第9話 覚悟の残響
傷だらけの床に、血が滲んでいる。
コンクリートの壁際、ハルは腹を押さえて俯せに倒れ込んでいた。ケイトは壁にもたれて肩で荒い息をつき、右脚はまともに動かない。シノは膝を抱え、壊れた端末を胸元で強く握りしめている。
物陰では、ハクが自分を小さく抱きしめ、顔を上げることもできずに震えていた。
天井の暗がりから、闇に溶け込むように影が降りてくる。人間とも獣ともつかない、その輪郭は相変わらず定まらない。床の血溜まりをゆっくりと横切ると、倒れ込んだ三人――いや、動けるのはもうユキトだけだ――を、無機質な“目”で見下ろしていた。
ケイトは、口の端をわずかに動かして息を吐く。
「……せいぜい、頼んだぞ……ユキト……」
ユキトは影の正面に立っていた。
制服の膝には血と埃がべったりと付いている。彼は一度だけ、後ろを振り返った。そこに残っているのは、倒れた仲間達。
「……全部、僕が引き受ける」
その呟きは、仲間に向けたものなのか、自分自身に言い聞かせたのかさえ判然としない。だが、それは確かにここにいる全員に響いた。
影が動き出す。
ゆっくりと、床に這うようにして距離を詰めてくる。
静かな緊張が、部屋全体を満たした。
シノが、小さく震えながら声を絞り出す。
「……無理は……やめて……」
その言葉も、ただ虚空に消える。
ユキトは、静かに左手を上げた。N-COREの黒い端末が、闇の中でほんの僅かに青白く光る。
<N-CORE自動表示>
【所持者:ユキト】
能力名:遮断
能力概要:
半径15メートル以内の空間や物体の“存在や情報”を一時的に遮断できる。
分身や幻影、攻撃の残像なども消せるが、本体そのものは消せない。
強力な発動や連続使用時は大きな負荷や反動がある。
影は、何も言わずに腕を振り上げる。
その動きは、重力も質量も感じさせない。
ユキトはそれをまっすぐに見据え、呟いた。
「――シャットアウト」
次の瞬間、影の腕が空間ごと断ち切られたように、霧散した。
腕は、壁に触れることもなく消える。
影が、一歩、身を引く。わずかに“目”が揺れたようにも見えた。
ユキトの足元には、血がぽたりと落ちる。
それは自分のものか、仲間のものか、もう分からない。
ケイトが、途切れ途切れに呻く。
「ユキト……お前、ほんとに……」
言葉はそこで切れた。
影が再び体を広げ、壁一面へとその体を“染み出させる”。天井にも、床にも、黒い靄が広がる。
ユキトは、瞬時にもう一度手を振った。
「シャットアウト」
今度は、壁に染み出していた黒い靄ごと、その現象が“切り離された”。
一瞬、世界が静止する。
しかし、ユキトの呼吸はまだ乱れない。
(大丈夫だ、これくらいなら――)
影は、分身を二体生み出す。
左右から一斉にユキトに襲いかかる。
ユキトは即座に「シャットアウト」を発動した。
分身が空気に溶けるように消滅する。残った本体が、わずかに膨れた。
ユキトは影から目を離さない。だが、次第に指先が冷たくなっていく感覚に気付いた。
(まだ、やれる。今は僕しかいない――)
影は再び本体を揺らし、今度はユキトの死角に瞬間移動する。
背後から伸びた黒い爪がユキトの首筋に迫る。その時、ハルのかすれた声が響いた。
「後ろ……!」
ユキトは身を沈め、爪をかわした。かわした先で、床をえぐる爪痕。
反射的に手を振る。「シャットアウト」
一拍遅れで、爪の残像すら空間ごと消えた。
しかし、今度はユキトの呼吸がわずかに乱れ始める。
体の奥から、じわじわと熱が抜けていくような倦怠感。
(これが、“反動”か……)
影はユキトの変化に気付いたかのように、身体をさらに巨大化させる。
部屋の壁や天井に、にじむように無数の影の手足が生え広がった。
シノが、ほとんど聞き取れない声で言う。
