1.婚約破棄
リリスはバスルームで長い髪に鋏を入れた。
ミルクティー色の淡い茶色の髪ははらはらと床に落ちた。
(肩くらいの長さがあれば暑い日に結べるわね)
領地を持たない伯爵の父は学者で常に何かの研究をしていた。研究にはお金がかかるらしく父は出資してくれる金持ちの女性と関係を持っていた。
最初は喧嘩ですんでいたが母は次第に父のことを見えていないかのように過ごすようになっていった。
幼いリリスから見ても修復は不可能だろう。
口を聞かないだけでなく顔を合わせる事も無くなった時父は同僚の異国の女の人を住まわせた。
「リリス、せめてあなたが学園を卒業するまでは王都にいましょう。卒業したら離婚するわ。私の実家に戻りましょう。お祖父様もお祖母様も待っていてくださるわ。」
だがその前にロズウェル伯爵家は破産する事が決まったのだ。父がこしらえた借金はもうどうにもならない所まできていて当の本人は国外に逃げてしまった。
「オーウェン、両親が離縁するの。ロズウェル伯爵家はもうおしまいだわ。貴方にも迷惑がかかってしまうから婚約は解消しましょう。貴方なら素敵な方がすぐに見つかるわ。」
「リリス!あぁ、僕の愛しいリリス。もっとよく考えよう。君と結婚出来る道は必ずあるはずだ。僕の勉強は君が見てくれなくちゃ困るよ!」
「・・・。」
「リリス、君はこれからどうするつもりだい?」
「お母様の生家に行くわ。お祖父様が色々手配してくれたから。」
「ならば伯爵家の娘のままだろう?結婚に支障は無いんじゃないか?」
心配するなと力強く拳を握り俺にまかせろと言ったオーウェンは婚約を破棄したと友人に話した為に噂が広がりロズウェル伯爵家の破産まで知れ渡ってしまった。
結婚に支障は無かったがリリスはこの男と結婚したくなかったのだ。
「リリス、君を傷ものにしてしまった。ごめんよ。だが君はもう王都では暮らさないんだろう?遠い領地なら君が婚約破棄された事を知られずに新しい婚約者が見つかるさ。君は地味だけれど大人しく従順だからね。」
たったの二年間婚約者だった調子のいい男は事実をぐわんぐわんに捻じ曲げてきた。
婚約解消を告げたのはリリスなのだが?
遠い領地?母方の領地はそう遠くないけれど?
傷もの?
地味で大人しく従順なリリスは最後にオーウェンの顔を見た。
ぎりぎり二重の小さな目に丸い顔、ニキビを無理矢理潰した痕がどう頑張っても垢抜けず思春期丸出しの青臭さが隠しきれない。
背が高いのが自慢で高ければ格好いいと思っている。
リリスのノートだけを頼りに生きてきたので試験の結果は悪くはないがその場限りで何ひとつ身に付いていない。
(私が居なくなってうんと困るがいい。)
「もう会う事もないでしょう。では。」
数少ない控えめな出立ちの友人はおとなしい外見とは違い中身は機関銃のような女の子だ。
「リリス、いつでも力になるわ。あんな男と結婚しなくて正解だったわね。お口の軽い男なんて最低よ。私も婚約破棄してやるわ。オーウェンの友達となんて結婚したくないから。」
「ありがとう、クリス。あいつらが地獄に落ちるのを祈るわ。落ち着いたら手紙を書くわね。」
クリスティンはとても賢い。学園になど通わずとも大学に行ける程賢い。
16歳なのに父親の事業の一部を任されている実業家でもある。
「リリス、これを持って行きなさいよ。貴方の通帳とハンコよ。領地から逃げたくなったらお金がいるでしょう?」
無一文で野垂れ死ぬリリスを見たくないとポンっと大金が預けられた通帳をくれた。
働いて返してくれれば良いからと。
「リリス、勉強は続けなさいよ。知識は力よ。知識が多ければ楽に稼げるわ。いい?負けないで、苦しくなったらいつでも頼って。あんな阿呆ども私がそのうち叩き潰してやるから。」
先日の出来事を思い出していたリリスは短くなった髪を茶色に染めた。
珈琲色の髪はとても重たく感じて嫌な気持ちになる。
バスタブの湯は茶色く濁り消えかけた泡が浮いてる。
(神聖な泉に祈ったら神様が出てこないかしら。願い事を聞かれたらオーウェンくたばれって言うわ。どうやってくたばらせて欲しいか聞かれたら、そうね、うーん、どうでもいいか、縁が切れてバンザイだわ。)
くだらない事を考えていれば少しは気が楽になる気がした。
卒業をして花嫁修行をして少しばかりの嫁入り道具を揃える。結婚式は雪のようなヴェールを被るつもりだった。
王都の小さなタウンハウスに住み赤ん坊が産まれてーー。
そんな普通の人生が訪れると思っていたのに何もかもが無くなるのはまだ16歳のリリスには受け止め切れない。
仮に嫌いな男でも家から逃げ出せる唯一のチャンスだったのだから。
(オーウェンの嫌なところしか思い浮かばない)
いつも地味だと言ってきたけれどオーウェンの顔の方がよっぽど地味だ。
友人にリリスは地味で暗くて一緒にいても楽しくないと文句を言っていたのも知っている。
こちらも楽しくないから笑わないだけだしそのせいで暗いのが何故伝わらない。
リリスは最後に貸したノートに出鱈目な答えを書いておいた。リリスが辞めた後のテストの結果が楽しみである。
と言っても結果を知る事はもう不可能なのだが。
リリスは深い溜息を吐いてバスルームから出て行った。