温泉を楽しもう
僕はみさきと一緒に食堂へ入ると、それぞれ指定された席へ着いた。事前に好き嫌いを聞かれていたこともあって料理がある程度並べられていたのだけれど、綺麗な星空を見ることの出来る席がみさきのために用意されていたのは嬉しかった。僕も星空を見たいとは思うけれど、その星空を見ているみさきを正面に見ることが出来るのは今だけしかないと思うと、それも嬉しかった。
食堂には結構な人がいるのだけれど、全員がこの旅館の宿泊客ではないと思うので、ここは旅館だけではなくレストランとしても親しまれているようだった。中には集落を散策している時に見かけた方もいたので、地元の人にも愛されているレストランだという事がわかった。
並べられていた料理も美味しかったのだが、後から運ばれてきた料理もとても美味しく、僕たちの地元でも見たことのないような料理が色々と出てきた。途中で食べ過ぎてしまっているのではないかと思ったりもしたのだけれど、不思議と一口食べるとまた食べたくなってしまっていた。本当に美味しいものというのはたとえ満腹であったとしてもどんどん食べてしまうものだと思っていた。
食後に出てきたコーヒーゼリーを食べ終えると幸福感と充実感に満たされて動きたくなくなってしまっていた。それはみさきも同じようで、お互いに空になったコーヒーゼリーの入っていたカップを物欲しげに触っていたのだが、それを見ていた旅館の方が追加でプリンをサービスしてくれた。
僕もみさきも本当に満腹で食べられないので断ったのだが、余った分は翌日に持ち越さないで捨ててしまうと言われてしまったので頂くことにした。このプリンも不思議なもので、先ほどまでは水すらお腹に入れたくないくらいに満腹だったはずなのだが、一口食べてしまったらいつの間にか完食をしていた。僕はここに居たら太ってしまうなと思っていたのだけれど、プリンを食べ終えたみさきのニコニコした様子を見ているとそれも良いモノだと思っていた。
予想以上に満足した食事をとってしまったので少しだけ温泉まで行くのが面倒になっていたのだけれど、部屋に戻るとみさきは準備してあった洗面道具一式を手に取って僕を外へと連れだした。正直に言ってしまえば今すぐにでも横になりたいのだけれど、僕は楽しそうにしているみさきの気分を壊すよりは一緒に行って楽しむ方がいいと思って、限界まで張ったお腹を隠すようにみさきの隣に並んで仲良く温泉に向かうことにした。
日中は明るかったのであまり気にしていなかったのだが、この集落は旅館以外に高い建物が無く街灯もそれほど多くなかった。街灯と街灯の間には灯りの届かない空間が割とあるのだが、そこへ入るほんの一瞬の間はこの世界から離れているような不思議な感覚が僕を襲っていた。もちろん、現実にそんな事はありえないし、旅行に来ているという非日常体験を重なっての事だとは思うのだが、ヒカリとヒカリの間にある闇が少しだけ恐ろしく感じていたのも事実だった。
もちろん、みさきはそんな事を微塵も考えていないようで、これから入る温泉を心から楽しみにしているようだった。僕も温泉は楽しみなのだが、見上げた空に広がる満天の星空を温泉に浸かって見られないというのは少し残念だった。空を見上げてみると、灯りのない空間から見える星空がとても綺麗で隣にいるみさきがいつもより可愛らしく見えているのも嬉しく感じていた。
僕たちは旅館で受け取っていた温泉手形を受付に提示してから帳簿に名前を書き、それぞれ男湯と女湯へと別れていった。今日は男湯が広い内風呂を使って露天は使えないという説明を受けていたのだが、いざ温泉に入ってみると内風呂の天井の一部がアクリルで出来ていて、内風呂からも星空を眺めることは出来たのだ。ただ、お風呂の中が明るいのでそれほどたくさんの星空とはいかなかったが、それでも十分に綺麗な景色を堪能することが出来るようだ。
僕はかけ湯をしてから体と頭を洗うのだが、洗っている最中に感じる周りの視線が少し気になっていた。何かマナー違反でもしてしまっているのだろうかと思っていたのだけれど、なんてことはない見慣れない客がいるという事で地元の人も身構えているだけだったのだ。
「そうか。お兄さんは石屋田先生の紹介でここへ来たんだね。あの先生は年に数回はここに来てくれるくらい気に入ってくれているみたいだし、いろんな人に勧めてもらえるのは自分たちが認められているみたいで嬉しいよ」
「僕たちって初めての旅行だったんですけど、それがここで良かったと思いますよ。旅館の料理はどれも美味しかったし、温泉も気持ちいいですからね」
