第2話 渦動の記名
崩壊した管制区画の中心に、灰が残っていた。
人の輪郭すらない。風に舞うその粒子は、わずか数分前まで命だった。
ハルとケイトは、その中心に静かに立っていた。
伊波誠一郎。
名前を呼ばれ、“名殺”された男。
ケイトが足元に落ちていた黒いカードを拾い上げた。
表面には、赤く刻まれた真名。
『伊波 誠一郎』
「これだけが、あいつの残りか」
無表情のまま、ケイトはハルにそれを手渡す。
ハルは無言で受け取ると、腕のN-COREに差し込んだ。
ピ、と短い音。
〈ネームカード登録:伊波 誠一郎〉
〈現在保有数:1〉
ディスプレイに波紋のような模様が拡がる。
「……一枚目」
ハルの声は静かだった。
ケイトがポケットからガントレットを取り出し、装着しながら言う。
「ここからが本番、ってことだな。あと九十八枚か、それとも──」
「最後の一人になるか」
二人は黙った。
静かな空間に、風が通り抜ける音だけが残る。
その中で、ハルがしゃがみ込み、床の粉塵に指を這わせた。
「……痕跡が濃い。伊波はこの場所に長くいた」
「共鳴視、反応するか?」
「やってみる」
指先から、ほのかに光が走った。
視線が揺らぎ、微かに何かが見えた。
「……これは……」
「誰だ?」
「白い制服。黒い髪。……“ミナ”だ」
ハルが目を見開く。
ケイトが息を呑んだ。
「マジか……。伊波と、ミナが接触してたのか?」
「わからない。でも、確かに痕跡はあった。
俺の記憶じゃない。“視た”んだ。共鳴視が反応したってことは……」
「伊波の中に、ミナがいたってことだな」
「少なくとも、一度は目にしていた。……それが偶然かどうかはわからない」
二人のN-COREが同時に振動した。
〈波長異常検知〉
〈エリア03、北通路にて接近反応:三体〉
ハルが画面を睨む。
「動きはない。……待ち伏せか」
「来るって分かってるなら、動くしかねえな」
ケイトがガントレットの締め直しながら立ち上がる。
二人は残された灰に背を向け、北の通路へと進んだ。
崩れかけた足場。散乱する鉄材。空気は濁っていた。
その奥、通路の天井部。パイプの上に、誰かが腰かけていた。
「やあ、“47番”と“13番”。ようやく来たね」
軽い口調。少年の声だった。
制服はボロボロ。靴は片方だけ。鞄のストラップはちぎれ、髪は乱れている。
だがその目だけは、やけに澄んでいて、冷たい。
ケイトが咄嗟に前に出る。
「お前、誰だ」
少年は片手を軽く挙げた。
「ユキト、って呼ばれてる。仮IDは“31”」
ハルが素早くN-COREを起動し、照準を合わせる。
〈N-CORE:対象情報照合〉
【ID:31】ユキト
- 分類:知略型
- 能力:不明(推定:記号干渉・観測型)
- 外見:痩身/乱れた黒髪/片方だけのスニーカー/ボロ制服/学生鞄破損
- 備考:感情反応にズレあり。観察者的行動パターン多数。
「共鳴視、使ったでしょ? 伊波の痕跡、けっこう濃かったし」
「お前……見てたのか」
「うん。全部記録してた。君たちのN-COREも、少しだけ拾えた」
ハルが目を細める。
「お前……“視た”のか。俺が“ミナ”を視たことまで」
「うん。映ってた。“ミナ”って名前、共鳴視の記録の中で断片的に出てきた」
その瞬間、もう一人の足音が静かに現れる。
少女だった。
栗色のウェーブ髪。白のワンピース。感情の読めない瞳。
スッと並んだその瞬間、ハルが再びN-COREに反応を走らせる。
〈N-CORE:対象情報照合〉
【ID:不明】シノ
- 分類:知略型(補助・予測)
- 能力:不明(推定:未来経路予測/記録調整)
- 外見:栗色ウェーブ/白ワンピース/無表情/小柄
- 備考:演算補助端末とのペア動作。感情表出制御あり。
「彼女はシノ。僕の記録補佐みたいなもんだよ」
「記録補佐ではありません。観測と調整を担っています」
シノが目を伏せずに言った。
「“ミナ”という対象の痕跡は、確かに伊波の視覚情報内に残されていました。
あなたの共鳴視が正確であれば、彼女は“まだ存在している”」
「どこに?」
「断定はできません。が、同じドーム内。もしくは、外周部での活動履歴があると推測されます」
ハルが一歩踏み出す。
「ミナは、ここにいる」
「おそらく、そうです」
ケイトが低く問いかける。
「お前たちの目的は……なんだ」
「“鍵”を集めること」
ユキトは一言だけ、そう答えた。
「“真名”は鍵なんだ。開けるためには、観察と干渉が必要になる」
「君たちの共鳴視は、そのためのツールとして、とても適してる」
ハルは黙ってユキトの言葉を聞いていた。
その口ぶりには迷いも熱もない。あるのは、まるで研究者のような観察者の眼差し。
「俺たちを利用するつもりか」
ケイトが低く言った。
「違うよ。利用するとは言わない。少なくとも、まだ」
その曖昧な返答に、ケイトの手が拳を強く握る。
だがハルは、そのまま言葉を返した。
「俺たちは、伊波を殺した」
「そして、“ミナ”の痕跡を視た」
「なら……次は、探すだけだ」
ユキトが笑う。
「それが君たちの選択なら、止めはしないよ。
でも、覚えておいて。彼女の名前は、もう誰かの中にあるかもしれない」
「“名殺”を避けた者の中に?」
「あるいは、彼女自身が――“名前を殺す”側かもしれない」
沈黙が落ちた。
その空気を破るように、シノが口を開いた。
「退去します。現在の視線データ量は十分です」
「うん、じゃあ、またね。ハル、ケイト」
次の瞬間、二人の姿が滲んだ。
光の屈折のようなノイズが走り、ユキトとシノは煙のように視界から消える。
ケイトが即座に踏み出すが、間に合わない。
そこには何も残されていなかった。気配さえも、風とともに消えていた。
「……情報干渉型だな。視覚か、空間の折り曲げか」
「いずれにせよ、今の俺たちじゃ追えない」
ハルはN-COREを開く。
その画面には、赤くハイライトされた名前が残っていた。
“ナツノ ミナ”
共鳴視で拾った痕跡は、確かにそこにあった。
「……探す」
「絶対に、見つけ出す」
灰の舞う残響のなか、ハルの目だけが強く光を帯びていた。
ケイトが背中を預けるように立つ。
「このまま終わるわけがねぇよな。
あのガキらが鍵を探してるってなら、こっちは扉を破ってでも進むさ」
「鍵も扉も、名前も……全部、自分で見極める」
ナイフを納め、N-COREを閉じた。
二人は再び歩き出す。
瓦礫の上、風が吹く。
その流れに乗って、誰かの気配が微かに残っていた。
そして──まだ見ぬ名の気配が、次の“交錯”を予告するかのように。
第3話へ続く。