ちょっと異世界に行ってみる
桜のつぼみが膨らみ始め、心地よい風が吹き始めた三月上旬。
藤下 真人は、放課後に担任から職員室への呼び出しをくらっていた。
「なんで呼び出されたか分かるか?」
担任である伊瀬 甲斐が眉を寄せながら尋ねた。
「先生の授業の時にクラス全員でしりとりしてたから。」
「クラス全員でやってたならお前だけ呼び出さんだろう。というか、何でしりとりしてるんだよ。小学生か。」
伊瀬は目にかかるくらいまで伸びた前髪を持ち上げるように額に手を当てる。癖のある黒髪には所々白髪が混じっており、彫りの深い顔立ちもあってかなり年上の印象を受ける。本人曰く、まだ二十代とのことだが、正直四十代後半と言われても納得してしまうほどの容姿と落ち着いた雰囲気を持っている。
「お前の進路の話だよ。し・ん・ろ。」
伊瀬はデスクの上で裏返された紙を真人に付き出す。それは先週、真人が提出した進路調査表であった。第一希望の欄以外は空白で、唯一埋まっている欄には、『異世界転生(もしくは異世界召喚)』と書かれている。
「一応聞くが、これはウケを狙ったんだよな?」
「割りと本気で書きました。」
「本気であっちゃうのかよ…。」
伊瀬が深いため息をつき、がっくりと体を前に垂れさせる。
「ちなみに何で異世界なの?」
「特に理由はないです。ラノベとか漫画とかで流行ってるから、将来の選択肢に入れるのも有りかなって。」
「ぶっ飛んだなぁ!!」
真剣な眼差しを向ける真人に、伊瀬は頭を抱えるしかなかった。
「ふざけてても本気でもどっちでもいいから、とりあえずもっと具体的にしてくれ…。」
「息吸って吐くだけの生活をする。」
「確かに具体的だけども!ただの呼吸を異世界に行ってまでしたいか!?」
真人は伊瀬から視線を反らし、窓の外を眺める。職員室は二階にあるため、窓を覆うような空は見えない。しかし、天気がいいこともあって窓の半分くらいには綺麗な青空が広がっている。
「現実世界でも、呼吸するだけじゃないですか。」
ふと真人はこぼした。
「学校に行って帰ってを繰り返して。卒業したら進学か就職くらいしか選択肢なんてなくて。決められたレールの分岐を選ぶことしかできなくて。
日常なんて聞こえのいい言葉使ってるけど、同じことしかやらないロボットみたいな生活をしてるだけ。意思なんてそこにない。今だって呼吸してるだけの生活となんら変わらなくないですか?」
真人は嘲笑するように口角を少し上げた。前髪で目元に影が落ちる。
伊瀬は真人をじっと見つめて、「そうかもな」と呟いた。
「与えられる選択肢が少ないのは事実かもしれない。だけど、その中から選ぶか選ばないか決めるのは自分だろ。」
真人は不機嫌そうに伊瀬に視線を戻す。伊瀬と目が合うが表情は無く、何を意図しての発言か窺えない。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。選ぶのが嫌なら選ばなければいい。自分の欲しい選択肢を作ればいい。」
「簡単に言いますね。」
「簡単に言ってねえよ。ただ、納得出来ないまま生きるより、納得できるかもしれない選択肢を生きる方が後悔が少ないだろ。」
伊瀬は真人の手元にある進路調査表を摘まみあげる。
「進学だの就職だのが、本当に自分の選択肢でいいのか。」
伊瀬の言葉に真人ははっとしたように目を見開く。
「このまま進んでいいのか。他の選択肢はないのか。与えられたものに不満があるから、こう書いたんじゃねーの?」
異世界転生と書かれた部分が見えるように、伊瀬は進路希望表を揺らす。
真人の視線は紙に向けられなかった。いたずらっぽい笑みを浮かべている伊瀬を、ただ真っ直ぐ見つめていた。
「お前は成績もいいし、学校生活での態度もいい。俺がお前の立場なら、いい大学に行って有名企業に入る選択以外しねぇと思う。けどお前は他にも選択肢はないか悩んでる。きちんと自分の将来のこと考えてて偉いと思うぜ。」
伊瀬は椅子から立ち上がって真人の頭に手を置き、ゆっくりと撫でる。
真人は俯いただけで、手を払い除けることはしなかった。
伊瀬が手を離すのと同時に、「俺…」と真人が呟く。