「そうなんだよな。あの旅館ってハッキリ言ってしまうと、旅館としての収入よりもレストランとしての収入の方が多いんじゃないかって思うんだよな。今日はお兄さんたちの他にも何組か宿泊しているみたいなんだがね、酷い時では三週間くらい宿泊客がいないってときもあるみたいなんだよな。それでもさ、あそこの料理はどれも絶品なんで日帰りであそこの料理とここの温泉を楽しもうって人が結構いるんだよ。そういう人たちは食事の前に温泉に浸かって飯を食ったら帰っちゃうんだけよな。だからさ、お兄さんたちみたいに食後に温泉に来る人がいるのって珍しいんだ。ここの温泉も旅館のレストランも観光客より地元客の方が多いって言うんだから困っちゃうよな」
「でも、地元の人に愛されているってのは良い事だと思いますよ。それに、ここの人達って地元の人だけで独占しようって感じじゃないですもんね。結構そう言う場所ってよそ者を排除してるイメージがあったから少しはいるの怖かったです」
「テレビとか見てるとそう言う話題とか結構あるもんな。お兄さんは知らないかもしれないけど、この辺りは戦前まで結構な数の集落が点在してたんだよ。人口だって今よりもずっと多かったんだけど、気が付いた時にはこの集落ともう一つくらいしか残っていないのさ。もう一つの集落もどこかの企業が所有して俺達も気軽に行けなくなったんでどうなっているのか知らないけれど、山道をたどっていったら昔の集落跡に行けるかもしれないぞ。行ったところで何もないんだけど、野生動物が暮らしているって可能性はあるかもな。ただ、熊が出る可能性だってあるから近付かない方がいいと思うよ」
「僕の地元も結構キツネとか鹿は出るんですけど熊は怖いですね。帰り道に出たらどうしようって思いますよ」
「それはきっと大丈夫だと思うよ。この集落を囲むように森の中にいくつか罠と電気柵を仕掛けているからさ、熊だっておっかながって滅多な事じゃ近付いてこないからさ」
「そう言えば、バス停から旅館に向かって歩いている時に変な看板を見かけたんですけど、アレって戦前に建てられたんですか?」
「看板?」
「はい、“コノ先、日本国憲法通用セズ”って書いてありました。ハッキリとは読めなかったんですけど、うっすらと書いてある文字を見たらそんな感じだったと思います」
「ああ、それは昔集落が沢山あった時にあちこちに建ってあったよ。水だの食糧だのを巡って集落同士で争っていた時の名残だな。水だって食糧だって皆で均等に分ければ困ることなんてないのにさ、持ってる奴は独占したがるんだよな。俺らの集落はどっちもそれほど恵まれてはいなかったけれど、幸か不幸かこの素晴らしい温泉があったんだよ。どんなにいがみ合ってる奴らだってさ、この湯に浸かればみんないい気分になって家に帰ることが出来るんだよな。それでも、二日も経てばみんなでまた資源を奪い合おうとするんだよ。俺たちの上の世代の人達はいがみ合っても仕方ないって思って揉め事には参加しなかったんだけどな、いつだったか忘れたけど殺人事件があったらしいんだ。それで結構な人数の男たちが警察に捕まっただかで人がどんどん減っていって、しまいにはこの集落以外ほとんど人が住んでない状態になってしまったってわけさ。水も食糧も大事には違いないけどさ、人様の命を奪うのは違うと思うよな」
「そうですよね。どんなことがあっても人の命を奪うのって良くないですよね。それに、僕は一つわかったことがあるんです」
「お兄さんは何がわかったんだい?」
「この温泉に浸かってあの旅館の料理を定期的に食べていると、皆さんみたいに幸せそうになれるって事ですね」
「確かにな。こんなど田舎だってこの温泉とあの料理があればみんな幸せになれるに違いないな。こんな幸せな時間は都会にだってないだろうよ」
僕が勝手にイメージしていた田舎というのは排他的で新しい慣習を一切受け付けないと思っていた。だが、この集落はそうではなく、よそ者である僕たちを温かく迎えてくれているし、料理だって多国籍と言うか無国籍と言うかとにかくオリジナリティあふれる素敵なものだった。絶対に和食でなければいけないという考えではなく、美味しいモノなら何でも受け入れるという気持ちは、古くからこの地に温泉があって温泉に浸かったみんなが幸せになっているからこそ、広い心で何でも受け入れているからだろうと思った。
田舎というものも、案外良いモノなのだと思ってアクリル越しの空を見上げると、窓についていた水滴が流れるのと同時に星も一つ流れていった。
僕は久々に見た流れ星を見て、みさきも流れ星を見ているといいなと思っていたのだった。