第5話 ミナの痕跡
影の空間から退避した後も、誰一人として口を開かなかった。
B-6セクターから通路を引き返したハルたちは、再びアーカイブセクターの奥にある予備端末室へと身を寄せていた。
青白い照明の下、誰もが思考の海に沈んでいた――それほどまでに、“あれ”は異常だった。
名を持たない影。
誰かの記憶を抱えながら、自分の存在すら保てない、あの“存在の空白”。
そして、そこに残されたキーワード――
〈特異点コード:M-0〉
〈未登録キーワード:“ミナ”〉
それは確かに、ハルたちが探し続けてきた“ミナ”という名と、何らかの因果を持っていた。
「……さっきのあれ」
沈黙を破ったのはケイトだった。
「“ミナ”本人って可能性は……」
「低いと思う」
ユキトが即答した。
「完全な名の喪失。もし彼女自身なら、断片すら残っていないはず。……でも、彼女に“繋がっていた何か”ではある」
「誰かが、ミナのことを記録しようとして、でも――」
「消された」
ハルの言葉に、誰も反論しなかった。
記録。痕跡。痕。
そのすべてが消されるほどの“干渉”が加えられた。
つまり、“ミナ”の存在は、誰かにとって――“都合が悪かった”。
「記録を消せる能力……?」
「それがもし“名に関わる干渉”なら、相当な異常事態だ」
ユキトが冷静に分析する。
「本来このゲームの枠組みでは、“名”は最も強固な情報だ。N-COREもそれを基準に構成されている。
なのに、その“名”すら消されているとしたら――」
「ルールの外、ってことか」
ケイトが険しい表情を浮かべる。
「そう。“M-0”という特異点コードは、まさにそれを示してる。
あれは、N-COREが“分類不能”と判断した存在に自動的に与える識別子だよ」
「なら……他にも、M-1、M-2みたいな奴が……」
「可能性はある」
ユキトは頷く。
「そして、その中に“ミナ本人”が含まれているかもしれない」
記憶の奥底――ミナの笑顔が、微かに浮かぶ。
それが“本物”かどうかすら、もはや曖昧だった。
「……やるしかないな」
ハルの呟きに、ケイトが顔を上げた。
「やるって……何を?」
「このドーム全体を探索して、“M-0”以外の特異点を洗い出す。
痕跡、記録、誰かの名。あらゆる断片を拾っていく」
「つまり、“ミナ”という情報のパズルを、こっちで組み直すってことか……」
「そうだ」
ユキトは小さく笑う。
「いいね。名を“奪われた者”がいるなら、名を“集める者”も必要だ。……君たちは、記録者じゃない。けど、証人にはなれる」
ハルとケイトが、無言で頷き合った。
その瞬間、N-COREが再び低く鳴る。
〈波長感知:微弱反応〉
〈ログデータ:個体B-6-2〉
〈状態:脱出後に再出現〉
〈識別名:“ハク”〉
表示されたその名に、三人は同時に顔をしかめた。
「……識別されてる?」
ハルが画面を見つめる。
「さっきの“影”と……同一反応?」
ケイトが困惑する。
「違う。こっちは、波長が安定してる」
ユキトが即座に返す。
「たぶん、あの空間に一緒にいた別個体。“ミナの記録”に接触したことで、何かが変わった」
そのとき、シノが唐突に口を開いた。
「該当反応、移動中です。……こちらに向かっています」
ハルのN-COREに、現在地ログが同期される。
〈位置:アーカイブセクターA-4通路〉
〈距離:約150m/接触予測:4分後〉
「来るのかよ……!」
ケイトが咄嗟に構えた。
「いや……攻撃目的じゃない」
ユキトは静かに言う。
「今度のやつは、話せるかもしれない。“名”を持っているなら――“名前で呼べる”」
ハルは静かに息を吸い、ナイフを握り直した。
“名を呼ぶこと”が“死”でなく、“対話”の手段として残されているなら――
彼らは、その可能性に賭けるしかなかった。
ハルたちはアーカイブ室の照明を最小限に絞り、侵入経路となる通路に視線を注いでいた。
