第8話 名前なき記録者
その指先が、まるで霧のように揺れていた。
「さぁ、選んでくれ。名を追うのか、それとも――」
その先の言葉は、闇の中に溶けた。
そして――
全身が、震えるような波長の奔流に包まれた。
俺たちは、一歩も動けなかった。
「――これは、“共鳴”……?」
シノが呟く。
ユキトが、目を見開いた。
「いや、これは“反転”だ」
「名が、壊れていく……?」
ケイトが叫ぶ。
違う。
――これは、名が“再構築される前兆”だ。
波長の奔流がぴたりと止まり、
空気が、見えない指でねじられるように冷たくなった。
闇の奥から、じわじわと気配が滲み出す。
音もなく、床の隙間から“影”が這い出してくる。
輪郭が定まらず、人型と獣型の中間のような異様な存在――
壁や天井にもじわりと広がり、どこにも重力が存在しないかのようだ。
その“目”のようなものが、じっと俺たちを見据えている。
ユキトが、低く息を呑む。
「……来るぞ。今度のは、今までの“影”とは段違いだ」
ケイトは無言で拳を握り直し、一歩前へ出る。
ハルはナイフを持つ手をわずかに震わせながら、ケイトの隣に並んだ。
シノの端末が警告音を鳴らし、
自動的にN-CORE照合が走り出す。
<N-CORE照合開始>
[ID:----]
分類:戦闘特化型(異常構造体)
能力:《虚相躰》
- 最大3秒間、全物理・異能攻撃を完全すり抜け
- クールタイム:12秒
- 実体化時、攻撃力2倍+自己分裂化
副能力:《反転軌跡》
- 被弾後、1回だけ同一軌道で分身を生み出す
所持カード:0
ケイトが端末を覗き込み、眉をしかめる。
「……なあ、ユキト。“副能力”って何だよ。こんなの初めて見たぞ」
ユキトは静かに端末の画面を指でなぞり、説明する。
「普通は能力は一つだけ。だけど、ごく稀に“変異”や“進化”で複数の能力を持つ異常個体がいる。N-COREでは“副能力”って形で表示されるけど、公式な記録には載っていない。“イレギュラー”だ」
ケイトが肩越しに影を睨み、低く舌打ちした。
「どこまでインチキしてくんだよ、コイツ……!」
影は何も語らない。ただ、沈黙の圧力だけが全身を押しつぶすように襲ってくる。
「……来る!」
ユキトの声を合図に、
影が一気に間合いを詰めてきた。
ケイトが真っ直ぐ踏み込む。
素手の拳で影の胸を狙う――
だが手応えは、何もなかった。
ケイトの拳は霧を殴るように空を切る。
影の身体がゆらりと揺れて、
ケイトの背後にぬるりと回り込んでくる。
すぐに、ハルがナイフを構え直す。
「ケイト、下がれ!」
その声と同時に、影の爪がケイトの腹を斬り裂いた。
「……ッ!」
鮮血が飛ぶ。
ケイトはよろめきながら後退し、すぐに体勢を立て直す。
シノが即座に端末を操作。
「波長の補足まで……十秒」
「間に合うか……!」
ハルもケイトの前に出てナイフを振るうが、影は天井に滲むように消える。
ユキトは壁際で様子を見ながら、
静かに状況を計算していた。
影は音もなく四人を囲むように動く。
本体と分身が同時に三方向から襲いかかってくる。
ハルがナイフを振るい、
シノは端末を光らせて一瞬だけ影の波長を固定化する。
「今だけ、実体化します!」
「――いくぞ!」
ケイトが再度突っ込む。
この瞬間、彼の瞳の中で、
“反響鎖”の紋様が淡く光った。
ケイトは腹の傷を押さえ、歯を食いしばって立ち上がる。
影の分身が視界の端をすべり、風のように回り込む。
「左! ケイト、来るぞ!」
ハルの声が飛ぶ。
