鬼ババア
私のルーティンは朝、五時に起床して東の離れにある小さな滝のある池で禊をする。
この滝のある池、屋敷の周りを円形の川となり屋敷の外に流れていく。
川の流れは気の流れ。
流れがあることで運気もまた、悪い気を流して新しいよい気を取り込むのだという。
こうしてクソ冷たい水に浸かっていると、自分の体の悪いものが抜けていく感覚がある。
体ガタガタ震えるけれどね。
とりあえずお腹に力を込めて、光が臍に集まるイメージで纏うと寒さが軽減する。
魂はお臍の近くにあるらしい。
だから霊力を光のイメージを作り、それでお腹を守るのだ。
イメージするだけで身を守れるのだからお得だよね。
「なにをしているの!」
「ひゅっ!」
そろそろ上がろうかな、と思って岩畳の上に置いていたタオルを引き寄せようと振り返った瞬間だ。
劈くような声に縁側の方を見ると鬼ババア!
「お前の離れはここじゃないだろう! なにをしている!? 勝手に清泉の中に入って!」
「お清め……禊してる」
「勝手なことをするな! そんなことをしてもお前はこの家の後継などにはならない!」
「ぎゃっ!」
近づいてきたと思ったら、鬼ババアに扇で殴られた。
いや、マジで殴られた。
こめかみに響く痛烈な音と、鋭い痛み。
岩に囲われている池に、またぼちゃん、と頭ごと沈む。
「ゲホッ、ゲホッ! ブボっ!」
「まったくなんて生意気なのかしら! ただの居候の分際で、我が家の施設を無断で利用して! 学校に通わせてやっているっていうのに感謝もしない!」
顔を上げようとしたら足でまた水の中に鎮められる。
嘘でしょ、息できない!
まずい……死ぬ、死ぬ!?
「穢らわしいあの女の娘が! あの女の血を継いで! ああ気持ちが悪い! わたくしの可愛い怜ちゃんを汚したあの女! ああああ! 気持ち悪い気持ち悪い!」
「ぶっ、ごっ、おぶっふっ!」
頭が! 何度も! 蹴られて……!
「!? なに!? 足が――」
「ゲホッ、ゲホッ! ゲボッ……ごぶっ……」
「出ておいで、真宵」
秋月の声に向かって手を伸ばす。
手を掴まれて、岩の縁から引っ張り上げられた。
あの鬼ババアの足は、秋月が掴んでいる。
助けてくれたんだ……。
「ゲボッ……」
「なんなの!? なにかに掴まれている!? くっ! なんなの!」
「経を唱える判断もできないとはね。ほら、こちらにおいで、真宵。ゆっくり息をして。ゆっくり」
「は、はっ……ぐっ、はっ……はあ……あ、ありがと……しゅう、げつ……」
「っ!?」
背中を撫でてもらうと息を整えやすくなる。
なんだか静かになったな、と恐る恐る見上げると鬼ババアは青い顔をして私を凝視していた。
な、なに?
「しゅ、秋月……ですって……? お前、秋月が見えるの……!?」
「……はあ……はあ……」
「菊子は僕のことが小さい頃は見えていたからね。本当に幼い頃……五歳くらいの頃。僕のことを忘れているのだと思っていたら、まだ覚えていたんだ?」
そう、なんだ。
でもそれがなに?
「見える。話せる。それが、なに?」
睨みつける。
明確な攻撃を受けたんだから当然でしょう。
鬼ババアはやっぱり私の敵!
私の命を脅かすやつ、絶対負けない。
今回は……まさかここまでされると思わなかったから、一方的にやられちゃったけれど。
秋月に背中をずっと撫でてもらえたおかげで、だいぶ息が整った。
だから睨みながら言ってやると鬼ババアはわなわなと震えて唇を噛むと、勢いよく立ち上がる。
「うぅそよ! そんな嘘を! 誰から聞いたの、秋月のことを! あの売女の娘が生意気にも秋月を見たり話したりだなんて……そんな価値がお前にあるわけがないだろう! 怜ちゃんを誑かした醜女の娘如きが!」
「っ!」
着物の裾を翻し、左足で私を踏み潰そうとする鬼ババア。
最初は未来で私を祟り神にする、というところからそう呼んでいただけだけれど、なんの比喩もなくこの祖母は鬼女だ。
もう、顔が鬼女。
秋月が私を庇うように抱き締めて、覆い被さる。
何度も何度も蹴りつけられるが、そのすべてを秋月が背中で受け止めた。
「秋月……秋月!」
「大丈夫だよ。痛くはないから」
「でも……!」
「この! クソ! この! 売女の娘が! 化け物が! ふぬぅ!」
最後に一発。
でも、それも秋月が受け止める。
痛くないって言ったって……!
「お前はしばらく食事抜きよ! 蔵で反省しなさい! 誰か! この小娘を蔵に閉じ込めておきなさい!」
「は、はい。ただいま……」
気づくと女中が四、五人が集まってきており、私の体を持ち上げて鬼ババアから逃げるように蔵の方に向かう。
蔵なんて存在自体知らなかったけれど、北側の離れの横にあった。
その中に放り込まれ、外側からかんぬきをかけられる音。
嘘でしょ……私、濡れねずみのままなんだけれど?
「痛い……っ」
しかも頭痛い。
なんとか上半身を起こすと、頭から血が滴れる。
床にポタタ……と血痕。
「さいあく……」
寒さと頭の痛さでまた床に倒れ込む。
マジで最悪。
なんだかサウナに入ったかのように、息苦しさと体を包むような熱を感じ始めた。
頭がガンガンと痛む。
こんなところで死にたくないのに、体の芯は急速に冷えていくようだ。
体の表面はどんどん熱くなっているのに。
これって熱?
ヤバい、怪我から来ているのか悪意の念に影響を受けたのか、どっちかわからない。
だめだ……眠い。
体の芯は寒いのに、体の表面が暑くて、頭は痛くて……瞼が開けていられなくて……まるで、これ、前世の最後の時みたいな――。