「ユキト……やめて、限界が……」
ユキトは微笑むように――いや、それはたぶん、苦し紛れの作り笑いだった。
「限界なんて、とっくに超えてるよ。僕たちは」
影の手足が、一斉にユキトへと殺到する。
まるで空間全体が、ユキトを取り込もうとしているかのようだった。
「……シャットアウト」
その声が、かすかに震えていた。
部屋の一角ごと、影の手足が一瞬で消える。だが今度は、ユキトの膝がわずかに崩れかける。
ケイトが、血の混じった咳を吐きながら呻く。
「おい……無理だろ……もうやめろ……!」
ユキトは答えない。
ただ、どこか遠くを見るような目で、影と向き合い続けている。
影はさらにその姿を変える。
人型の輪郭を捨て、黒い塊が“獣”のような形に膨れあがる。
その全身が波打ち、重力すら歪めるような異様な圧力が空間を満たした。
――そのときだった。
ユキトのN-COREが、再び強く青白く光る。
(……見せてやるよ、“本気”の遮断を)
ユキトは、静かに左手を掲げる。
呼吸が乱れ、額に汗が滲む。
指先が震えるのを、必死で抑え込む。
影が、咆哮のような音を立ててユキトに飛びかかる。
それに合わせるように、ユキトが叫んだ。
「――遮断・零域!」
その瞬間、空間そのものが“割れた”。
影の身体――進化し、暴走しようとした存在そのものが、
因果ごと切断されたように消失する。
空間の中に残ったのは、ユキトの荒い呼吸音だけだった。
(……終わった、のか……?)
だが、ユキトの身体が大きく傾ぐ。
口の端から血が垂れる。膝がつき、ついに両手を床について崩れ落ちそうになる。
シノの声が震えていた。
「ユキト……もう、限界……!」
ハルも、痛みで顔を歪めながら、必死に声を絞り出す。
「……やったのか、ユキト……?」
ユキトは答えようとするが、喉が乾いて何も出てこなかった。
彼の視界が、ゆっくりと揺らいでいく。
だが、終わってはいなかった。
床に黒い染みが広がる。
そこから、影の“目”が、再びいくつも開いた。
(……まさか)
影は、今度こそ「本質」が覚醒し始めていた。
その気配は、さっきまでの何倍も強い。
ケイトが呻く。「……ふざけんな……これ、まだ……!」
影は姿をさらに歪ませ、全身から黒い炎のようなオーラを噴き出す。
空間の温度が一気に下がったように、肌が粟立つ。
ユキトは、立ち上がろうとした。だが、脚に力が入らない。
(動け……動けよ、僕……!)
影は進化した。
これまでとは桁違いの力で、ユキトたちに襲いかかる。
黒い炎が床や壁を舐め、部屋全体が異様な圧力に包まれる。
影の本体は、もはや人型ですらない。
いくつもの“目”が乱舞し、獣のような四肢を蠢かせていた。
ユキトは、膝をつきながらも必死に意識を保つ。
彼のN-COREが警告音を鳴らしていた。
視界の端で、ハルがうめくように叫ぶ。
「ユキト、もうやめろ……今度は、本当に――!」
言葉が途切れる。
ケイトは壁に頭を打ち付けるようにして、必死で呼吸を続けている。
シノは端末を抱きしめ、何かを祈るように目を閉じていた。
そのとき、影の“目”が一斉にユキトを睨んだ。
次の瞬間、空間ごとねじれるような衝撃が走る。
影の本体が一直線にユキトへ襲いかかる。
ユキトは、最後の力を振り絞り叫ぶ。
「――シャットアウト・ゼロリンク!」
今度は、空間そのものが何重にも断ち切られた。
影の“目”が、いくつか一斉に閉じる。
獣の四肢がバラバラに分断され、黒い炎が一瞬だけ霧散した。
だが――
それでも影は消えなかった。
むしろ、分断された本体の破片から、次々と新たな分身が這い出してくる。
「うそ……だろ……」
ユキトの口から、血が一筋流れる。
彼はもう、両手をついたまま立ち上がることすらできなかった。
影の分身たちが、ユキトの周囲を取り囲む。
