登校しよう 前田正樹の場合
寝返りをうつと少しだけ空いていたカーテンの隙間から差し込む光が顔に当たっていたらしく、その眩しさと暖かさで目が少しずつ開いて行った。ぼんやりとした視界の隅に本来ならいるはずのない人影が見えたので、少し焦って顔を上げてしまった。
「おはよう、今日もよく寝ていたね」
なぜが俺の部屋の中に唯がいるのだが、寝る前にちゃんと鍵はかけておいたはずだ。鍵を開けるにしても二つあるうちの一つは特殊な形状なので合鍵は作れないと思うのだが、それでも唯は俺の部屋の中に立っていて、今もなお俺の顔を覗き込んでいた。
俺は首からかけている鍵を確認したのだけれど、寝る前と変わらないようだった。とりあえず、唯がどうしてここにいるのかが気になっていたので聞いてみることにしよう。
「なあ、どうして俺の部屋の中に唯がいるんだ?」
「お兄ちゃんの寝顔が見たかったからだよ」
「どうやって入ったんだ?」
「普通にドアを開けて入ったよ」
「鍵はどうやって開けたんだ?」
「鍵なんかついてないよ」
俺はその言葉が本当なのか確認するためにドアを開けてみたのだけれど、鍵がかかっているのでそのままでは開かない状態であった。俺は持っている鍵を使って部屋から出ると、そのまま鍵をかけても本当に鍵が開いているのか確認をしてみた。
結果はもちろん鍵はかかっている。押しても引いても鍵がかかっているので開くことは無かった。そして、鍵がちゃんとかかっているのを確認した後でもう一度鍵を開けてみると、俺の部屋の中には唯がいなかった。さっきまで居たはずの唯が消えていた。
「お兄ちゃんは不思議そうな顔しているけど、混乱しているのかな?」
廊下から聞こえてくる唯の声に驚いて見てみると、さっきまで俺の部屋に居たはずの唯が廊下から部屋の中を覗き込んでいた。窓の外にはベランダも無いし、窓には鍵が内側からかかっているので出入りはしていないだろう。どうやって部屋に入って、どうやって部屋から出たのか、俺にはさっぱりわからなかった。
「そろそろ下に降りてご飯食べようね。今日から高校も普通に授業始まってるんでしょ?」
「あ、ああ。その前に顔洗ってくるよ」
俺は何となく腑に落ちないまま鍵をかけて、洗面所へと向かった。
「どうやって唯は俺の部屋に入ったんだろう?」
独り言のようにつぶやいてみたものの、その答えは全く浮かんでこなかった。明日もこのようなな感じだと困るのだけど、唯が使っている方法がわからない以上対策の立てようもなかった。
朝から食べるには少し量が多い気もする朝食をとり、学校へ行く準備をして外へ出ると、門の外に誰かがいるような感じがしていた。ゆっくり近づくと、柔らかい風に乗って優しい甘い匂いが漂っていた。
「まー君おはよう」
「おはよう」
なぜかみさきが俺の家の前で待っていた。自転車も無いので徒歩でここまで来たのだろうか?
「まー君が何時に家を出るのかわからなかったから、七時から待ってたよ」
「え? 一時間もここで待ってたの?」
「うん、早くまー君に会いたかったけど、急かすのは違うんじゃないかなって思ったんだよね」
「いやいや、それならそう言ってくれたらもう少し準備も急いだのに」
「いいの。こうして待ってる時間もまー君の事を考えることが出来たし、会えない時間が愛を育てることもあるんだよ」
「でも、家からここまで結構時間かかったよね?」
「そうなの、本当は自転車で来ようかなって思ってたんだけど、急いで家を出たら自転車の事忘れてたよ。一回取りに戻った方が早くこれたと思ったんだけど、一緒に歩くのもいいかなって思ったんだよね」
「一緒に歩いた方が長い時間いっしょに入れるかもしれないよね」
「うん、まー君も同じ気持ちなんだね。ところで、今日のお昼はお弁当かな?」
「今日も母さんが作ってくれたお弁当だよ。俺も一つ聞いていいかな?」
「なあに?」
「みさきの横で俺の事を睨んでる人って、みさきの知り合い?」
俺はみさきから感じる良い匂いでみさきだとは気付いていたのだけれど、それよりも先に塀の透かしから見えていた制服で誰かがいるのには気付いていた。ただ、それはみさきよりも数倍は大きかったと思うので、何なのかは実際に見るまではわからなかった。
「睨んでる?」
「うん、俺の事をずっと睨んでる人」
俺の事を見る時はずっと睨んでいるのだけれど、みさきが見ている時のその人は満面の笑みを浮かべていた。誰なのか何の目的なのかはわからないけれど、俺に対して好意は抱いておらず、敵意が全開なのだろうとは予想がついた。
「みさきタンは早起きしてまでこいつの家にきたかったの?」
「そうだよ。無理に付き合ってくれなくても大丈夫だったのに」
「そんなことは無いよ。可愛いみさきタンが朝早くから外に出てたら気になっちゃうじゃん」
「私だって早起きできるんだよ。今まではしなかっただけで」
「でも、どうして早起きしてこんなとこまで来たの?」
