10 裁縫
「クーちゃんにも、おようふくがあったらいいのになあ」
ティナがマグカップを抱えたまま、膝の上のクマのぬいぐるみを見つめてつぶやいた。丸い耳が少しほつれていて、抱きしめられすぎた毛並みがところどころ寝ている。
どうやら、ずっと一緒にいるせいで少しくたびれているようだ。
「お洋服……」
フィオレッタは瞬きをして、その小さな手元を見つめた。
ポーチの中には裁縫道具と、白いハンカチが入っている。
(そうね……少し工夫すれば、この子にも服を着せてあげられるかも)
「あるもので、作れるかもしれないわ」
「つくれるの?」
ティナのすみれ色の瞳がぱっと明るくなる。
「フィオおねえちゃま、つくって!」
「ヘルマさん、針と糸はお借りできますか? できれば細めの針と、青や生成りの糸があれば助かります」
「はい、すぐにご用意いたします!」
手持ちの糸だけでは少し心許ない。思い切って頼んでみると、ヘルマは嬉しそうに小走りで奥へ消え、ほどなく裁縫箱を抱えて戻ってきた。
「こちらに。糸はどんな色でもございます。布もいくつかありますし、他の道具も使っていただいて問題ありません」
「ありがとうございます。では、こちらの布とこのハンカチを使います」
フィオレッタは自分のハンカチを広げた。端は小さなブランケットステッチで留められ、繊細な白糸の刺しゅうが角にひとつ。胸元に結べるよう、細いリボンも取り出す。
「ティナ、クーちゃんを少しだけ貸してくれる?」
「うん! クーちゃん、ちょっとだけ、がまんだよ」
フィオレッタは受け取ったぬいぐるみをやさしく抱え、寸法を測るように指で布の上に置いた。
「このくらいの丈でどうかしら。座った時に裾が邪魔にならない長さにしましょう」
「そうする!」
ティナが身を乗り出す。フィオレッタはぬいぐるみと布地を見比べながら、デザインを頭の中で組み立てている。
「ここを折って……ベストの形にしましよう。縫い目は極細の半返し縫いで……」
「おねえちゃま、ゆび、はやい……!」
「まあ……見事なお手元。あたしにも一応お仕立ての基礎はございますが、ここまで正確なお針は、なかなか見ません」
ヘルマが感心して息をのむ気配がする。
フィオレッタは微笑を浮かべ、縫い代を内側へ滑らかに倒した。
「よし、仮合わせをしましょう。クーちゃん、お待たせ」
「クーちゃん、きがえるよ!」
布地は小さなベストになった。ハンカチを使ってフリルを作り、肩にかわいらしい飾りをつける。これは、ティナが今着ているワンピースのデザインを真似たものだ。
そういえば、フィオレッタにも昔、大好きだったぬいぐるみがあったことを思い出す。途中で妹がそれを欲しがり、断ったけれど『姉ならば譲るものだ』と母に強く責められて渡すことになった。
(あの時は一週間もしないうちに、ぐちゃぐちゃの状態で返ってきたのだったわね)
そのときのフィオレッタでは修理ができず、結局捨てることになってしまった。妹は口では謝っていたけれど、きっと悪いとは思っていない。いつだってそうだ。
思い出したくないことまで思い出しながら、その時の気持ちをぶつけるようにフィオレッタは無心で最後の仕上げをした。ボタンを一つつけて、それで着脱できるようにする。
元からつけていたリボンを首元につけると、クマのぬいぐるみをおしゃれにすることができた。
「できた。どうかしら?」
「わあぁ……! クーちゃん、かわいい!」
「なんて可愛らしいこと……。縫い目もまるで見えませんわ」
ティナが両手で頬を挟むその横で、ヘルマも目を丸くしている。
喜んでもらえて嬉しい。その達成感がフィオレッタの胸の奥にじわじわと広がってゆく。
「ティナの髪に結べる小さなリボン飾りもおそろいで作ろうかしら。クーちゃんと同じ色にするわね」
「え~~~ほしい!」
フィオレッタは余った布を使って、素早く小さなリボン飾りを作った。
「できたわ。ティナ、髪、少しだけ触ってもいい?」
「もちろんいいよ!」
くるくるの亜麻色をそっと撫で、耳の横でリボンを結ぶ。子供の髪は細くて繊細だ。髪を引かないよう、指先でふわりと持ち上げながら形を整える。
「痛くはない?」
「だいじょーぶ! みてくる」
ティナは部屋に置かれた姿見の方へと走り、鏡の前でくるくる回っている。
そのときだった。客間の外から、軽やかなノックの音が響く。
「失礼しまーす。少しお邪魔してもいいですか?」
穏やかな声とともに扉が開き、金茶の髪をした青年が姿を見せた。
青灰色の瞳が一瞬で部屋を見渡し、すぐにティナとフィオレッタへ視線を向ける。
「おや、ティナ様。元気そうでよかったです。旦那様が心配しておられましたよ~」
軽く頭を下げながらも、その口調はどこか軽妙だ。
整った顔立ちに明るい笑みを浮かべ、室内の空気を一気に柔らげた。
「ねえ、クラウス! 見て! クーちゃんのおようふく、フィオおねえちゃまにつくってもらったの!」
「おお、こりゃあ見事ですね。クー様、すっかりお洒落さんじゃないですか」
クラウスはわざと大げさに感嘆してみせ、ぬいぐるみを掲げているティナを褒めちぎった。ティナが嬉しそうに笑うと、彼もつられて口元を緩める。
そんな二人を見ていると、彼とぱちりと目が合った。
するとクラウスと呼ばれた男性は、胸の前に手を置き、フィオレッタに向かって深々と頭を下げる。
