白い壁のように積み重なっている。
おそろしいことに、昨日見た時よりもさらに増えている。
「……なにかあったか?」
ヴェルフリートが顔を上げる。青い瞳がわずかに驚きを帯びている。
フィオレッタは少し緊張しながら、丁寧に一礼した。
「お忙しいところ申し訳ありません。一度、宿屋に戻る許可をいただけないかと思っています」
「そうか」
短い返答に少し不安を覚えたが、咎めるような気配はない。
むしろ、机の上の書類の束を見て、フィオレッタの方が心配になるほどだった。
「……とてもお忙しそうですね」
「領内の報告が山積みでな。クラウスもまとめてくれてはいるが、どうにも追いつかない」
「いや~どれだけやっても終わらないんですよね! やっぱり人を増やした方がいいかなあと思っているんですが」
申し訳なさそうに頭をかくクラウスの横で、フィオレッタは無意識に机に近づいた。積み重なった書類の並びを一目見て、思わず口をつく。
「――ああ、なるほど。書類の分野が混ざっているのですね」
「え?」
「税の報告書と陳情の控えが同じ束にありますわ。これは誤って処理してしまう危険があります。これとこれは重要度でいうと、こちらが優先ですね」
フィオレッタは指先で紙をめくり、ぱぱぱっと仕分けを始めた。
内容を確認するたびに、迷いなく束を分け、分類と重要性ごとに整える。
その動きには、無駄がなく、迷いもなかった。
「奥様、早っ……!」
クラウスが口をぽかんと開けたまま見つめる。
「……少し見ただけで分かるのか」
ヴェルフリートも思わず眉を上げ、静かな声で問う。
その言葉に、フィオレッタはようやく手を止めた。
(以前の癖で、ついやってしまったわ……!?)
はっとして、無心で動かしていた指を慌てて握りしめる。
連日のようにに第三王子の書類仕事をさせられていたせいで、勝手に体が動いてしまった。
ルシアンが思いつきで持ってくる仕事は分野も重要性もてんでバラバラで、関係する省庁に連絡を取るのにも苦労した。文官たちのサポートがあったからなんとか乗り切れていたが、本当に大変だった。本当に。
「申し訳ありません、出過ぎた真似を……」
「……フィオ。君はこのような仕事の経験があるのか?」
「ええと、はい、以前も似たようなお仕事をしていて……見てはいけない書類もあるかと思いますのに、勝手をいたしました!」
言い訳のように早口で言ってから、ふと沈黙が落ちる。
ヴェルフリートは机越しにしばし彼女を見つめ――そして、かすかに息を吐いた。
「……いや、助かった。正直、どれから手をつければいいか分からなかったところだ」
その低い声には、怒りの気配もなく、むしろ安堵が滲んでいた。
クラウスもすかさず「本当に助かりました!」と笑いながら続ける。
「いやぁ、さすが奥様! 旦那様が三日かけても終わらなかった束を、ものの数分で!」
「やめろ、クラウス」
ヴェルフリートが眉をひそめるが、その頬がほんのわずかに緩んでいるのを、フィオレッタは見逃さなかった。
(よかった……怒られなくて)
机の上がようやく見渡せるほど整然としていて、こちらも心地がいい。こうして感謝をされることに慣れていなくて、どうしたらいいのか分からなくなる。
当たり前のように消費されていた努力と時間が、誰かの役に立つというのはとても嬉しいことなのだと、今更に思う。
「少しでもお役に立てたなら嬉しいです」
フィオレッタは少し居心地悪そうに微笑みながら、ティナの髪をそっと撫でた。
そのとき、ヴェルフリートが思い出したように顔を上げる。
「先ほど、城下に行きたいと言っていたな」
「はい。宿屋にご挨拶できたらと思っています」
フィオレッタが答えると、ヴェルフリートは一瞬考えるように眉を寄せ、それから静かに頷いた。
「わかった。――私も同行しよう」
「えっ、旦那様も行くんですか?」
クラウスが目を丸くする。
フィオレッタも驚いた気持ちには変わりない。
「ティナも行くのだろう? だったら俺も出る」
「え、でもこの書類はどうすんです?」
「クラウス、整えておいてくれるな」
「わー! 出た!」
ヴェルフリートはゆっくりと立ち上がり、フィオレッタとティナの前に立つ。こうして近くで立つと、ますます彼の長身に見上げるばかりになってしまう。
後ろでクラウスが頭を抱えているのは、見なかったことにした方がいいのだろうか。
「おじちゃまもいくの? やったー!」
ティナが嬉しそうに手を挙げて、にこにこと笑う。
「ああ」
走り寄ってきたティナをひょいと抱き上げたヴェルフリートは、「今度は迷子になるんじゃないぞ」と話しかけていた。
「お仕事は大丈夫なのでしょうか……?」
「………………ああ」
随分と長い無言の後、ヴェルフリートはゆっくりと頷いた。どう見ても大丈夫ではなさそうだが、フィオレッタが口を出せることではない。
「ヴェルフ……行き慣れてても、迷うことはあるからな……迷子にはなるなよ」
「わかっている」
恨み言のような声色で、クラウスがヴェルフリートに忠告をしている。二人は気安い仲であることが、そこからも推測できた。
(きっと、ティナがまた迷子にならないようにとついてきてくださるのね)
フィオレッタは小さく笑みを浮かべ、喜んでいるティナを眺める。ぷっくりとしたほっぺがとても愛らしい。
こうして、領主と契約妻と幼い娘による、ささやかな城下へのお出かけが決まったのだった。