ナイフを振り回すが、影の腕は煙のようにすり抜けていく。
「ふざけんな、化け物が……!」
ケイトは拳を固めて、正面から本体に突っ込む。
殴ったはずの拳が、またもや空を切る。
「当たらねぇ……っ!」
その瞬間、背後に回った分身がケイトの太腿を切り裂く。
「うああっ!」
膝から崩れそうになりながらも、必死で立ち上がる。
息が乱れて、血がじわじわ滲み出す。
「ケイト、下がれ!」
ハルは必死で庇うように間に割り込むが、影の爪が今度はハルの腕をかすめた。
「クソッ、痛ぇ……!」
影はゆっくりと距離を取る。
その場に残る黒い液体――血なのか、それとも“何か”の残骸なのか。
シノは端末を構えながら、額に汗をにじませる。
「補足は……あと、六秒……!」
影の分身が今度はシノに迫る。
彼女は必死で後退しながら、端末をぶつけて防ぐ。
爪がかすめ、端末が弾け飛びそうになる。
「やめろ……!」
だが分身は執拗に追いすがる。
ハルが無理やり身体をねじり、ナイフで分身の進路を塞いだ。
ケイトは肩で息をしながら、
「……本体はどこだ? 本体さえ……」
ふらつく足を引きずり、
血だまりの中を前に出る。
影の本体が天井を這いながら、じっと四人を見下ろしていた。
その“目”だけが異様に光り、じりじりとこちらを品定めしている。
「おい、今度はどこから来る?」
全員、息を殺して周囲を見回す。
その緊張が、一秒、一秒と増幅していく。
――影は、まだ「遊んでいる」。
(こいつ……本気じゃねぇ。こっちの出方を試してやがる)
ケイトの喉が乾ききって、声にならない息が漏れた。
ケイトは血のにじむ拳を握り直し、影に食らいつく。
だが、拳が通じた手応えは一瞬。
影の体は再び霧のように溶けて、どこかへ消えた。
「くっ……!」
肩で息をしながら、もう一度立ち上がる。
視界の端に、黒い分身が音もなくすべり込んでくる。
「ハル、右だ!」
ケイトの叫びと同時に、ハルが身をひねってかわす。
それでも分身の爪が脇腹をかすめ、シャツが赤く染まる。
「……大丈夫だ、まだ――」
言い切る前に、影の本体がハルの背後に回り込み、
ナイフを受け止めながら肘で腹を打ち抜く。
「ぐっ……!」
ハルは膝をつき、血を吐く。
「シノ、補足は……!」
ケイトが振り返ると、シノは端末を握ったまま震えている。
彼女の足元にも、分身の爪痕が走っていた。
「あと三秒……今はまだ――」
その瞬間、分身が再びケイトに襲いかかる。
ケイトは倒れそうな体をなんとか支え、
全身の力で拳を振りぬく。
(これ以上やられたら、本当に……)
不安と焦りが胸を圧迫する。
手足は重く、吐く息は熱い。
影の分身と本体――
息を合わせて四人を確実に追い詰めていく。
一歩一歩、地獄に落ちていくような圧迫感。
逃げ場も、突破口も見えない。
「だめだ、これじゃ……」
ケイトは唇を噛み、
それでも倒れるわけにはいかないともう一度立ち上がる。
誰もが、今にも意識を失いそうだった。
そのときだった。
影の分身が一斉に動き、
全員を囲むようにして攻撃態勢を取った。
「終わらせる気か……!」
ケイトが、血まみれの拳を再び握る。
その瞬間、天井から影の本体が真下に降りてくる。
――死、という言葉が脳裏をかすめた。
影の分身が左右から襲いかかる。
ハルがナイフで一体の進路を塞ぐが、
刃はまたも空を斬り、煙のような腕がハルの肩をえぐった。
「う、がっ……!」
ハルはよろめき、血で手が滑る。
ナイフが床に落ちた。
「ハル!」
ケイトは叫ぶが、すぐに自分の背後に冷たい気配を感じた。