時間にして三分。
だがその三分が、異様なまでに長く感じられる。
音はなかった。
それどころか、周囲の気配すら沈んでいく。
――そして、その“何か”は現れた。
まず現れたのは、白。
淡く光を放つ、柔らかな白布。
その影に続くのは、細い足取り。おそらく――少女。
だが、前回の“影”とは明らかに違っていた。
彼女は、輪郭を持っていた。
姿ははっきりとし、N-COREが感知する。
〈N-CORE:対象情報照合〉
【ID:なし】
分類:不明
能力:不明
外見:白衣に似た布/痩身の少女体型/髪は銀灰色で長く、瞳は淡灰色
備考:名称記録あり/真名未登録/ネームカード所持なし
〈識別名:“ハク”〉
「……これが、“識別された名”か」
ユキトが、思わず小声で漏らす。
「真名じゃない。でも、名前としてN-COREが感知してる……」
「つまり、“名乗った”ってことか?」
ケイトが問いかける。
「あるいは、“名付けられた”か。第三者に」
ハルがゆっくりと彼女に近づいた。
彼女は警戒する素振りを見せず、ただ静かに立っていた。
「お前の名前は……ハク、でいいのか?」
その言葉に、少女――ハクは小さく頷いた。
その瞬間、ハルのN-COREに新たな反応が走った。
〈記録共振:開始〉
〈対象:“ハク”〉
〈情報断片:接触者=“M・ナ”〉
「……接触者?」
「やっぱり……ミナと会ってた……」
ユキトが小さく目を見開く。
「お前は……ミナを知ってるのか?」
ハルの問いに、ハクは口を開いた――
「……忘れた。でも、“あたたかい名”だった」
その声は、かすれていたが、確かに人の声だった。
「“あたたかい名”……?」
「わたしは、“ハク”って呼ばれた。……でも、その前に、違う名前で――呼ばれた気がする」
記憶の断片。
曖昧な記憶に縋るように、彼女は自分の言葉を探していた。
「彼女が“ミナ”に会っていた可能性がある……。だけど、記録はすでに曖昧になってる」
ユキトが頷いた。
「このままでは、“忘れ去られる”」
「名の消失は、“記録の死”だ」
シノが静かに言う。
「記録が存在しなければ、認識の再生も不可能。断片を保持している今こそ、記録すべきです」
「どうやって?」
「共鳴視……もう一度。完全接触で」
ハルは、頷いた。
「やってみる」
彼はゆっくりと、ハクの肩に手を置いた。
彼女は拒まなかった。
指先が触れた瞬間――視界が揺れる。
■ 能力発動:共鳴視
【発動者】ハル(ID:47)
【条件】真名の痕跡に触れる(今回は“接触履歴”による共鳴)
【効果】対象の記憶・視覚を読み取る(過去視)
白い部屋。
その中に、二人の少女が並んでいた。
ひとりは、今目の前にいる“ハク”。
もうひとりは――
――“ミナ”だった。
黒髪、長い睫毛、まっすぐな視線。
『あんたには、名前が必要よ。消される前に、ちゃんと呼ばれて』
『呼んで……くれるの?』
『“ハク”。それが、あんたの名よ。だから、ここを出ても、忘れないで』
『……ありがとう』
そこまでだった。
視界が引き戻され、ハルは息を荒げた。
「“ミナ”が……ハクに、名前を与えた」
「つまり、“ハク”という存在は、“ミナ”が生んだ名の証明」
ユキトが結ぶように言った。
「記録は、ここに残ってた」
「彼女を……守らなきゃ」
ハルの言葉に、誰も異を唱えなかった。
だがそのとき、N-COREが警告音を鳴らす。
〈警告:識別不能IDがB-5セクターに侵入〉
〈波長:不明/敵意判定:高〉
〈コード名:“無名”〉
「また……来たか」
ケイトがナイフを構え直した。
「今度は、“完全に名前を持たない”存在だ」
「でも、守るべきものは決まってる」
ハルが言った。
彼は、背後のハクを見やった。
“名を与えられた者”は、確かにここにいる。
――今度は、誰にも奪わせない。