「昨日の夜はお風呂に入ってすぐに寝ちゃったから、少しでも早くまー君に会いたいなって思ったんだよ」
「ねえ、さっきからまさかと思っていたんだけど、この男ってみさきタンの何?」
「え、私の大好きな彼氏だよ」
「みさきタンに彼氏が出来たなんて聞いてないなぁ。ちょっとだけこの男と話してもいいかな?」
「ええ、私もまー君とお話ししたいんだけど、愛ちゃんは学年違うし話す機会も少なそうだから特別だよ。でも、まー君の事を好きになったらだめだからね」
「うん、好きになることは無いから安心していいよ」
「その言い方はちょっとショックだけど、愛ちゃんの事は信用しているからね」
俺はこの知らない女に腕を引かれて庭の奥へと歩いて行った。この人が何者なのかはわからないけれど、この行動は不法侵入なんじゃないかと思ってしまった。みさきから見えないように庭の奥まで行くとそのまま家の陰に二人で隠れた。
「なあ、お前ってみさきと付き合っているのか?」
「そうだけど、それが何か?」
「なんでお前みたいなチンカスとみさきが付き合えるんだよ?」
「昨日の放課後に告白されたからだけど」
「なんでみさきがチンカスに告白するんだよ?」
「それはみさきに聞いてみないとわからないじゃないか」
「で、なんでお前はOKしてるんだよ」
「あなたに言う必要あるんですか?」
「あるに決まっているだろ。私はみさきと愛し合っているんだよ」
「ごめん、意味が分かりません」
黙って聞いていたんだけど、これは本当に意味が分からなかった。
「あ? 私とみさきは愛し合っているってことだよ」
「ちょっと気になっているんだけど、その胸に何か詰め込んでるんですか?」
「ばか、そんなわけないだろ。これは天然だよ」
目の前の女の人は恥ずかしそうに胸を両手で隠しているのだけれど、二本の腕だけでは隠しきれずに上下にはみ出していた。これが本物なのか偽物なのかはわからないけれど、偽物だとしたら限度を知らなすぎだし、本物だとしたらちょっと意味が分からない大きさであった。
「そうか、お前も男だからこの胸が気になるんだろ?」
「いえ、気になる事は気になりますが、あなたが思っているのとは違う意味だと思います」
「どういう意味だよ」
「それだけ大きいと色々大変そうだなって思いまして」
「そりゃ、色々大変だけどさ、お前も男だから性的な意味で興味あるんだろ?」
「申し訳ないんですけど、大きいのとか興味ないです」
「お前は男だろ?」
「男でも人によると思いますけど」
もともと俺は胸に執着するタイプではなかったので、グラビアなんかを見ても特に何か思うところもなかったのだ。
「そんなわけないだろ、どんな奴だって私の顔より胸を見る頻度の方が多いんだぞ……って、お前は私の胸を全然見ないな」
「みさきに見せていた笑顔が見れないのかなって思ってまして」
「なんで私がお前に笑顔を見せなきゃいけないんだよ」
「そう言われても答えは無いですけど」
「よし、特別にこの胸を触らせてやるから、その代わりみさきは別れてくれ」
「いや、興味ないもの触りたくないし、みさきと別れなきゃいけないなら触る理由ないです」
「チッ、なかなか強情なやつだな。わかった、お前の事は認めてはいないけれど、これからしばらくの間はみさきにふさわしいか観察させてもらうぞ」
「別にあなたに認めてもらわなくてもいいんですけど」
「そう言うわけにはいかないんだよ。お前の名前は?」
「俺の名前は正樹です」
「おい、私に名前で呼べって言うのか?」
名前を言えって言ったじゃないか。
「前田です。前田正樹です」
「そうか、前田だな。覚えたぞ」
確か、みさきはこの人の事を愛ちゃんって言ってたな。
「愛ちゃんは何て名前なんですか?」
「おい、なんでお前が愛ちゃんって呼んでるんだ?」
「え? みさきがそう呼んでたし、名前知らないから仕方ないじゃないですか」
「それもそうか、胸に興味ないんじゃ私の事を知らないのも仕方ないか。私の名前は鈴木愛華。三年生だからお前の先輩だ。呼ぶときは愛華先輩と呼んでいいぞ」
何だか急に親し気になってきたのだけれど、愛華先輩の目が俺の後ろをじっと見ていたので何かあるのかと振り返ると、そこにみさきが立っていた。
「全然戻ってこないから気になってきちゃった。二人で何してたのかな?」
みさきは俺を通り越して愛華先輩を見つめていたのだけれど、その表情は今まで見たことが無いような感情を押し殺している感じだった。
「いや、前田とみさきタンの良さについて語り合ってたんだよ。なあ」
「あ、ああ。俺の知らないみさきの良さを教えてもらってたんだよ」
何となくだけど、ここで話を合わせておかないと愛華先輩が気の毒な事になり様な予感がして、話を合わせることにしておいた。みさきの反応は、上々のようだった。
「なんだ、私の良さって照れちゃうな。まー君にだったらなんでも見せてあげるんだから、他の人に聞かないで私に直接聞いてね」
みさきは俺の両手を握りながら笑顔でそう言っていた。