13 家令
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「フィオおねえちゃま、さっきのおはなをみにいきたい」
廊下に出たところで、ティナがぱっと顔を輝かせて言った。
最初は何のことか分からなかったが、フィオレッタはすぐに思い出す。
(ヘルマさんに預けた花束のことね)
花畑からここについたとき、ティナが大切そうに抱えていた小さな花束をヘルマに託したのだ。「あとで飾っておきますね」と笑っていたヘルマの言葉がよみがえる。
「ええ、行ってみましょうか」
「うん!」
「ティナ様……ティナは、そのお花がどこにあるのか知っている?」
「きっとね、えのところ」
フィオレッタが手を差し出すと、ティナはぱっと握り返してきた。
まだこの城の内部はよくわからないが、「えのところ」というのは、二人の肖像画が飾られていたところなのだろう。そこならば覚えている。
二人で廊下を歩き、階段を下りて行くと、やがて大広間の奥まった一角にたどり着いた。
そこには、黒い布がかかったティナの両親の肖像画が並んで掛けられている。重厚な額縁の下、磨かれた石台の上に、小さな花束がそっと飾られていた。
ティナが小さな手でひとつひとつ摘んだ野花の花束は、素朴ながらもあたたかな雰囲気を漂わせている。
「わたしのおはなだ!」
ティナが嬉しそうに駆け寄ろうとした、そのとき。
「お待ちなさい」
低く響く声が背後から落ちた。
フィオレッタが振り向くと、長身の老人が廊下の奥から歩いてくる。
黒の礼服をきっちりと着こなし、背筋はまっすぐ。鋭い灰色の瞳が二人を射抜いた。
「見知らぬメイド。お前は誰の許可で、ここにこのような花を置いたのかね?」
その目はフィオレッタに向けられている。ピリピリとした緊張感がその場に生まれ、ティナは驚いたのかフィオレッタの後ろに隠れてしまった。
「ここは前領主ご夫妻を偲ぶ場所です。供花はそれにふさわしいものを選ぶべきでしょう。このような野の花では、品格を損ないます」
老人の冷たい声が大理石の壁に反響する。ティナがびくりと肩を震わせ、握った手に力がこもる。
(そんな言い方……! 一目見たら、ティナが作ったとわかるでしょうに)
あえて気づかないふりをしているのか、老人は表情を変えることもない。まさか城の内部にこのような人がいると思っておらず、フィオレッタは一度小さく息を吐いた。
ヴェルフリートは把握していないのだろうか。この態度からして、この老人は城に仕える使用人の中でも、高い地位についていることが察せられた。
(きっとこの城の家令なのでしょう。ティナを尊重するつもりはないようね)
ひり、と胸の奥が痛む。
この痛みはよく知っている。かつて、公爵家の屋敷で誰にも庇われず、冷たい視線にさらされたときと同じ痛みだ。リゼがいつも近くにいるわけではなかった。
「確かに、これは高価な花ではありません」
フィオレッタは静かに言葉を紡ぐ。
「けれど、これはティナがご両親を思って摘んだものです。気持ちを届けることに、貴いも卑しいもないと思います。あなたのその考えの方が浅ましいのではありませんか?」
「おねえちゃま……」
ティナが裾をぎゅっと握り、上目で見上げてくる。
フィオレッタはその小さな頭に手を置いた。
老人の眉間に、わずかに皺が寄る。
それでも、ティナのためには一歩も引けない。
「……あなたは、なんなのですかな。見ない顔だ」
問いは静かだが、その声の奥には「何者が口を出しているのだ」という棘が含まれていた。
だが、フィオレッタは怯まず、穏やかに微笑んだ。
「私はフィオと申します。先ほどヴェルフリート様からエルグラント辺境伯夫人になるよう仰せつかりました。以後お見知り置きを」
「……な」
嘘は言っていない。異論があるならばヴェルフリートに言ってほしいものだ。
そう思いながら老人をじっと見ていると、老人の顔色が明らかに変わった。
固まったように背筋を伸ばし、わずかにたじろぐ。
「……っ、それは失礼をいたしました」
まるで言葉を探すように口を開け閉めしたあと、頭を下げかけたとき。
「まぁまぁ、オルドフさん! ここにいらしたんですか」
明るい声とともに、廊下の向こうからヘルマが小走りでやってきた。
ふくよかなその笑顔に、重くなりかけていた空気がふっと和らぐ。
「まあ、ティナ様もフィオ様もここに。お花、とってもかわいいですよねえ」
ヘルマに穏やかに言われて、オルドフの表情がわずかに引きつる。
居心地が悪そうに咳払いをして、彼はわずかに頭を下げた。
「……このたびは、無礼を。私の早合点でした。お許しを」
それだけを言い残し、オルドフは足早にその場を去っていった。
黒い背が角を曲がって見えなくなると、ティナがようやくフィオレッタの背中から顔を出す。
