変えない温もり、変わらない温もり
この作品は丘の上食堂の看板娘(「N3572HH」)の二次創作作品です。
https://ncode.syosetu.com/n3572hh/
時系列は本編開始時点の二年前となります。
そのため、本編未読でも読むことは可能です。
第九話 三八二年 雨の二十三日
または
第十話 三八二年 雨の二十四日
あたりまで読んで頂くと
より楽しめる内容になっていると思います。
ミルドレッド地区の中心街、ミルドレッドの街からおよそ一時間ほどの距離にライナスはある。
これといった特産物もない場所ではあったが、それでも多くの人が知る有名な場所でもあった。
イルヴィナの奇跡、ギルドの英雄と呼ばれたジェット・エルフィン、その生誕地として。
ライナスには小高い丘があり、その丘の上には寄り添うように二軒の店が並んでいた。
ライナスの宿と丘の上食堂、そう呼ばれる二軒の店は、幼い頃から兄弟同然に育った二人、アレック・カスケードとクライヴ・エルフィンが経営をしていた。
クライヴ・エルフィン、英雄ジェット・エルフィンの兄だ。
祈の月も終わりを迎えようとする頃、間もなく深夜になるような時間にも関わらず、クライヴは厨房で一人作業をしていた。
明の月になれば、家族とその友人たちが客人として増える予定だった。
彼らはライナスの宿の一客人ではあるが、特別な客人であることもまた事実。滅多に会えないこともあり、折角だから何か「特別」でもてなしてやりたかった。
手元にある材料を前に腕を組み悩んでみるが、容易に閃きは下りてこない。
――あまり遅くなると明日、シリルが怖いしね。
しかし一度やると決めたからには妥協したくもなかった。
その日は、夕方頃から、丘の上に吹き上げてくる風が強さを増し、それは夜になっても続いていた。
窓を叩く風の音が気になって目が覚めたククルは、ふと扉の向こう側、廊下から漏れてくる僅かな明かりに気がつく。
音を立てないようにそっと扉を開けると、明かりは階下から射し込んでいる。
こんな時間に誰が、と思いながら、ククルはそっと階段を下りていく。自分が産まれるよりも前からこの場所にあった食堂は、適度に年を重ねているからか、階段を一歩踏みしめるたびに、ぎしり、と木の軋む音がする。
物音が立つたびに、ちょっとした緊張を感じながら、少しでも音が立たないように、とゆっくりと木の板に足を下ろしていった。
階下に着くと、厨房にククルの父、クライヴの姿を見つけた。
柔らかなオレンジ色の明かりは、そのクライヴの手元に置かれているランタンから漏れ出したもののようだった。
そして、もう一つ、クライヴの足元にも明かりが見えた。赤黒く揺らめく光が、クライヴを足元から照らし出し、それは壁に向かって長い影を作り出していた。
厨房に足を踏み入れたときに鳴る板の音がやけに大きく響く。
クライヴはその音に身体をびくりとさせたと思うと、ゆっくりと後ろを振り向き、そこにククルの姿を認めて、ほっと息を吐き出した。
「ククル、こんな遅くに。眠れないのかい?」
「シチュー?」
ククルが廊下に出た時点で仄かに香ってきていた匂いは、厨房に入ってしまえば、毎日のように嗅ぎ慣れたお馴染の匂いだということはすぐに分かった。
「もうすぐジェットが来るだろう?何かいつもと違う味で驚かせてみようかと思ってね」
クライヴがこんな時間に鍋の前で悩んでいる理由を知ると、ククルは笑みを浮かべた。
大好きな人のために、と頑張るのはいいけれど、どこかずれているのはエト兄さんとそっくりで。さすが兄弟、そう思った。
「私、父さんのシチュー好きよ」
「ん?」
どんな味付けがいいかと悩んでいたところで、ククルにそう言葉を掛けられ、思わず振り返る。
ランタンと竈にくべられた火だけの部屋。淡い光の中で首筋に流れるように垂れた金茶の髪が、陰を抱くように光る。
その姿はどこか妻のシリルを思わせた。
今年で十五になる娘は、年を重ねるごとに、どこか母親を思わせる事が増え、見違えるほどに成長したと感じる。
「エト兄さんも、きっといつものシチューが一番だと思う」
「そうかな」
「変らないことが嬉しいんじゃないかしら」
「……そう、かもしれないね」
昔から、「エト兄さん」と呼んでジェットを慕っていたククルだ。もしかすると、クライヴよりも、クライヴの弟、ジェットのことを分かっているのかもしれない。
それに、変らないことが嬉しいという言葉は、不思議とすっと心に落ちた。
この丘の上食堂の主として、より良い味を作りたいという気持ちは常にある。一方で、「帰ってきた」と思える味を作りたい、という気持ちもある。
変らないことが嬉しい、というのは、クライヴにとっては、最高の褒め言葉だった。
――こうして教わりながら、育ててゆくものなのかもしれないね。
味も、そこに込める想いも。
「父さん、何か言った?」
「いや」
心の声が言葉になっていたらしく、ククルに尋ねられ、クライヴは思わず苦笑いをする。
アレックの息子、テオがこの食堂の料理の作り方を学びたい、そう言ってきたとき、彼の気持ちも含めて子供たちの成長を喜ばしく思い、その姿を眩しく感じた。
けれど、こうして娘から教わることがあると思うと、自分もまだ成長途中、誰かに何かを教えるなど、まだ早いとも思える。
――学び続けようとする姿こそ大事、ということなんだろうね
「じゃあ、いつも通り、最高のシチューでもてなすとしようか」
「うん、エト兄さんも喜ぶと思う」
シチューが焦げ付かないよう、鍋をかき混ぜていたレードルで、シチューをすくい上げると、小皿に少しだけよそった。
息を二度吹きかけて、少し温度を冷ますと、唇を当てた小皿を傾ける。
牛肉と野菜を煮込んだ出汁に、小麦粉とバターを茶色くなるまで炒めて作ったルーを入れて、肉と野菜が溶けて無くなるほどに時間をかけて煮込む。
そうして出来あがったものに、仕上げにもうひと手間加える。野菜の酸味をまろやかにした上に、コクと甘みが増すひと手間。
シリルが菓子づくりのときにこうすることで味に深みが出ると言う話を聞いて思いついたものだ。
シリルと時間をかけて作り上げてきた、この店の大切な味。
――これだからこそいい、か。
いつものシチューがいい、というククルの言葉を噛みしめるように、シチューの味を舌でゆっくりと味わう。
「それじゃあ、もう寝なさい」
「うん、おやすみなさい、父さん」
「おやすみ、ククル」
ククルが背を向けるのを見て、鍋に向かおうとして、クライヴは、ふと、ククルにいい忘れていたことがあったと気付く。
「ククル」
「なに?」
「ありがとう」
振り返ったククルは、少し黙ったままクライヴを見ていたが、やがて微笑むと
「どういたしまして」
そう告げて、暗がりに姿を消した。
――本当に、似てきた。
ククルが去った後で、その笑顔を思い出し、クライヴは一人、笑みを浮かべながら鍋をかき混ぜた。
帰ってきた時の弟の喜ぶ顔を思い浮かべながら。
それは忘れられることのない温かな記憶
それは変わらず引き継がれていく温かな記録