その中心で、本体が異様な形に収束し始める。
突然、影の“目”の一つが赤く光る。
<N-CORE自動表示>
【ID:不明】
分類:戦闘特化型(覚醒体)
能力:《虚相躰・進化型(シェイド・フェイズ:エボルヴ)》
- 全物理・異能攻撃の完全すり抜け(最大10秒/クールタイム8秒)
- 実体化時、攻撃力3倍+自己分裂進化
副能力:《反転軌跡・覚醒型(リバース・トレース:エクスパンド)》
- 攻撃被弾後、無制限に分身を増殖/攻撃範囲も拡大
所持カード:0
影の覚醒体が、空間全体を支配する。
ユキトは、震える手でN-COREを見つめた。
「……まいったな。これじゃ、本当に……」
その言葉は、途中でかき消される。
影の本体がユキトを正面から貫いた。
「――ッ!」
ユキトの身体が、床に叩きつけられる。
目の前が暗転しかける。
痛みも、恐怖も、もはや遠いものになりつつあった。
後方の物陰で、ハクが震える声で叫ぶ。
「ユキト……やめて……!」
その声が、絶望の空気を切り裂く。
しかし、もう誰にもどうすることもできなかった。
影の分身が、今度はケイトとハル、シノにも迫る。
ケイトは壁際で、拳を握りしめようとしたが、力が入らない。
「こんな……こんなもんで、終わってたまるかよ……!」
だが、影の爪がケイトの肩口をえぐり、血が飛び散る。
ハルも、ナイフを手にしようとしたが、腕が動かない。
シノは端末を庇おうとして、分身の爪に肩を裂かれた。
三人のうめき声が、部屋に重く沈む。
物陰で、ハクは小さくうずくまったまま、必死に目を閉じていた。
影は、今や完全に「覚醒体」としての力を振るい、
ユキトたちは全員、床に沈められていく。
――血と絶望の匂いだけが、静かに漂っていた。
床に倒れたハルは、息をするたびに胸が焼けるようだった。手は震え、指先の感覚も曖昧になっていく。隣でケイトが呻く声がかすかに聞こえた。
「……みんな、まだ……生きてるか……?」
その問いに答える声はなかった。ただ、微かな呼吸音と苦痛の吐息が闇の中で交錯していた。
シノは壊れた端末をかばうように身を丸め、肩から流れる血が白い服を染めていく。
「……解析……間に合わなかった……」
彼女の声は、すでに掠れていた。
ケイトは、自分の拳を見つめながら、かすかに笑った。
「……おい、ユキト……お前、ほんとバカだな……」
その声にも、もう怒りも勇気も残っていなかった。ただ、諦めと悔しさだけが滲んでいた。
ユキトは床に横たわり、ほとんど意識が飛びかけていた。遮断・零域の反動が体の芯まで蝕み、呼吸すら思うようにできない。
耳元で遠くハクの声が聞こえた気がした。
「……お願い、誰か……もうやめて……」
影は、四人を取り囲むようにゆっくりと動く。分身が増え、本体は空間そのものを歪めながら、最後の“狩り”を楽しむように間合いを詰めていく。
「……これで……本当に終わり、か……」
ハルの意識が、暗闇に引き込まれていく。
誰も、もう立ち上がることはできなかった。
ケイトの手から、かすかにN-COREが滑り落ちる。画面には、カード登録画面がぼんやりと揺れていた。
(……カード、もう、どうでもいい……)
シノの目が、ゆっくり閉じていく。
「……ごめん、みんな……」
物陰のハクは、誰にも届かぬ声で小さく震えていた。
ユキトの頭上で、影の本体がゆっくりと爪を振り下ろす――
(……誰か、もう一度だけ……)
意識が闇に溶けていく寸前、
ユキトは最後に仲間たちの姿を思い浮かべた。
“まだ、終わっていない。”
――その思いだけが、かすかに空気を震わせる。
全員が瀕死のまま、影の覚醒体が彼らの上に立ちふさがる。
部屋を覆う闇は、誰の心にも一片の光すら残さなかった。
(第9話:完)
(つづく 第10話『贖罪の光』)