第三話
午前1時過ぎ。
3階の片隅で、羊は呆然と立ち尽くしていた。羊だけではない。今しがた部屋で起きた凶行に、誰もがショックを隠せなかった。死んでいる。ついさっきまで元気だった蛇使い同好会会長・蛭間恵介が、物言わぬ死体となって発見された。
羊たちの目と鼻の先で。壁一枚挟んだ、鍵のかかった部屋の中で……蛇の毒牙にかかって。
「……貴方がたが殺ったんじゃないでしょうね?」
皆が顔を青くして沈黙する中、口火を切ったのはフェリー船員の神狩だった。セーラー服を着た神狩が、ジロリと集まっていた面々を睨んだ。
「貴方がたは蛇使いなんでしょう? 笛か何かで……部屋にいる毒蛇を操って、殺させるくらいワケナイんじゃないですか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」
笛担当・ペットショップ店員の森山が慌てたように声を上擦らせた。
「いくら何でも、そんな芸当仕込めるはずが……!」
「……本当ですかぁ?」
「蛇っていうのは、あれは音じゃなくて、動きに反応してるのよ」
見かねた獣医の清水が助け舟を出した。
「蛇には耳がないの。正確には体の中に内耳があるんだけど……耳の穴はない。蛇が踊ってるように見えるのは、あれは、実は笛や手の動きで蛇を威嚇してるだけなのよ」
「へぇ……」
「俺たちはあの時、全員部屋の外にいた」
バイヤーで器具担当の香鳥が低く唸った。
「壁越しに蛇を操るなんて真似、誰にも出来っこない」
廊下に出る。部屋の扉には再び、しっかりと鍵がかけられた。中に死体を残したまま。それに、もしかしたら、蛇も。
正直、閉じ込めたかどうかは分からない。あるいは換気口程度の穴があれば、蛇だから、そこから抜け出ているかもしれなかった。だとしたら、恐怖は、毒蛇の殺意はまだ続いているということになる。もしかしたら今頃自分の部屋に潜り込んでいるのかも……あまりゾッとしない話だった。羊はブルッと体を震わせた。
「少なくとも血清は、後6本はあるわ」
清水が憂鬱そうな面持ちで告げた。
「会長が持参していたかどうかは定かではないけど……今更部屋に入って探す勇気は、正直無いわね」
それについては皆も同じ気持ちだったようだ。すると、廊下の向こうが俄かに騒がしくなってきた。乗客たちが楽しそうにデッキへと登っていくのが見えた。ちょうど橋の下を通る時間になったのだ。再び沈黙が訪れる中、騒ぎを聞きつけた船長の久高が飛んできた。
「とっとにかく……」
50過ぎの船長は、眉間に皺を寄せながら皆を見渡して言った。
「船は後数時間で目的地に着きます。現地の警察と、病院にも連絡して……保健所も呼んだ方が良いかな?」
「途中で何処かの港に寄れないんですか?」
羊は思わず口を挟んだ。
「だって、人が死んでるんですよ?」
「しかし、それをどう説明する?」
船長の目が昏く光った。
「この船に毒蛇が潜んでいます、なんて他の乗客に知れてみろ。パニックになるかも知れん。そうなったら、最悪、蛇より怖いことが起きる」
確かに。羊は廊下の向こうで、展望デッキに登っていく他の乗客を遠目に見た。家族連れ。友達同士。何だか勉強嫌いそうな男子と、人間嫌いそうな女子高生のカッブル。よもや此処に死体があるとは露知らず、皆、楽しそうにしている。
数十名、いや寝ている乗客や船員も含めたら、全部で数百名はいるかも知れない。『タイタニック』は映画だから美しい。現実に起きたら、恐怖でしかなかった。
「病人が出たので緊急寄港します、じゃダメかな?」
森山がおずおずと尋ねた。
「ほら。蛇のことは出来るだけ黙ってて、さ」
「……賠償金などのことを考えると、出来るだけ他の乗客は目的地に届けたいのが本音ですね」
船長の隣で、船員の神狩が淡々と答えた。
「ウチの会社だって正直カツカツですし。そんな、何百人も遅延補償してる余裕なんて無いです。もし緊急寄港となると、そこから船の捜索や、警察の捜査が入る。そうなると長時間拘束は免れないでしょう。どのみち明け方には着く。後数時間です。此処はもう突っ走って、向こうで対処した方が」
「でも……」
「大丈夫。鍵はかけましたし。窓は開かないし。抜け穴と言っても、この部屋には風呂も洗面台もない。あるのはエアコンの通気口くらいですよ」
神狩はそう言ってカードキーをゆらゆら揺らした。
「それだって外の換気扇に繋がってる。仮に蛇がフィルターを突き破って通気口に潜り込んでいたとしても、今頃海の中だ」
「…………」
「後は船長」
神狩が久高を振り返った。
「貴方が決めることです」
「…………」
船長はしばらく黙って、頭の中で何かを天秤にかけていたようだったが、やがてゆっくりと重い口を開いた。
「進もう」
こうして羊たちは、死体を乗せた船の中で、毒蛇が乗っているかも知れない船の中で、朝まで過ごすことになった。死体のことは、蛇のことは他の乗客には内密にするように。船長の通達に、皆が黙って頷いた。
「他の部屋を用意できないかしら?」
じゃあ解散、というタイミングでたまらず清水が声を上げた。
「私たち、会長の隣の部屋に泊まってたんだけど……さすがに怖くて」
「空いている部屋を提供しましょう」
神狩が頷いた。
「幸いこの区画を借りていたのは貴方がただけのようです。この付近は朝まで、封鎖していた方が良いな」
部屋に戻る頃には、すでに2時を回っていた。羊は改めて廊下を振り返り、閉ざされた扉を見た。
鍵のかかった部屋で起きた、蛇の毒による不慮の事故。
……果たして本当にそうだろうか?
「下手に動かないことね」
別れ際、清水が羊に忠告した。
「蛇って、元々大人しい生き物なの。こっちから刺激しない限り、襲ってきたりしないわ。ジッとしてるのが一番」
「……ありがとうございます」
羊は上の空で頭を下げた。
何かが引っ掛かる。
それが何かは分からないが。波が荒れてきた。相変わらず月は出ていない。目的地まで、後数時間……。