5.新しい職場
「やあ、僕の事を覚えてる?侯爵家の図書室で会った事があるんだけど。」
会ったと言えばあの時の人しか思い当たらないがこんな声だったかしらとリリスは首を傾げる。
「君、うたた寝していたからね。君を補佐に任命したのに何故断ったんだい?あの本を翻訳していたなら向いていると思うよ。」
「申し訳ありません。あまり覚えていないのです。私は平民ですしそんな立派すぎるお仕事は無理だと判断しました。」
王宮のメイド服に身を包んだリリスの元へ身なりの良い男性がやって来た。畳まれたシーツを部屋にセッティングする仕事をしている最中なので話しながら男性は着いてくる。
目の前で微笑む男性は若くサラサラの黒い髪を無造作に結んでいるが間違いなく高位貴族の方だろう。
「ねえ、たまに仕事を手伝ってくれないか?たまにで良いんだ。僕の事はシンって呼んでよ。君の事はリンジーって呼ぶけどいいかい?」
「私に出来る事ならお手伝い致します。このお仕事が優先になりますが構いませんか?それからシン様をお名前で呼ぶのは不敬になると思うのですが。」
「うーん、二人の時にはシンって呼ばれたいけど名前呼びだと親密な関係だと誤解されるしなぁ。やっぱり殿下呼びになっちゃうかな。」
びっくらこいたー
ジェレミーが気に入ってよく使っていた言葉が頭の中に響き渡る。
「無知で申し訳ございません。王子殿下でいらっしゃったのですね。失礼致しました。」
「気にしなくていいよ、王子なんて数え切れない程いるからね。陛下の奥方が五人もいるって事くらいは知っているだろう?」
それは知っている。学園では女の子達が王子を一目見たくて出待ちをしていた筈だ。
どの王子だかさっぱりわからないが皆見目麗しい美青年だったと記憶している。
「僕は主に外交の仕事をしているんだ。君には手紙や資料なんかの翻訳を頼みたいんだよね。その都度報酬は払うから。」
「少し考えても良いですか?」
リネン室のメイドの仕事は思っていたよりも過酷だった。
洗った後の湿ったシーツやカバーは重く体力はあっても筋力のないリリスは一日の仕事が終わると倒れる様に眠ってしまう。
メイドの部屋は四人でひとつの部屋を使っていて同室の先輩はみな優しく明かりを消して毛布を肩まで掛けてくれた。
シン王子はメイド長を通してリリスを呼び出すのだが同室のメイドからぐっすり眠っていると言われて中々仕事を頼む事が出来ずにイライラしていた。
ある日の事リリスがいつもの様に洗濯物が干された裏庭へ行った時だった。
小さな女の子が泣きそうな顔でふらふらと歩いているのを見つけた。目線を合わせる為に膝をついて優しく話しかけた。
「あのね、迷ってしまったの。綺麗な黄色の小鳥がいたから追いかけてきたの。」
リリスの知っている異国の言葉で良かったと思い聞いてみた。
「小鳥は飛んでいってしまったのね。お名前を聞いてもいいかしら。私はリンジーよ。貴方のお父様とお母様を探しましょう。」
「アンジェリーナよ。あのね、お父様はいま王様とお話ししてるの。お母様もよ。」
どひゃー
ジェレミーの気に入りの台詞だ。
これも驚いた時に使うらしいので会っていると思う。
陛下に直接会える異国の客人など限られる。
「あら、ではお姫様なのですね。メイド長にアンジェリーナ様の侍女を探して貰いましょうか。お部屋で待っていれば来てくれるわ。その間美味しいお菓子が貰えると嬉しいですね。」
リリスの言葉に安心した小さなお姫様は美味しいクッキーを食べながら侍女を待った。
リリスは仕事があるので退室をしたのだがメイド長からお姫様は無事に戻ったと報告があったので良かったですと返事をしておいた。
今日も天気が良さそうだ。洗濯物もよく乾くだろう。
リリスが干し終わり伸びをしていた時だった。
「これは染めているのか?元は金髪か?」
いきなり髪を触られて驚き振り向いたら王家の紋章を胸に着けた青年がリリスの前に立っていた。
学園で女生徒が出待ちをした王子はこの方だろうか。
後光がさしてきらきら眩しく拝みたくなる神々しさを醸し出している。
「みっともない姿で申し訳ございません。自分で染めましたもので。」
リリスは眩しさから逃れる為に深く頭を下げる。
「そんなつもりで言ったんじゃないんだ。あまり繰り返して染めると髪が傷むだろう?わざわざ染める必要があるのか?」
「私は没落貴族の娘です。メイドですが知り合いに会う可能性も無いとは言い切れません。迷惑がかからないように髪を切り染めております。この事は内密にして頂けると有り難いのですが。」
「ああ、訳ありちゃんって事か。君の事は詮索しないよ。でもちょっと頼みがあるんだよね。」
私で出来る事ならばと返事をした途端にリリスは手を引かれ連れて行かれた先で新たなお仕着せを着せられた。
