15 朝の支度
翌朝。東の空が白み始めた頃、フィオレッタは見慣れぬ天井を見上げながらゆっくりと目を開けた。
柔らかな寝具に包まれて眠ったのは、いつ以来だろう。
(ええと……昨日は確か)
寝ぼけた頭を振って起き上がり、そっと寝台から降りる。ヴェルフリートはもう姿がなく、寝台はひやりとしていた。どうやら、彼は夜明けとともに執務に出たらしい。
(きっと朝食の支度があるわね。せめて何か手伝えたらいいのだけれど)
寝間着の裾を整えていると、扉の向こうから軽いノックの音がした。
「奥様、失礼いたします」
おずおずと入ってきたのは、ヘルマと昨日案内をしてくれた若い侍女だった。
彼女たちは整った所作で礼をすると、にこやかに微笑む。
「お目覚めになられたのですね。お加減はいかがですか?」
「ええ、よく眠れました。……それにしても、朝からお仕事が早いのですね」
「旦那様が早くに執務室へ向かわれましたので、屋敷も慌ただしくて。よろしければお支度をお手伝いさせてくださいませ」
二人に促され、フィオレッタは朝の支度を始める。
彼女たちがクローゼットを開けると、中にはワンピースやドレスがきちんと吊されていた。いつの間に用意されていたのだろう。
「まあ……こんなに。これを?」
「はい、旦那様のご指示でございます。お召し物にお困りではないだろうかと」
「まあ……」
胸の奥が少しあたたかくなった。昨夜はあんなに気まずかったのに、ちゃんと気遣ってくれている。
「では、このワンピースをお願いします」
フィオレッタは一番左にある淡い灰青のワンピースを選んだ。飾りが少なく、シンプルで動きやすそうだ。
これならティナと遊びやすいだろう。
「はい、分かりました」
侍女たちは器用な手つきで着替えを手伝うと、髪を梳き、柔らかくまとめてくれた。
鏡の中の自分は、前よりずっと穏やかな顔をしている気がする。
(不思議ね。ティナに会うからかしら?)
フィオレッタは少しだけ考え、そっと言葉を添える。
「朝食の準備ですけれど、私もお手伝いしてもよろしいかしら?」
「え? 奥様が、ですか?」
若い侍女が目を丸くする。貴族夫人が台所に立つことなど、まずないのだろう。
けれど、フィオレッタは柔らかく笑った。
「宿屋にいた頃、厨房を手伝っていましたの。お手伝い程度なら慣れていますし……屋敷の方々とも少しずつお話できたらと思って」
「まあ……!」
ヘルマが感激したように両手を合わせる。
「もちろん大歓迎でございます。皆も喜びますわ。ちょうど厨房ではスープの仕上げをしております。奥様のお顔を見せなくてはね。どうぞ、こちらへ」
そう言って、彼女たちは先に立ち、フィオレッタを案内した。廊下には朝の光が差し込み、石造りの壁を柔らかく照らしている。
軽い足音が響くたびに、どこか新しい朝を踏みしめるような気持ちがした。
足音がこつこつと響く中、若い侍女が少し緊張したように口を開く。
「……あの、フィオ様。昨日の夜、ティナ様が『フィオおねえちゃま』と夢中でお話されていました」
「まあ、そうなのですね」
「はい。とっても楽しそうに……。ティナ様、あんなに明るいお声でお話しされるの、久しぶりでした」
フィオレッタは驚きとともに、胸がじんと温かくなるのを感じた。
この若い侍女は、ティナの寝かしつけを担当しているのだろうか。
(今夜は私もティナと眠ることは可能かしら。あっ、そうだわ)
「すみません、ヘルマさんにお願いがあるのですが」
「はい、どうされましたか?」
「昨日、手違いで旦那様の寝室に案内されたのですが、今日からはティナと一緒に寝てもいいでしょうか?」
「あらあら」
丁寧に頭を下げると、ヘルマはすぐに頷いた。どことなく楽しんでいるような気がするのは気のせいだろうか。
「残念ですけれど承知いたしました。そのようにすぐ手配しますね。クラウス様から預かっている荷物は、ティナ様の隣の部屋に移してもよいでしょうか?」
「はい、とても助かります」
「ティナ様もお喜びになりそうですね」
若い侍女の言葉に、フィオレッタの頬が自然とゆるむ。
あの小さな手の温もりを思い出すだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
「ありがとうございます。お願いします」
「いえいえ。お部屋の支度は朝食の間にすぐに整えます。どうぞ安心してお任せくださいね」
(これできっと、ヴェルフリート様は安心してお休みになれるわね)
フィオレッタはすっかり寝こけてしまっていたが、もしかしてものすごく寝相が悪いなんてことはなかっただろうか。急に不安になってきた。
城内を歩き、案内されるがままに階下の厨房に入ると、香ばしい香りと湯気が一面に広がった。
パンが焼き上がる匂い、鍋で煮込まれるスープの音。
見習いの使用人たちが慌ただしく動く中、フィオレッタが姿を見せると、一瞬だけ空気が止まった。
「おい、あれって……!」
「お、おはようございます……!?」
慌てて頭を下げる若い使用人たちに、フィオレッタはにこやかに頭を下げ返す。
「おはようございます。フィオと申します。これからお世話になります」
「は、はいっ!」
そう挨拶をすると、場の空気がふっと和らいだような気がする。
フィオレッタは袖を少しまくり、野菜を洗う侍女のそばに寄る。
「こちら、お手伝いしてもいいでしょうか?」
「い、いえ! 奥様にそんな……!」
「大丈夫よ。指示をいただければ、その通りにいたしますわ」
丁寧な口調ながらも、自然に手を伸ばして手際よく野菜を切る。
包丁の刃がまな板を打つ軽やかな音が、厨房に心地よく響く。
フィオレッタは刻んだ野菜を鍋に入れながら、ヘルマたちと穏やかに言葉を交わしていた。
「奥様、本当にお上手ですね!」
「はい。宿屋で教えていただきましたの」
「ああ、ヨエルとマルタのところですね! 二人の料理は最高ですもんね!」
「ええ。毎日食べすぎてしまったわ」
「あはは! 奥様ったら」
宿屋で過ごした日々を思い出しながら笑うと、厨房の空気が少しやわらいだ。
忙しげに立ち働く料理人たちの間にも、自然と温かい気配が広がっていく。
――そのとき。
「……悪女が」
ふと、誰かの低い声が背後からかすめた。
ほんの一瞬、空気の流れが変わった気がして、フィオレッタは手を止める。
そっと振り向いた先、厨房の入り口に長い影が射していた。
ゆっくりと遠ざかっていく黒い背。
それは、昨日廊下で出会った家令――オルドフのものだった。
(……気のせい、かしら?)
にこやかに笑うヘルマや、鍋をかき回す料理人たちは、誰も気づいていない。
フィオレッタも深く息を吸い、気づかぬふりをして手を動かすことにした。