「……オルドフ、もういない?」
「ええ、大丈夫よ」
フィオレッタは優しく言いながら、ティナの髪を撫でた。
それから、そっと隣に立つヘルマに目を向ける。
「ヘルマさん、あの方がこの城の家令でしょうか」
「はい。オルドフといいます。あたしと同じく長くこのお屋敷に勤めていて……まあ、少しばかり厳しいんです。でも本当は、とてもいい人なんですよ」
「そうなのですね」
フィオレッタは静かに頷いた。
確かに言葉は辛辣だったけれど、ヘルマの信頼を得ているということは、それだけ責任感が強いのだろう。第一印象だけで決めつけるのも良くない――そう思い直す。
そんな彼女の心の内を察したように、ヘルマはぱん、と手を打った。
「さあさ、もう暗くなりますし、そろそろ夕食にいたしましょう! 厨房の方も準備が整っておりますよ」
「わあ! ごはん! フィオおねえちゃま、いこう!」
ティナがぱっと笑顔を取り戻し、フィオレッタの手を引く。
その小さな掌の温もりに、フィオレッタの胸がふっと緩んだ。
「ええ、行きましょう」
三人の足音が、石畳の廊下に軽やかに響く。
夕陽が差し込む回廊の先で、ようやく一日の緊張がほどけていくようだった。
***
食堂の扉を開けると、温かな香りがふわりと漂ってきた。
テーブルの上には、素朴ながらも心のこもった夕食が並んでいる。焼きたてのパンに、野菜のスープ、香草をまぶした肉のソテー。
「うわぁ~! おいしそう!」
ティナが椅子によじ登るようにして座ると、ぱちぱちと両手を合わせた。
「フィオおねえちゃま、いっしょにおいのりしよ!」
「ええ、もちろん」
二人でそろって手を合わせる。
それから一緒に目を開けて、お互いに微笑みあった。
ティナはスープをひとくち飲むなり、「あっちゅい!」と目を丸くして、フィオレッタを見上げる。
「ふうふうってするの、わすれちゃった」
「もう、あわてんぼうさんね。ほら、こうやって……」
フィオレッタがスプーンを取って見本を見せると、ティナは真似して小さく息を吹きかけ、慎重に口をつける。あたたかなスープに芯からあたたまるようだ。
パンの欠片をちぎって渡すと、ティナがそれを「どうぞ」とクマのぬいぐるみに差し出す。
「クーちゃんもいっしょにたべるの!」
「ふふ、クーちゃんもお腹いっぱいね」
「うん。フィオおねえちゃまもいっぱいたべてね!」
その屈託のない笑顔に、フィオレッタは自然と頬をゆるめた。
食堂の灯りがやさしく揺れ、笑い声が小さく弾む。
食事が終わると、湯浴をすることになった。なんとこの城には浴場があり、温泉が湧き出ているのだという。
(知らなかったわ。それに、温泉ははじめて)
「みてみておねえちゃま!」
ティナはちゃぷちゃぷとお湯をすくい、楽しそうに笑っている。
まだ出会って数時間しか経っていないのに、ティナはすっかりフィオレッタに懐いてくれている。それがくすぐったくて、うれしい。
「ティナ、暴れないの」
「むう~~」
「ほほ、ティナ様はフィオ様にべっとりですねえ」
湯から上がり、ティナはヘルマにタオルで拭かれている。フィオレッタ自身は、自分でできるからと手伝いは遠慮させてもらった。
小さな口を尖らせて、ティナが眠そうに目をこする。ご飯を食べて、お風呂であたたまったから眠たくなったのだろう。
「さあさ、お部屋に戻っておやすみしましょう。クーちゃんも待ってますよ」
ヘルマがすかさず柔らかな声で促す。
「……うん」
ようやく頷くと、ティナは名残惜しそうにフィオレッタの腕にしがみつき、ふわりと抱きついた。
その温もりが胸に残って、フィオレッタは思わず目を細める。
「おやすみなさい、フィオおねえちゃま」
「ええ。おやすみなさい、ティナ」
ティナは小さな足でとことこと廊下を歩き、ヘルマに手を引かれて角を曲がっていった。その背を見送ると、静かな夜の気配が一気に降りてくる。
「奥様。寝室はこちらでございます」
浴室をでたフィオレッタは、ヘルマに指示を受けたらしい侍女に部屋へと案内される。案内されたのは、天蓋つきの立派なベッドがある寝室だった。
中央にある寝具に手を触れると、ふわりと上質なリネンの手触りがする。
そのままベッドに大の字になる。体が沈み込み、全身がやさしく包み込まれるようだった。
目を閉じれば、ティナの笑顔と、湯気の中の柔らかな光景が思い浮かぶ。
今日一日、怒涛のような出来事だった。
まさか自分がこの城で暮らすことになるなんて。
ティナの笑顔を思い出しながら、胸の奥にまだ少し現実味のない温かさが残っている。
疲れていたのか、フィオレッタもすぐにうとうとと眠たくなる。それに抗わずに目を閉じようとしたそのときだった。
――がちゃり、と扉のノブが回る音がした。




