16 三人の朝食
厨房での手伝いを終えて食堂に入ると、朝の光が高い窓から差し込み、白いクロスの上で食器が淡く光っていた。
大きなテーブルの端では、ティナがすでに椅子によじ登るようにして座っており、ぱっと笑顔を見せる。
「フィオおねえちゃま!」
「おはようございます、ティナ」
「いっしょにたべよ! いっしょにたべよ!」
ぴょこんと手を振るティナの姿に、フィオレッタの頬は自然とゆるむ。
不思議なことに、出会ってからまだ一日も経っていない。それなのに、ティナはこうしてフィオレッタのことを慕ってくれている。
ほどなくして、扉の向こうから足音が響く。
ヴェルフリートが姿を見せると、空気が一瞬ぴんと張り詰めた。
「おじちゃま! おはようー!」
「……ああ。おはよう、ティナ」
彼の声は低く落ち着いているが、どこか柔らかい。表情の変化こそさほど見えないが、昨日の様子からしても、ヴェルフリートがティナのことを大切に思っていることは明白だ。
ティナの明るい声が、屋敷の静けさをやさしく溶かしていく。
フィオレッタはティナの隣に腰を下ろし、ヴェルフリートはその斜め向かいに座った。三人で囲む食卓は初めてだ。まだぎこちなく、どこか遠慮がちな距離を保っている。
「……昨夜は、よく眠れたか」
唐突に投げかけられた言葉に、フィオレッタは少し驚いた。
昨晩の寝台のことが脳裏をよぎり、思わず視線が泳ぐ。
「え、ええ。とても……よく眠れました」
「そうか」
短い会話。けれど、そこに咎めるような響きはなく、むしろ少し安堵の色が混じっているように聞こえた。
ヴェルフリートの方もどこか気まずそうで、パンをちぎる手がややぎこちない。
その様子を、ティナが興味津々で見つめていた。
「おじちゃまとフィオおねえちゃま、いっしょにねたの?」
ティナが屈託のない笑顔で言う。
その瞬間、フォークを持っていたヴェルフリートの手がぴたりと止まり、フィオレッタも思わずまばたきをした。
「……一緒に、というほどのものではありません。ただ、昨日はお部屋を間違えてしまって」
淡々と答えるフィオレッタに、ヴェルフリートも小さく頷く。
「そうだ。手違いだ。すぐに部屋を替えるよう手配してある」
「ずるーい! ティナもフィオおねえちゃまとねたいー!」
ティナのあっけらかんとした一言に、ヴェルフリートはこめかみを押さえる。
その横でフィオレッタは、どこかおかしさをこらえるように口元を押さえた。
「今夜からは、ティナと一緒に寝れるようにヘルマさんにお願いしたところよ」
「ほんと!? やった!」
ティナは嬉しそうに手を叩き、ぴょんと椅子の上で跳ねた。
その無邪気な笑顔に、食堂の空気がふっとやわらぐ。
「ティナ、椅子の上で跳ねてはいけませんよ」
フィオレッタは穏やかに微笑みながら、ティナのふるまいを注意した。まだ幼いとはいえ、ティナは辺境伯家のご令嬢だ。マナーをしっかり覚えておく必要がある。
(私も教育係に随分厳しく指導されたわね)
公爵家に雇われた講師はとても厳しく、うまくできないと鞭で手の甲を叩いた。それが辛くて母に訴えても、何も改善されなかった。むしろ「そんなこともできないなんて」と侮蔑の眼差しを向けられたものだ。
確かにマナーは守れるようになったけれど、結局はそこそこのマナーでもエミリアは咎められることはなかったことを思い出す。
自分がその役割であれば、鞭で打ったりはせずに、寄り添いながら教えていきたい。フィオレッタがそう考えていると、ティナは「はっ」として、ぴたりと動きを止めた。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。でも、椅子は座るところだからね。次からは気をつけましょう?」
フィオレッタが優しく微笑むと、ティナはこくこくと真剣に頷いた。
その小さな仕草に、ヴェルフリートがふと視線を上げる。
厳しく叱るでもなく、甘やかすでもない――きちんと子どもとして向き合う、落ち着いたその態度に、ヴェルフリートの表情がわずかに緩む。
「……君は、礼儀作法にも詳しいのか?」
「え?」
「いや、なんでもない」
淡々とそう言って、ヴェルフリートは視線をパン皿に戻した。
まるで何気ない一言のように聞こえるが、その声音にはわずかな興味が混じっている。
何かに気づいているのだろうか――そう思うと、フィオレッタは少しだけ胸がどきりとした。
ここの人たちには知られたくない。きっと、社交界でのフィオレッタの評判は散々なものだ。
それこそ「悪女」だと散々言われているだろうことは想像に難くない。
(いつかバレてしまったら、ここを追い出されてしまうのでしょうね)
王都から離れたこの辺境の地には、公爵令嬢フィオレッタのことを知っている人はいない。だからこそ、こうしてのびのびと過ごすことができている。
先ほどの厨房でのことは、本当にオルドフだったのだろうか。考えすぎで幻聴が聞こえた?
「おねえちゃま、どうしたの?」
食事をする手が止まっていたことに気づき、フィオレッタははっと我に返った。
「おねえちゃま、どうしたの?」
ティナが小首をかしげ、心配そうに覗き込んでくる。
その無垢な瞳に見つめられると、胸の奥の不安が一瞬だけ薄れていく。
「ううん、なんでもないわ。スープがとってもおいしいなって思っていたの」
フィオレッタは柔らかく笑みを作り、スプーンを手に取る。
今日のスープは、地元で採れた根菜をじっくり煮込んだポタージュだと言っていた。とろりとした舌ざわりの中に、ほんのりと甘みが広がる。
「ティナもすき! あまいの~」
「ふふ、ほんとうに。やさしい味ね」
スプーンを口に運ぶたび、体の芯まであたたまっていくようだった。
香草の香りが後味にやわらかく残り、粗くつぶされた人参やじゃがいもの食感が心地いい。
フィオレッタは思わず目を細める。
この土地の人々が、寒さの厳しい季節を越えるために工夫して作り出した、心まで満たされるような味。
それは、王都のどんな豪華な料理よりも温かく感じられた。
ここでは、ただのフィオとして生きられる。
そう思うだけで、ほんの少しだけ息がしやすくなった。