「俺、ずっと親の言うこと聞いてきた。言われた学校に言われた通り入って、言われた成績を取れるように、遊びに行かないでずっと勉強して。言うこと聞かないと、兄さんみたいに捨てられるから、ずっと顔色窺ってきた。」
真人の足元に滴が落ちる。肩を震わせながら真人は続けた。
「でも、親は自分のしたいことしてるのに、俺はできてなくて。やりたいことも、したいことも分からなくなってて、ずっとこのままなのかなって……。
だけどそんな時、クラスの奴に小説を貸してもらったんだ。衝撃だった。平凡な主人公が異世界に行って、自分の意思で進んでく姿がかっこよくて、自分もこうなりたいって思った。
異世界でなら、俺の好きなように生きられるんじゃないかって思えたんだ。」
真人はそう言うと顔を上げ、伊瀬と視線を交わらせる。涙の膜が瞳を覆うが、光を反射して輝いている。
「だから俺は、異世界に行きたい。」
真人の瞳には迷いはなく、そこには強い意思が宿っていた。
伊瀬は口元を緩ませると「いいな」と歯を見せて笑った。
「んじゃ、行くか。」
伊瀬は腕を突き上げて伸びをして、職員室を出ようと真人に促す。
「行くってどこにですか?」
「話の流れ的に一つしかないだろ。」
伊瀬は職員室の壁にかかる一つの鍵を取り、それを人差し指の先で回す。職員室を出て廊下を進み、階段を上る。放課後とはいえ、部活中の生徒も多いので何度かすれ違う。真人は生徒たちと挨拶を交わす伊瀬の後を鴨のように付いていく。
階段を上りきると、踊り場の壁に一つのドアがあった。屋上へ続くドアだ。普段は立ち入り禁止なのでここへ来ることはない。
伊瀬は指先で回していた鍵をドアノブに挿し込む。ガチャという音と共に、ドアが開かれた。
「あの、屋上で何をするんですか?宣誓でもさせるつもりですか?」
「さっき言ったろ?行くんだよ。」
訝しがる真人を余所に、伊瀬は屋上の中央へ進む。真人もそれに付いていく。
中央辺りに来ると伊瀬は立ち止まり、手を前に押し出す。目蓋を閉じ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
伊瀬の声は小さいわけではないはずなのに、なぜか真人の耳に伊瀬の言葉は入ってこない。
何をしているのか尋ねようとして真人が一歩踏み出した瞬間、地面が青白く光った。
伊瀬の目の前の空間がぐにゃりと曲がり、まばゆい光が二人を包んだ。
真人は訳が分からず、伊瀬にしがみついて目を固く瞑った。
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「平気だから目を開けろー。」
伊瀬の声が真人の鼓膜を揺らした。
開けろと言われても、先ほどの訳の分からない現象を見た後に簡単に目を開けられるほど、真人は図太くなかった。
「大丈夫だから」と伊瀬に頭を撫でられて、恐る恐る薄目を開いた。
その瞬間、目を疑った。
視界に映ったのは、先程までいた屋上の景色とは全く異なっていたからだ。
赤褐色のレンガ造りの建物が建ち並び、地面も同系色のタイルが均等に敷き詰められていた。
道は広く、道沿いにたくさんの屋台が出ており人々の足を止める。行き交う人々の格好は様々で、麻で出来たラフな服を着ている人もいれば、兵隊のようにカッチリとした襟詰めの服を着ている人もいる。
髪や目の色も様々で、金や銀はもちろん、赤や緑、桃色など、とても地毛とは思えないほど鮮やかな色を持っている。
伊瀬は困惑する真人を面白そうに眺める。
「いい反応するなー。連れてきた甲斐があるわ。」
「連れてきたって、ここ何処ですか!?」
「何処って、異世界だけど。」
「はあ!?」
伊瀬は何を今さらという感じで真人を見る。
確かに真人は異世界に行きたいとは言った。
だからといって本当に行けるとは思っていたわけではなかった。フィクションだと理解していた。
しかし、目の前に広がる景色は、漫画や小説などで出てくる異世界にぴったり当てはまる。
「ホントに、異世界……?」
真人が確かめる様に見上げると、伊瀬は首肯した。
「ええええええええええ!!!!!」
こうして、真人は伊瀬にしがみついたまま異世界デビューを果たしたのだった。
最後まで読んでくださりありがとうございます!誤字脱字があれば教えていただけると幸いです。