「ええっと、フィオ様ですね。初めまして。私はクラウス・ベルナーと申します。旦那様のそばで、まあ側近兼雑用係みたいなことをしてます」
顔を上げたクラウスの語り口は軽妙だ。フィオレッタも慌てて頭を下げる。
「フィオといいます。ティナとは川辺で偶然出会って……」
そこまで言って、はたと気がついた。
思い出すのは、広間の肖像画に描かれた亜麻色の髪の少女。肖像画にいた少女がティナであれば、彼女は辺境伯家の御令嬢ということになる。
先ほどから皆が『ティナ様』と呼んでいたことに今更気がついた。今となっては平民同然のフィオレッタが、気軽に名を呼んでいい相手ではないだろう。
「いえ、ティナ様がお困りのようでしたので、お手伝いをしただけです」
そう言い直すと、クラウスは穏やかに笑った。
青灰色の瞳が、からかうようでいて優しく光る。
「さて。強引に連れてきておいてなんなのですが、旦那様は今、少し急ぎの書類に目を通しておられます。お時間がかかりそうなので……もしよければ、庭園でもご案内いたしましょうか」
「いいんですか?」
「もちろんです。待っている間、退屈されてもいけませんからね。――ティナ様もいかがです?」
「いく! フィオおねえちゃまと、いっしょにいく!」
「おや、ティナ様はすっかりフィオおねえちゃまにべったりですね」
ティナの弾むような声に、クラウスは笑みを深めた。
ティナがぬいぐるみを抱えて立ち上がると、彼は扉を開け、手で軽く道を示す。
「では、ご案内します。階段を下りてすぐのお庭です。陽が傾く前に戻りましょう」
石畳の回廊を抜けると、外の空気がやわらかく頬を撫でた。
春の陽射しの中で、白い壁と緑の蔓がゆるやかに揺れている。
けれど、花壇の一角はどこか寂しげだった。
「思っていたよりも、静かな庭ですね」
「ええ。実はここ数ヶ月あまり手が入っていないんです。旦那様も領地の仕事が立て込んでおられて、どうにも後回しになりまして」
クラウスが苦笑を浮かべる。
広い敷地に、淡い花がぽつりぽつりと咲いているだけ。
それでも、よく見ると花の並びや樹木の配置には計算が感じられる。
ティナはぬいぐるみを胸に抱いたまま、目をきらきらと輝かせていた。
「おはなが、すくないの……どうしたら、いっぱいさいてくれるのかなぁ」
「そうね……」
問いかけられて、フィオレッタは少し考えた。
無意識のうちに、昔教えられた知識が口をつく。
「このあたりは風が通り抜けるのね。だから、背の高い花よりも、地をはうように咲く種類を植えるといいと思うわ。たとえば、スイートアリッサムやビオラ、それにカモミールもいいかもしれない。初夏まで長く咲いてくれるわ」
「へぇぇ……!」
ティナがぱっと笑い、クラウスが感心したように頷いた。
「庭師の方はいらっしゃらないんですか?」
「あ~~えーーっと、そうですね」
「?」
フィオレッタが尋ねてみると、クラウスの回答は歯切れが悪い。
(何かおかしなことを聞いてしまったのかしら)
不思議に思っていると、ティナがフィオレッタの手をぎゅっと握った。
上からは丸いほっぺと、突き出すような可愛らしい唇だけが見える。
「今は……特に、常駐の者はいません。季節の手入れだけを外から頼んでいまして」
妙に丁寧な答え方だ。庭師を常駐させない場合があることも知っているが、その裏にある何かを感じ取って、フィオレッタはその言葉をまるごと受け入れることにした。
「そうなのですね。だったらある程度自由にお庭作りをしていいのかしら」
「はい。ティナ様の花壇なんかも作れますよ」
クラウスが答えると、ティナがぱっと顔を上げる。
「やる! フィオおねえちゃまといっしょに!」
「まあ、私と?」
「ぜったいにやる~~!」
そうは言っても、フィオレッタは現状この辺境伯家と無関係だ。困った顔をクラウスに向けると、そちらもまた困った顔でフィオレッタの方を見ていた。ティナのお世話には随分手を焼いていそうだと直感で分かった。
庭の風が髪を撫で、遠くで鐘の音が鳴る。
その音に、クラウスがちらりと城の方へ目を向けた。
「どうやら、旦那様がお戻りのようです。そろそろ参りましょうか」
「はい。わかりました」
「あの、フィオおねえちゃま……」
か細い声がした方を向くと、もじもじしているティナの小さな手がこちらに差し出されていた。
小さな手をそっと握り返すと、ティナは途端に笑顔になる。
(手をつなぐだけでこんなに喜んでくれるなんて……なんなのかしら、この気持ち)
フィオレッタの胸の奥に不思議な温もりが広がる。
フィオレッタの少女時代に家族とのあたたかな思い出はほとんどない。大人になってからもそれは変わらないけれど。
それでもこうしてティナが笑ってくれると、あの頃の自分を掬い上げられたような気持ちにもなるのはどうしてだろう。
クラウスはフィオレッタたちを見て、ふっと口元を緩める。
「……うーんなるほど。そうなるか」
「え?」
「いえ、なんでも。――では、お二人とも、こちらへ」
どこか満足げに言って、クラウスは二人を先導する。
(領主様に、ちゃんと聞こう)
今フィオレッタの思っていることは全て憶測だ。ティナの両親のことについて聞くくらいは、きっと許されるはず。
庭を渡る風がやさしく頬を撫で、彼女の心を静かに揺らした。




