第4話 譲渡と喪失
かすかな火花が、暗がりを照らした。
埃と鉄の臭いが混ざり合ったこの地下フロアに、風は流れていない。
誰かが息をするたび、その呼気が空気を濁す。
ハルは剣呑な視線で、正面の二人を見据えていた。
煤けた制服の少年――ユキト。そして、その隣に佇む白いワンピースの少女――シノ。
N-COREが脈打っている。
薄青く光るディスプレイには、彼の発した言葉の“余韻”が残されていた。
『ネームカードってさ……譲渡可能なんだよ』
その一言で、空気が凍った。
「……何を、言った?」
ケイトの声が低く響く。
その拳は、いまにも誰かを叩き潰しそうに硬く握られていた。
「ネームカードは“殺した相手”のじゃなきゃ登録できねぇはずだ。ルールだろ。それとも……運営か、テメェ?」
「違うよ」
ユキトは首を振る。
「僕はただ、面白いと思っただけ。“所持”と“登録”の違いに、誰も気づいてないから」
「はぐらかすな」
ケイトが一歩踏み出す。
その足元で、まだ床に横たわる黒装束の“器”たちが血を広げていた。
「登録されてないカードに意味なんてあるかよ」
「“意味”はあるよ」
ユキトはN-COREをゆっくり掲げた。
「君たちには“登録”という概念がすべてだろうけど……この装置は、“所持”そのものも感知する。証明するよ」
〈N-CORE:対象情報表示〉
【ID:31】ユキト
分類:知略型
能力:不明(推定:記号干渉・観測型)
外見:痩身/乱れた黒髪/片方だけのスニーカー/ボロ制服/学生鞄破損
所持ネームカード:2(中尾 沙織/青山 剛)
――その名前を、ハルは知らない。
「この二人……お前が殺したわけじゃないんだな」
静かに問うハルの声は、どこか冷めていた。
「うん」
ユキトは素直に頷いた。
「ただ、“もらった”だけ。それも、死んだ直後の誰かから」
「ネームカードが、死体から抜き取れるってことか」
ハルはN-COREに目をやる。
自分が伊波を“名殺”した時――カードは灰の中に残され、登録できた。
でもそれは、自分の手で殺した証明として“唯一の条件”だったはずだ。
「そのカード……登録できないんだな」
ケイトが言った。
「できない。でも、持ってるというだけで、“情報になる”」
「情報?」
「たとえば」
ユキトは片手を上げて、指を折った。
「AがBを殺して、そのカードをCが所持したとする。その時、Cは“Bのカードを持ってる”という事実だけで、周囲から“殺した犯人かも”と疑われる」
「……ミスリードの種になるってことか」
「そう。君たちは“事実”だけで動こうとする。だから、そこに“演出”が入り込む余地がある」
ハルは眉をひそめた。
この少年――“ユキト”は、戦う意志も、殺す衝動も持たない。
だが、戦場のすべてを俯瞰し、“言葉”だけで空気を制御している。
「……お前、何者だ」
「記録者。……とでも呼ばれたことがあるけど、正確には違うよ」
その言葉に、シノがわずかに顔を上げた。
「私は、演算補助。彼の“補助記憶”として機能しています」
声は平坦で、表情も動かない。
「演算……補助?」
「彼の見た映像を、第三者視点で補完・記録・再構成します」
そう言って、シノは自らのN-COREを見せた。
〈N-CORE:対象情報照合〉
【ID:不明】シノ(演算補助型ユニット)
分類:知略型(補助)
能力:未確定(推定:未来経路干渉/記録調整)
外見:栗色のウェーブ髪/白のワンピース/無表情
所持ネームカード:0
「未来の“分岐予測”も可能。ただし、制限があります」
「……未来予測?」
ケイトが苦笑した。
「それもう、ゲームの枠超えてんだろ……」
「超えてるかどうかは、“運営”が決めることじゃない?」
ユキトはそう言って、ふと、目を細めた。
「――でも、今ここで“運営”の話は重要じゃない。問題は、“ミナ”だよね?」
ハルが息を止めた。
その名前を、他人の口から聞くのは――初めてだった。
「……どこで、その名を」
ハルが静かに問うた。
「N-COREの“未遂ログ”。君たちが誰かの名を呼ぼうとしたけど、途中で止まった時……痕跡が残ってた」
「ミナの“名”を、俺が……?」
「たぶんね。でも、彼女に関する“完全なデータ”は存在しない。それどころか……」
――ユキトは視線を、地下のさらに奥へ向けた。
「“消された記録”がある。名前の痕跡ごと、空白にされた誰かが」
その瞬間、ハルとケイトのN-COREが同時に鳴った。
〈波長感知:反応〉
〈座標:B-6セクター 感知数:1〉
〈注意:異常な波長拡張が検知されました〉
「これは……」
ハルが表示を睨む。
「おそらく、能力の暴走。あるいは――」
ユキトの声が硬くなった。
「“名の喪失”に関わる現象かもしれない」
「名を……奪われた存在?」
「呼ばれて死ぬのが“名殺”なら」
ユキトは言う。
「名を消されることは、存在の“空白”化だよ。……思い出せなくなる。“誰か”だったということすら、忘れられる」
「……そんなやつが、本当にいるのか」
ケイトが震える声で呟いた。
「わからない。でも、“何か”はいる。その痕跡が、B-6で暴れてる」
ハルはゆっくりとナイフを手に取った。
直感が、冷たく鳴っていた。