空気が変わった。
遠くから近づく“何か”の気配――それは、まるで空間ごとねじれたかのように、急速にこちらへと迫ってくる。
「来るぞ……!」
ケイトがナイフを両手で握り、通路の出入り口に身構える。
N-COREが波長を再計測しようと試みるが、データは“未確定”のままノイズを発していた。
〈識別名:なし〉
〈ID:なし〉
〈分類:不明〉
〈能力:不明〉
〈状態:波長乱れ・断続的実体化〉
〈コードネーム:“無名”〉
「この反応……前の“影”とも違う」
ユキトがかすかに眉をひそめる。
「……存在が完全に不安定。“名の核”が存在していない……!」
「やっぱり、“名前がない”ってことか」
ケイトが唾を飲み込む。
「それどころか、認識の外にある。見ようとすればするほど、“ズレる”」
視界の端に、何かが揺れた。
ハルが振り返ると、空間の奥に黒い斑が現れていた。
それは“個体”というよりも、“認識できない概念の塊”だった。
「攻撃は――?」
「やってみるしかねぇだろ!」
ケイトが吠えるように飛び出した。
だが、ナイフが触れた瞬間――“すり抜けた”。
「――っ!?」
ケイトの姿勢が崩れ、体が反動で弾き返される。
まるで“質量のない壁”を殴ったかのようだった。
「接触不能……」
ユキトがN-COREに表示されるログを確認する。
「これは、“観測不能領域”だ。概念としてしか存在できない。物理すら拒絶する……」
「じゃあ、どうすんだよ……!」
その叫びに、静かに応じたのは――ハクだった。
「……“名”が……ないなら、あげればいい」
彼女は、ふらりと前に出た。
「“名”がないから、さまよってるんだよね。なら――呼べば、届くかもしれない」
「待て、ハク! お前、それじゃ――」
「だいじょうぶ。わたしは、もらったから。
“ミナ”がくれた。わたしを、“ハク”と呼んでくれた」
彼女はゆっくりと、“無名”の影に手を伸ばす。
「あなたにも、“名前”があるといいね」
その瞬間だった。
空間が震えた。
“無名”の形が、一瞬だけ“人”の輪郭を取った。
それは、子どものような――あるいは、ただの“誰か”の姿。
N-COREが低く脈打つ。
〈波長干渉:発生〉
〈断片的識別:コード生成中……〉
〈特異点コード:“M-1”〉
その体が崩れ、霧となって消えていく。
代わりに、ハクのN-COREが、新たな情報を受信していた。
〈記録更新:記憶断片保存〉
〈識別キーワード:“ナナミ”〉
〈記録者:“ハク”〉
「……“ナナミ”?」
ハルが呟く。
「おそらく、今の“無名”が持っていた、本来の“名”。
だが……完全には思い出せなかった。“ナナミ”という言葉だけが、最後に残った」
「つまり、彼女も“奪われた名”の一人だったってことか……」
ユキトが小さく頷く。
「“名を喪失した者”は、存在が揺らぎ、やがて概念化していく。
でも、そこに誰かの“呼びかけ”があれば――名は蘇る」
ハクはその場に座り込み、息を整えていた。
その瞳には、確かに“誰かを救った”ことへの安堵が宿っていた。
「……ありがとう、ハク」
ハルが声をかけた。
ハクは、ほんの少しだけ微笑んだ。
そして、その笑みの奥に、確かに“ミナ”の記憶が残っていた。
「ミナは……人を“名づける”人だったんだ。
この世界が、名を奪う場所なら――彼女はその逆を、生きようとしていた」
――与えることで、残すために。
だから、彼女の名は今も、誰かの中で生きている。
N-COREの表示に、新たなデータが追加された。
〈特異点登録:M-0(ハク)/M-1(ナナミ)〉
〈関連人物:ミナ〉
〈探索対象:“ミナ本人”へのアクセスルート推定中〉
ミナの痕跡が、今ここに“複数”として繋がり始めた。
――断片は、まだ揃っていない。
だが、必ず辿り着く。その“真名”に。
(第5話 完)
(つづく:第6話「名づけの代償」)