反射的に振り返ると、分身の爪がケイトの脇腹を裂いていく。
「くそっ……!」
体をひねってかろうじて致命傷を避けたものの、
すでに体力の限界が近い。
「シノ、まだか……!」
シノは必死に端末を操作しながら、声を振り絞る。
「補足、あと……あと一秒……!」
指先が震え、血がキーボードに滲む。
それでも目を離さず、何とか粘る。
「今!」
シノが補足を発動。
一瞬だけ、影の本体が実体化する。
ケイトは傷だらけの体を前に投げ出し、
全力で拳を叩き込んだ。
「……っりゃあ!!」
手応えがあった――
だがその瞬間、影は再び体を霧に戻し、
体当たりの衝撃ごとケイトを弾き飛ばした。
「ぐはっ……!」
ケイトが床を転がる。
血のしぶきがコンクリートに広がる。
「ケイト!」
ハルが這うように手を伸ばす。
だが、自分もすぐに本体の反撃を食らい、
呻きながら倒れ込んだ。
分身が再び現れ、シノの背後に迫る。
シノは端末を盾にしようとしたが、分身の爪が端末ごと彼女の腕を切り裂いた。
「やめて……!」
その悲鳴と同時に、
端末が床に転がり、画面にヒビが入る。
「……くそ、もう……!」
ケイトは血だらけの拳を握りしめ、
視界が滲んでいく。
「……このまま……終わるのか……」
影の分身と本体が、ゆっくり全員を取り囲む。
空気は凍りつき、死の気配がまとわりつく。
だが、誰も諦めてはいなかった。
(まだだ、まだ、立てる……!)
血と痛みと恐怖――
そのすべてが、仲間を守るための力に変わっていく。
「立て……立てよ、ケイト……!」
自分を鼓舞するように、
ケイトは何度も歯を食いしばった。
――だが、体はもう動かなかった。
(ごめん、みんな……)
視界がゆっくり暗くなっていく。
全員が床に沈み、
影の本体が歩み寄ってくる。
呼吸すらままならない沈黙――
そのとき、
後方で観察していたユキトが、静かに前へ出る。
「……仕方ないな~」
その声は、普段の軽さの中に、
静かな怒りと本気の圧を孕んでいた。
ユキトが左手を掲げると、
シノの端末が震え、N-COREが自動的に能力表示を展開する。
<N-CORE自動表示>
【所持者:ユキト】
能力名:遮断
能力概要:
半径15メートル以内の空間や物体の“存在や情報”を一時的に遮断できる。
分身や幻影、攻撃の残像なども消せるが、本体そのものは消せない。
また、N-CORE上で自分や他人の“能力名”を1つだけ隠蔽できる(同時に複数は不可)。
シャットアウト状態は発動時に解除される。
強力な発動や連続使用時は大きな負荷や反動がある。
青白い波長が、空間ごと切り裂くように広がる。
影の分身たちが、ノイズ混じりに一体、また一体と消えていく。
本体も動きを止め、その“目”に初めて恐怖の色が浮かんだ。
直後、N-COREが“隠蔽されていた能力名”を検知し、
もう一つウィンドウが自動表示される。
<N-CORE自動表示>
【所持者:シノ】
能力名:波長再帰
能力概要:
過去24時間以内に記録した“波長(動きや現象)”を一度だけ再現できる。
本体は増えず、“一瞬の分身”や“攻撃・防御の現象”として再現できる。
端末が壊れると使えない。
ユキトは冷ややかな目で影を見据え、
静かに問いかける。
「――さて、覚悟はいいか?」
その言葉には、これまでとは違う本気の怒りと重みがあった。
ケイト、ハル、シノ、ハクも――
ただ、息を呑み、その場に立ち尽くすしかなかった。
――状況が、確かに“反転”し始めていた。
(第8話:完)
(つづく 第9話『覚悟の残響』)