“ミナ”の名の前に、何かがいる。
“奪われた名”の先に。
彼らは、まだ知らない。
そこに“名もなき敵”が、待ち構えていることを――
* * *
B-6セクターへの通路は、異様な静けさに満ちていた。
風の流れもない。湿度だけが、じわじわと肌にまとわりついてくる。
「……空気が違う」
ケイトが呟いた。
その声さえも、壁に吸われるように響かない。
まるで、“音”そのものが、この場所では意味を持たないかのようだった。
「波長、ぶれてるな……」
ハルがN-COREを確認する。
波長感知の画面には、形にならない何かが連続的に振動していた。
〈感知対象:1〉
〈状態:不安定/断続的存在反応〉
〈推定:ID未登録/真名登録無し〉
「ID未登録……?」
ハルが眉をひそめた。
「つまり、“名”がない」
背後からユキトの声がした。
「登録されていない。名も、痕跡も。……存在していないはずの存在だ」
「なのに、ここに“いる”ってのか……?」
「そう。だから“異常”なんだよ。これは、完全に“ルールの外”にある」
通路の終点には、小さな隔壁扉があった。
アクセスパネルは壊れており、開閉不能のはずだったが――
かすかに、扉の隙間から黒い“何か”が漏れていた。
影。
霧。
いや、それは“名前のない存在”が滲み出しているように見えた。
「……行くぞ」
ハルが言った。
ケイトが頷き、ユキトとシノは後方で位置を調整した。
扉を手動でこじ開けた瞬間、冷気のようなものが吹き出した。
その空間には、ひとつの“影”がいた。
人型。
だが輪郭が曖昧で、視線を合わせようとすると、像が揺れる。
〈N-CORE:照合失敗〉
〈ID:不明〉
〈分類:不明〉
〈能力:不明〉
〈真名:未登録〉
〈ネームカード:非所持〉
「視えねぇ……顔が」
ケイトが唸る。
「でも、そこに“誰か”がいる。間違いねぇ」
影は動かなかった。
ただ、呼吸のように、空間の密度だけが膨らんだり、縮んだりしていた。
「ハル……共鳴視、使えるか?」
ケイトが言う。
「……やってみる」
ハルはそっと、影が立つ床の“痕跡”に触れた。
指先に、冷たい反応が走る。
■ 能力発動:共鳴視
【発動者】ハル(ID:47)
【条件】真名の痕跡に触れる
【効果】対象の記憶・視覚を読み取る(過去視)
視界が、反転する。
白。
真っ白な部屋。
その中央で、少女が立っている。
栗色の長髪。
瞳の奥に光のない目。
白衣の影が、少女の前に立つ。
――“名前を捨てなさい”
その言葉の後、少女の周囲から文字が剥がれていく。
紙が破れるように、声が砕けていく。
最後に少女は、微笑みを浮かべながら、こう言った。
「……わたし、誰でしたっけ?」
その瞬間、共鳴が切れる。
ハルは膝をつき、咳き込んだ。
喉の奥が焼けるように痛む。
脳に刺さった名前の“断片”が、形を保てず崩れていく。
「どうだった……?」
ケイトが支えに入る。
「……女の子……だった。名前を“奪われた”……。そして、自分を……忘れてた」
「忘れてた……?」
「そう。“わたし、誰?”って、自分で」
ケイトが呻いた。
「……まさか、それが……」
「うん」
ユキトが前に出る。
「これが、“名の喪失者”だよ。顔が視認できないのも、N-COREが反応しないのも、“名前”という概念が存在しないから」
「殺せるのか……?」
「名殺は不可能。真名が存在しないから」
「武殺も……困難だよ。“存在の輪郭”そのものが薄いからね。実体が、完全に“観測”されない限り、攻撃も届かない」
「じゃあ、どうすれば……」
ユキトは答えなかった。
代わりに、シノが歩を進めた。
「解析、開始します」
無表情のまま、彼女は影へ向けて、N-COREを掲げた。
白い光が、薄く照らす。
影が、かすかに反応した。
その輪郭が、一瞬だけ――“少女の形”を取った。
その瞬間、ハルのN-COREが、ある表示を跳ね上げた。
〈未登録データ:M-0〉
〈識別不明の記録体〉
〈キーワード:……ミナ……?〉
「今……何て?」
「“ミナ”って……名前が、走った」
ハルは目を見開いた。
「彼女は、ミナじゃない」
ユキトが言う。
「でも、“ミナの記憶”を持っていた可能性がある。“名を奪われた者”が、別の“名”を抱えたまま、存在だけ残されることがある」
「つまり……」
「彼女の中に、“ミナの痕跡”があるかもしれない。だけど、それを読み解くには――」
シノがふと、首を傾げた。
「波長……干渉されました。対象、異常反応」
影が、動いた。
輪郭が崩れ、空間に染み出すように拡散する。
まるで、“存在の爆発”。
「逃げろッ!」
ハルとケイトが同時に動く。
シノを抱え、ユキトを引きずり、通路を逆走する。
影は追ってこなかった。
ただ、空間の一点に“痕跡”だけを残した。
〈ログ記録終了〉
〈記録断片保存:特異点コード “M-0”〉
「……あれは、“名”の墓標だったのかもしれない」
ユキトが小さく呟いた。
誰の名かも分からない。
でも、確かに“そこにいた”。
それは、いずれミナに繋がる“欠片”。
“空白の名”は、ただ静かに、そこにあった。
――その存在が、“誰だったか”を思い出してもらえる日を待つように。
(第4話 完)
(つづく:第5話「ミナの痕跡」)