32・王子
その日は、春のうららかな天気に恵まれた。
僕はいつものように枕元の花瓶の薔薇の香りで目を覚ます。
「おはようございます、イーブリス様」
「おはよう、スミス」
普段着に着替え、ローズを連れて屋敷の庭を散歩する。
五年間、世話になった王都の屋敷をその目に焼き付けるように。
ローズの足をメイドが拭いてくれて、僕はそのまま食堂へ向かう。
「おはようございます、お祖父様」
「おはよう」
あれからずっと三人での朝食だ。
「わあ、ごめんなさーい」
「おはよう、アーリー。 慌てなくても朝食は逃げないよ」
「ぶがもがっ」
口にパンを詰め込んだアーリーの声は何を言ってるのか分からない。
先に部屋に戻り、着替える。
「そろそろロジヴィ伯爵家の馬車が着く時間です」
「分かった」
僕は出迎えのため、玄関に向かう。
「イーブリス様!」
伯爵一家が馬車から降りて来て、僕は婚約者のヴィオラの手を取った。
「ヴィー、おはよう。 とても綺麗だよ」
僕とお揃いの白のドレス姿である。
今日は王都の教会から神官を招き、僕たちの婚約の儀式が行われる。
「こちらにどうぞ」
執事長の案内で来客用の豪華な部屋へと移動する。
本来、儀式は王都の教会で行われるのだが、今日は特別に公爵邸内で行われることになっていた。
神官が到着するまで別室でお茶とお菓子でもてなす。
「ほ、本日は大変良いお天気で」
お祖父様の対面のソファに座る伯爵夫妻は緊張して声が震えている。
「そうだな。 若い者の旅立ちに相応しい」
僕は儀式終了後、すぐに旅立つ。 最北端の領地へは十日ほど掛かるそうだ。
「リリー、このお菓子美味しいでしょう?。 僕が選んだんだよ」
アーリーが自慢げにお菓子を勧める。
「美味しいけど、この間のダンスの練習の時のが良かったなあ」
「えええ」
二人のやり取りに伯爵夫妻の顔は青くなり、お祖父様や使用人たちは微笑む。
「ヴィー、少し庭を歩かないか?」
「はい、イーブリス様」
僕はヴィーを誘って庭へと下りた。
今日の儀式は庭にある小さな教会で行われる。
二人で薔薇園を歩く。
風でアーリーのブランコが揺れている。
ローズは出発の準備のため、同行する騎士団と共に馬車のところに行った。
「イーブリス様、本当に行かれてしまうのですね」
「うん。 ほら、ヴィー、式の前に泣いたらダメだよ」
僕はヴィーの目から涙が零れないようにハンカチで抑える。
「今日でお別れじゃないよ、また会えるから」
安心させるためにしっかりと彼女を抱き締める。
今日の分のヴィーの生気をもらい、ついでに悲しみで濁った瘴気も吸い上げておく。
僕がいない間、彼女には地下の礼拝堂で祈ってもらえるように真っ黒メイドに手配してある。
そして僕はヴィーを落ち着かせるために、彼女の唇に初めての口付けをした。
人間の記憶の中にあった女性の慰め方だ。
驚いて真っ赤になったヴィーに僕はニッコリと微笑んだ。
「キミは僕に全てを捧げると約束したんだよ。 それを忘れないでね」
「はい、イーブリスさま」
もう一度、口付けをしようとしたら邪魔が入った。
「殿下、お待ちください!」
庭がざわつき、スミスさんたちが何かを叫びながらやって来た。
「リブ!」
はあ、ダヴィーズ王子か。
「ごきげんよう、殿下。 お久しぶりですね、どうされました?」
「リブ、どうして行ってしまうんだっ」
ガバッと抱き付かれる。
おー、王子は子供だし生気はいただきますけど、瘴気も、うわっ、多いな。
「殿下、僕は元気になるために田舎に行くだけですよ」
「嘘だっ、この国が嫌いになったんだっ」
グズグズと半泣きだ。
止めてくれないかな、今日の僕は礼装なんだけどって思ってたら、服が汚れる前にスミスさんが何とかひっぺがしてくれた。
立会人の神官が到着したと知らせが来て、僕たちは王子も連れて小さな教会前に移動する。
予定外の殿下の登場でも時間は進む。
僕との別れに大泣きする殿下を王族の護衛に預け、さっさと儀式を始めてもらう。
