12 ものは試し
「つまり……私は、その……ティナ様のお世話をする、侍女のような役目ということでしょうか?」
彼女の問いに、ヴェルフリートは首を横に振った。
そして、真っすぐに彼女を見つめる。
「違う。あの子の母親の代わりとして、傍にいてほしい」
「……え?」
思わず言葉を失う。
ヴェルフリートは重ねて言葉を紡いだ。
「ティナは、誰かに寄り添ってもらう時間が必要だ。だが、俺にはそれを与える余裕がない。城の者たちは皆よく働いてくれるが、どこかで領主の子として扱ってしまう。あの子に必要なのは、それではないだろう」
そこで、少し声が低くなった。
真摯でありながら、どこか苦しげな声音。
「君には私の妻になってもらいたい。もちろん、夫婦としての役割までは求めるつもりはない。あくまで君がこの城で動きやすくなればと」
「……ティナの、あの子の母親役ということでしょうか?」
「ああ。この城に滞在し、ティナと共に過ごしてくれればそれでいい。まずは……そうだな、三ヶ月。その間、あの子の心を見てやってほしい」
フィオレッタは息を呑んだ。
頭では理解しているのに、胸の奥がなぜか強く鳴る。
「そんな大役、私に、勤まるかどうか……」
これまで十九年間、公爵令嬢として、王子の婚約者として過ごしてきた時間は全て無に帰した。
認めてもらうために費やした時間もフィオレッタの努力も、何も残っていない。
「君ならできるはずだ」
だが、フィオレッタの迷いを裁ち切るかのように、ヴェルフリートは言い切った。
「ティナが笑っていた。あの子があんな顔を見せるのは久しぶりだ。それに裁縫や女主人としての仕事も問題なさそうだという報告があがっている」
青い瞳が、まっすぐに彼女を捕らえる。冷たさではなく、確かな信頼の光を帯びていた。一体いつの間にそんな報告が彼に渡ったのだろうか。
と、次の瞬間。
バサバサバサ、と乾いた音が執務室に響いた。
机の上に積まれていた書類の山が、重みに耐えかねて雪崩のように崩れ落ちたのだ。
「大変!」
思わず駆け寄ったフィオレッタは、散らばった書類を手早く拾い上げる。
拾い上げた紙束に視線を落とすと、目に飛び込んできたのは貴族家の紋章、令嬢たちの名前、家柄などが書かれた肖像画付きのものだった。
(これは……釣書だわ)
婚約の申し込みを受けるために、相手の家に送るものだ。これだけの量があるということは、ヴェルフリートはかなりの縁談を持ちかけられているのだろう。
(なるほど……名目上の妻が必要というのは、そういう理由でもあるのだわ)
「ヴェルフリート様にとっても、妻がいる方が都合がよいのですね?」
「そうだな……香を焚きしめた手紙を大量に送られては仕事にならない」
ゲンナリとした顔をするヴェルフリートを見て、フィオレッタは手の中の書類を整えながら唇を開いた。なるほど、確かに香水の匂いが混ざるとものすごいなと思いながら。
「お話は理解しました。けれど、その……私も生活を立て直している途中でして。手元の蓄えも心もとなく、城に滞在するとなると、生活に支障が出るかもしれません」
慎みを保ちながらも、視線だけは逸らさなかった。
「ここで過ごせば、衣食住の保証があると思ってよいでしょうか」
フィオレッタは追放されて来た身だ。宿屋に置いてもらっているとはいえ、いつまでもリゼたちの親切に頼っているわけにもいかないだろう。
わずかな沈黙ののち、ヴェルフリートの口元がかすかに緩む。
「当然だ。その点は心配しなくていい。屋敷での滞在費はすべてこちらで負担するし、必要ならば専属の部屋と衣服も用意しよう」
「ありがとうございます。ドレスは女主人としてふさわしい装いのものが数着あれば結構です」
その返答を聞いた瞬間、ヴェルフリートの瞳が少しだけ和らいだ。
「分かった。そういうことなら、こちらも準備を進めよう」
静かな声が執務室の空気に溶けた、そのとき――。
「フィオおねえちゃまー!」
勢いよく開いた扉の向こうから、ティナが駆け込んできた。
クラウスが慌ててその後を追い、片手で扉を押さえながら苦笑いを浮かべる。
「こらこらティナ様、旦那様のお話が終わってからって言ったでしょうに」
「でも、でも! フィオおねえちゃまがいなくなっちゃうかもっておもったの!」
小さな体で必死に訴えるティナに、フィオレッタは思わず笑みを洩らす。
「大丈夫。いなくなったりしないわ」
そう言って膝を折り、ティナの頭をそっと撫でた。柔らかな髪が指の間をすり抜ける。
(私が、この子の母親の代わりになる……うまくできるかわからないけれど)
それでも、一人にしたくないと思ってしまったのだから仕方ない。
それが今のフィオレッタの願いであり、これからの生きる意味に思えた。
(不思議ね。出会ってすぐの人たちの方が、私の事を認めてくださるだなんて)
胸の奥に、ひとすじのあたたかい思いが点る。
ティナの笑顔と、ヴェルフリートの静かな眼差しに包まれながら、フィオレッタは小さく息をついた。
この場所で、生き直せたら。
自分のことが好きになれそうな気がした。
「フィオ様。ものは試しっていうことで、このヴェルフをよろしくお願いしますね~!」
クラウスの明るい声が執務室に響く。
「どういう意味だ、クラウス」
「いやお前……なんか夫とか上手く出来なさそうだし。ま、オレらもフォローするからさ! ねっ、ティナ様」
「おー!」
お試し。そう、この仮初の期間は永遠に続くものではない。
それでも、ティナがぴかぴかの笑顔で拳を突き上げている。
「はい。私こそよろしくお願いいたします」
この笑顔が守れますように。
こうしてフィオレッタは、エルグラント辺境伯家の新しい日々へと足を踏み入れることになったのだった。
「それじゃあ、フィオ様の荷物は僕が宿屋まで取りに行っておきますね」
クラウスが軽く手を振る。
「宿屋の主人にもちゃんと説明しておきます。すごく驚かれそうですよね」
「そうですね。こちらにきてなにかと面倒を見てくださいましたから……」
リゼとその娘夫婦が手を差し伸べてくれなければ、フィオレッタは今頃どこで何をしていたかわからない。
いくら感謝してもしきれないほどだ。
「まあでも、ヨエルさんなら分かってくれるでしょう! それじゃ、すぐ戻りますから。ティナ様と遊んでてくださいね。旦那様は仕事終わらせといてくださいね」
「は、はい!」
「……」
クラウスは軽く手を振って廊下を去っていった。
その背を見送りながら、ヴェルフリートは少しだけ険しい顔をして机の方へと戻るっていく。あの山盛りの書類をこれから片付けるとなると、とても大変そうだ。
「私はまだ仕事がある。夕食はティナと二人で食べておいてもらえるだろうか」
「フィオおねえちゃまとごはんたべていいの?」
「ああ」
「やった~!!」
ヴェルフリートの言葉にティナは勢いよく飛び上がり、ぱたぱたとその場で跳ねた。ふわふわの巻き毛が上下に揺れ、頬はりんごのように赤くなっている
「フィオおねえちゃまといっしょ! クーちゃんもいっしょにたべる!」
「ふふ、それは楽しみね」
子どもの笑い声が広い廊下に反響して、重かった空気が少し軽くなる。
ヴェルフリートは一瞬だけその光景を見やり、すぐに視線を手元の書類へと落とした。とても忙しそうだ。
「では、失礼致します」
フィオレッタは退室の挨拶をして執務室をあとにした。




