14 契約夫婦
その音にフィオレッタは、ふわふわの寝具に包まれながらも、反射的に上体を少し起こした。
灯りは落とされ、天蓋の隙間から月明かりが差し込んでいる。
(ヘルマさんかしら……?)
扉が静かに開く。
そこに立っていたのは――ヴェルフリートだった。
湯上がりらしく、銀の髪がしっとりと濡れている。
ゆるく着崩したシャツの胸元からは、温かな湯気がほのかに漂い、手には眼鏡とタオル。
その姿を見た瞬間、フィオレッタの頭は一気に真っ白になった。
「えっ?」
「なぜお前がここに」
同時に発せられた声が重なり、部屋の中に妙な間が流れる。
互いにぽかんと見つめ合い、状況を察しようと懸命に思考を巡らせる。
「ええと、このお部屋は……?」
「俺の寝室だが」
きっぱりとした一言に、フィオレッタの思考が停止する。ヴェルフリートの部屋。
そう言われてみれば、この部屋の調度品ややけに大きいベッドに納得がいく。
一拍の後、はっとしてベッドから飛び起きようとした。
「し、失礼いたしました! いますぐ別の部屋に――」
「いや、もういい。どうせヘルマかクラウスだろう」
そう言ってヴェルフリートは短く息を吐いた。
眉間を押さえ、明らかにクラウスの名を呪っている顔だ。
フィオレッタのせいだとは言わない。それがなぜだかうれしい。
そういえば、ヘルマはやけに上機嫌だった。今日からフィオがこの家で暮らすことになったことについては、クラウスから聞いたと言っていた気がする。
「すまない、フィオ。明日は別の部屋を用意させる」
「え、ええと……はい……」
「……」
「……」
ため息をつきながら、ヴェルフリートが言葉を落とす。
まだ頬を染めたまま頷くと、妙な沈黙が落ちた。
お互いにどこへ視線を向ければいいのかわからない。
静まり返った室内で、時計の針の音だけがやけに大きく響いている。
ヴェルフリートは短く咳払いをして、視線を逸らす。
「……とりあえず、俺はソファで休むからベッドは好きに使え」
「そ、そんな! 領主様にそんなことさせられません」
フィオレッタは慌てて首を振る。あの長椅子とヴェルフリートの体格を考えると、どう考えても身体が飛び出してしまう。それではとてもじゃないが眠れないはずだ。
ヴェルフリートがその上で横になる姿を想像しただけで、申し訳なさでいっぱいになる。
「私がソファで休みます。旅のあいだはもっと狭いところで寝ていましたから、慣れています」
馬車でも眠れたし、あのソファーくらいなら丸まって眠れば問題ない。そう思っての発言だったのだが、ヴェルフリートは眉をひそめた。
「君の方が疲れているだろう。初日から客人にソファーで眠らせるなどありえない」
「ですが……! あっ、この絨毯はふかふかですし、私は床でも大丈夫です」
「却下だ。もっとありえない」
即答だった。
ヴェルフリートの低い声に、フィオレッタはびくりと肩を震わせる。
(こういう場合、どうしたらいいのかしら……?)
やはりフィオレッタがソファーで眠るのが最適解だと思うのだが、ヴェルフリートは許してくれそうにない。そして彼をその狭い場所で眠らせてしまうのも申し訳なさすぎる。
考えを巡らせたフィオレッタは、自分が今いるベッドをあらためて見渡した。とても大きい。大人三人くらいは余裕で眠れそうだ。
「では……二人ともベッドで眠りましょう。私は端の方にいますので、ヴェルフリート様はゆっくりお休みください。きっとぶつかりません」
フィオレッタは精一杯落ち着いた声でそう言い、寝台の端を指さした。
これは最適解なのではないだろうか。我ながら良い考えだ。
だが、ヴェルフリートはわずかに目を細める。
「……君、まさか本気でそう言っているのか?」
「え? はい。大丈夫です、私、寝相はいい方だと思っています」
「問題はそこではない」
短く息を吐くその仕草に、わずかな呆れが混じっていた。
だが、フィオレッタの真面目な表情を見て、ふと眉間を押さえる。
「ではやはり、私は床に」
「だめだ。……わかった、そうしよう」
観念したように言うと、ヴェルフリートは部屋の明かりを落とし、寝台の反対側へと回った。
その動作が妙に静かで、フィオレッタの心臓がどくどくと高鳴る。
(自分から提案したのに、なんだか妙に緊張してしまうわ)
よく考えたら、誰かと同じ寝台で眠るなんて、記憶にない。夜中に起きて寂しくなった時、母のところに行ったけれど煩わしそうに追い返された記憶が一番古い。
あの頃は妹が生まれて、フィオレッタの扱いが空気のようになっていった。
一気にしゅんとした気持ちになりながら、フィオレッタは枕元のシーツをそっと整える。
寝台の上には十分すぎるほどの広さがあり、互いに背を向けても余るほどだ。
「では、暗くするぞ」
「はい」
ヴェルフリートが明かりを落とすと、部屋は月明かりだけがぼんやりと満ちた。
寝台の反対側で布がかすかに擦れる音がする。本当に、フィオレッタの後ろにはヴェルフリートがいるらしい。
「おやすみなさい、ヴェルフリート様」
「ああ、おやすみ」
短い言葉を交わしたあと、静寂が落ちる。
緊張して眠れない――そう思っていたのに、柔らかな寝具に包まれた瞬間、疲れが一気に押し寄せた。
(ああ……ふかふか……もう、だめ……)
まぶたが重くなり、ほんの数息のうちに意識が遠のいていく。隣の気配を意識する間もなく、フィオレッタの穏やかな寝息が部屋に広がった。
*
(もう眠ったのか)
ヴェルフリートはフィオレッタの寝息を聞きながら、しばらく動けずにいた。
やがてゆっくりと息を吐き、小さく呟く。
「……案外、肝が据わっているな」
突然ヴェルフリートの前に現れた、フィオという女性。気難しいティナが不思議なほど懐いたために契約結婚を持ちかけることになった。
聞けばエルグランド領には来たばかりで、突然連れてこられた領主邸の空気にも慣れていないはずだ。
それなのに、怯えるどころかあのオルドフにまっすぐに言葉を返し、ティナのために人目もはばからず行動したと聞いた。
報告を受けた後、オルドフには彼女を尊重するようにと告げたが、笑顔の下の不服そうな瞳の色は隠せていなかったように思う。
(奇妙な女だ……。だが)
ヴェルフリートは思考を中断し、目を細めた。
寝息を立てるフィオレッタの横顔には、警戒も不安もなく、ただ穏やかさだけがあった。
その姿を見ていると、なぜか胸の奥のこわばりが少しずつ溶けていく気がする。
(ティナがあれほど懐いたのも、わからなくはないな)
だがそれが何なのか、まだわからない。
ただ一つ確かなのは――この穏やかな呼吸の主を見ていると、妙に心が落ち着くということだけだった。
「……無防備なことだ」
苦笑混じりに呟くと、ヴェルフリートは視線をそらし、寝台の反対側に体を沈めた。背中の方から静かな寝息がまたひとつ響く。
それを子守唄のように感じながら、ヴェルフリートもようやく瞼を閉じたのだった。