「公爵閣下、本日は誠におめでとうございます」
ニコニコ顔のでっぷりと太った高位神官さんは、ほぼ真っ黒だった。
僕の顔がニヤリと歪んだのを見てスミスさんが察してくれる。
「良かったですね、浄化されなくて」
小声でそう言われて苦笑した。
よおし、瘴気もいっぱいもらうぞーとしっかり握手しておく。
「よろしくお願いします」
生気は若いほど美味しいが、瘴気はこう熟成されたドロドロしたものが美味しいんだよね。
婚約なので、婚姻の仮契約という書類に署名。
本人たちが未成年なので保護者も署名して、教会に保管するために神官が持ち帰る。
それだけなので静かに儀式は終わった。
僕は着替えてスミスさんと部屋を出る。
廊下でアーリーが待っていた。
「どうしたの?」
歩きながら訊ねると、アーリーはぐっと唇を噛む。
「リブ、本当に行っちゃうの?。 あの殿下のせい?」
アーリーも公爵家が王子の対応に困ってることは知っていた。
僕は隣を歩くアーリーの頭を、手を伸ばしてクシャッと撫でる。
「僕のせいじゃない?」
「アーリー?、何でそんなことを思ったの」
僕は立ち止まってアーリーを真っ直ぐに見る。
「リブは僕のこと、嫌いになったんじゃないかって」
「誰がそんなことを」
アーリーが目を逸らす。
「リリー」
あの女はー。
「そんなことは絶対にないよ。 僕はアーリーがいないと生きられないから」
ギュッと抱き締める。
離れても僕たちは一緒だよ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日、王宮では王子が一人騒いでいた。
「どうして父上は宰相の辞任を許したのですか!」
ダヴィーズ王子は父である国王に不満をぶつける。
「し、仕方がないだろう。 あれは危険な者だったのだ」
ダヴィーズがやっと手に入れた友人イーブリス。
しかし彼は魔物に操られ、国王に『魔物や魔獣に手出ししない』と契約させて去って行った。
その契約のお蔭で、各地から来ていた国軍への討伐依頼も支援も断ることになってしまう。
国民に詳しいことは公表されていないため、王宮の執務室はその陳情騒ぎで混乱の中にある。
このままでは国としての権威が落ちてしまう。
地方領主にすれば、自分たちを守らない国など必要ないのだ。
「せめてラヴィーズン公爵がいて下さったら」
イーブリスの祖父ならば地方領主からの信頼も厚く、彼らに兵力の増強をどの程度許すかを見極めることも出来ただろう。
噂では、ラヴィーズン公爵邸に直接通う領主や、王宮の文官たちもいるそうだ。
ダヴィーズは何度もイーブリスに手紙を書いた。
しかし、あれ以来一向に返事は来ない。
それだけ体調が悪いのだと言われたら返す言葉がなかった。
ひと冬が過ぎ、春が訪れる頃に王宮の混乱がようやく落ち着いてきた。
「殿下、お手紙が着ております」
「ありがとう、そこに置いておけ」
今のダヴィーズにはゆっくり手紙を読む暇などない。
まだ九歳だが、今は国政の勉強に力を入れていた。
「でも、その、ラヴィーズン公爵家からでして」
「なんだって!」
急いで開く。 ドキドキしながら無言で読む。
「イーブリスが……そんな」
ダヴィーズの手からヒラリと手紙が落ちる。
最初はイーブリスとロジヴィ伯爵家ヴィオラ嬢との婚約が成立したという祝い事で始まった。
しかし本題は『イーブリスは王都を出て転地療養することになりました』である。
「最北端の領地だと?!、誰が許可したんだ!」
ダヴィーズは手紙を届けた侍従に食って掛かった。
王都から住まいを移す主要貴族は必ず届け出が必要だ。
「陛下が許可いたしました」
絶望したダヴィーズは床に膝を着く。
近い場所に居ても会えないのに、国の最北端は遠過ぎる。
「そうだ!、彼が旅立つ前に何とか」
手紙を拾い上げ、もう一度読み直す。
婚約の儀式の後、すぐに立つと書かれていた日付は今日だった。