「昨日お姫様を助けたのは君だろう?姫の相手をしてやってくれないか?街を案内してくれると助かるんだが。侍女もいるから良いだろう?」
「あの、私は街へ行きたくないのです。」
「ああ、顔バレしたくないんだな。化粧をしてやろう。侍女としてついて行ってもらうつもりでいたがドレスを着ていけば良い。」
「あのっ、街へ行きたくないのです。ドレスも、
「帽子を被れ。姫様の姉上だと思ってお連れしろ、いいな。」
ちっ。これだから王族はよ。
これもジェレミーが気に入っていたお話に出てくる台詞だ。
王子の言葉は絶対なのか、聞く耳を持たない王子はリリスを令嬢に仕立て上げた。
「リンジー!嬉しいわ。また貴方に会いたかったの。街に連れて行ってくれるんでしょう?お父様とお母様はお仕事なの。お姉様って呼んでもいい?」
ある意味ジェレミーによく似た子供だと思った。
この子もまた淋しいのだろう。
「勿論です。今日はお姉様になりますね。さて、行きましょうか。まずはお茶をしますか?お買い物がいいですか?」
小さくても女の子だ。この国のドレスが欲しいと言うのでクリスティン御用達の王都で一番腕のいい針子のいる店に向かう。
クリスティン曰くデザインが良くても針子の腕が良くなければ台無しだ、だから重要なのは針子なんだと力説していたのを思い出した。
「これが好き。リボンも大好き。スカートは膨らんでなくちゃいや。ピンクは好きじゃないの。でもリボンとか刺繍ならピンクでもいい。」
小さいのにしっかりしたお姫様は目が肥えていらっしゃる。
侍女は慣れているようで生地を並べて店主に注文をするのだが通訳するのはリリスの仕事だ。
「これでお姉様とお揃いにしてちょうだい。靴もアクセサリーも一緒がいいわ。」
「え?」
「通訳してちょうだい。わたしお姉様とお揃いのドレスが着たいの。」
請求されたらどうしよう、お祖父様に話して払ってもらうかクリスティンの通帳から借りるか。
「私からのお礼よ。リンジーと過ごすのが楽しいから。」
「そう言って頂けると嬉しいです。私も姫様と過ごす時間が楽しくて幸せです。久しぶりに街へ来ました。」
小さなお姫様はリンジーの寂しげな笑顔に気付いていた。
「リンジーの好きな物を食べましょうよ。貴方の好きな物を教えて?」
この優しさが元婚約者にもあれば・・・と思ったがいくら優しくても存在自体が嫌いだったので考えるだけ無駄だと気づく。
「姫様、これ以上お菓子を召し上がると美味しいディナーが不味くなってしまいますよ。もうそろそろ王宮に戻りましょう。」
「やっとお父様とお母様に会えるのね。リンジーの事を話してもいい?楽しかったお話をしたいの。」
「勿論です。楽しいディナーをお過ごしください。」
無邪気なお姫様は王宮の門を潜ると顔つきが変わった。
小さくても一国の姫なんだなとリリスは感心する。
多くの出迎えがあり姫は連れて行かれた。
「ご苦労だったな。助かったよ。言葉が通じる者が手が離せなくてな。手が離せても姫様の買い物に付き合うのは得意ではないだろうしな。」
背後から声をかけて来たのはキラキラの王子様だった。
どのお妃様の何番目の王子かわからないが見るからに王子なので一応カーテシーをしてみる。
「ははっ、手慣れたもんだな。染み付いた所作は死ぬまで消えないよ。そのドレスは保管しておけ。また頼む日が来るかもしれん。」
(狭いメイド部屋にこんなボリュームのドレスをどうやって保管しよう。天井しかスペースがないわ。布団の代わりにかけてみるとか。)
リリスは最初に着替えた部屋にメイド服を取りに行った。
髪を洗ってくれた侍女が待っていて今日の報酬を渡してくれた時にドレスを預かってくれると言った。
よく出来た侍女だ。多くの男性はプレゼントした物の保管場所など考えたこともないだろう。
昔クリスティンが子犬を貰ったがたったの一年で馬鹿デカくなっていたのを思い出す。
犬は尻尾を振りながらクリスティンの顔を舐めたのだがあまりの臭さに悶絶していた。
その匂いを今でも覚えているのでリリスも大型犬は好きではない。
(あの高速の尻尾も鞭みたいに痛かったわ。)
「坊ちゃんが髪を元の色に戻したらどうだって仰っていたわ。どうする?薬草入りのお湯で洗ってあげるわよ。」
「いえ、このままで大丈夫です。」
「そう?坊ちゃんは傷んだ髪を物凄く気にするのよ。ここは私の執務室なんだけどゆっくりしていきなさい。湯浴みをしていらっしゃいよ。一緒に食事をしましょう。一人じゃつまらないから付き合ってちょうだい。」
侍女は特別なスキルの持ち主だ。
警戒心が強く簡単に人を信用しないリリスに包み込むように入り込んでくる。
昔からの知り合いみたいに、世話焼きのマーサさんみたいに、青果店のアンおばさんみたいに。
「あらっ、泣かせちゃったわ。何か思い出しちやったかしら。あんまり泣くと腫れちゃうわ、可愛い顔が台無しよ?」
侍女はそっとリリスの肩を抱いてくれた。