四者三葉 前田唯の場合
みさき先輩が仲良くしてくれるなんて、去年の定期演奏会で初めて見た時には思いもしなかったよね。これからもっともっと仲良くなれたら嬉しいな。お兄ちゃんの彼女ってことは私も仲良くしてもらえるって事だろうしね。
「唯もテスト勉強した方がいいんじゃないか?」
「私はお兄ちゃんと一緒で家で勉強しなくても大丈夫だもん」
「俺だって毎回勉強してないわけじゃないよ」
「今日はみさき先輩を誘いたかったから勉強してるだけのくせに」
お兄ちゃんは普段も勉強しろって言ってくるけれど、いつもならその後に教えてくれたりもしてるんだけどな。今日はみさき先輩が一緒だからそれは後に取っておくことにして、もう少しみさき先輩とお話してみたいな。
私のスマホにお母さんからメッセージが入っていたんだけど、お母さんにはお兄ちゃんの彼女が遊びに来てるって事だけ伝えて直接お迎えしに行ってこようかな。
「お母さんが買い物から帰ってくるみたいだからお出迎えしてくる」
お母さんはお兄ちゃんに彼女が出来るなんて微塵も思っていなかったと思うけど、それは私も一緒だし、お兄ちゃんには私がいるから彼女なんて必要ないって思っていた時期もありました。でもね、その彼女がみさき先輩って話なら別よね。私もみさき先輩とこんなにお話しできるなんて神様がいるならお礼を言いたい気分だわ。
お母さんは私が送ったメッセージで全てを察していたようで、いつもなら玄関まで真っすぐに向かってくるのに、今日は車の中で待機していた。
「まー君の彼女ってどんな感じなの?」
「お兄ちゃんの彼女はね。何と、私の憧れの先輩なの」
「唯ちゃんの憧れの先輩ってどの人なの?」
「むっちゃんの演奏会に行った時に一目惚れしたフルートの先輩だよ」
「お母さんはその人を見たこと無いんだけど、可愛い感じなのかな?」
「すっごい可愛いよ。お母さんも一目見たらびっくりすくらい可愛いから」
「じゃあ、まー君いばれないようにこっそり見ておこうか」
お母さんはお兄ちゃんの事になると意外とノリノリで悪ふざけに付き合ってくれる。特に、友人関係の話になるとお母さんは心配しているからなのか、いつも以上に深く関わろうとしてくる。
お兄ちゃんは社交性という言葉を知らないみたいなので気持ちはわかるんだけど、私がやられる側の立場だったら怒ってしまいそうなくらい、お母さんはお兄ちゃんの人間関係を気にしている。
二人で車から離れてばれないように庭に出ると、窓の端からばれないように中を覗いてみた。
「ねえ、あの子がまー君の彼女なの?」
「そうだよ」
「ここからじゃ顔が見えないわね。お母さんはちょっと移動してみるけど、唯ちゃんはどうする?」
「私もついていくよ。お母さんだけだと不審者に思われちゃうかもしれないしね」
お兄ちゃんがリビングにいないことが少し気になってはいたけれど、今はそんな事よりもみさき先輩がお母さんに気に入られるかの方が問題だ。嫌われる要素なんてないんだけど、お母さんもお兄ちゃんが大好きだから取られたって思わなきゃいいんだけど。
「ちょっと、唯ちゃん。横顔だけでも凄く美人じゃない。お母さんは嬉しいわ」
私はみさき先輩の横顔をまじまじと見てみたのだけれど、確かに正面から見たら可愛らしい感じだったのに、横から見たら凄く美人に見えている。可愛いのに美人ってずるい。他人に興味を持っていないお兄ちゃんでも好きになるのはわかるかもしれない。
「ねえ、まー君はどこに行ったのかしら?」
「お兄ちゃんの事だから、お母さんの荷物を持っていくのを手伝おうと思っているんじゃない?」
「それはダメよ。彼女を放っておいてお母さんの手伝いをしちゃ駄目じゃない。マザコンだと思われるわよ」
「それは大丈夫だよ。お兄ちゃんはマザコンじゃなくてシスコンだってちゃんと説明しておくからさ」
「唯ちゃん。それも誤解を招く発言だからダメよ」
お母さんと話をするときは学校の話かお兄ちゃんの話かアニメの話かお兄ちゃんの話か料理の話かお兄ちゃんの話になってしまう事が多い。結局、お母さんも私もお兄ちゃんが大好きなのだから仕方ない。
そんなこんなでお母さんと話をしながらみさき先輩を見ていると、思いっきり目が合っていた。みさき先輩は私が想像していたよりも驚いていたようで、お母さんを見て完全に固まっていた。そんなみさき先輩が私に気付くと少しほっとした様子だったので、手招きして窓の鍵を開けてもらう事にした。
「みさき先輩ありがとうございます。こちらがお母さんで、こちらがみさき先輩だよ」
「初めまして、正樹の母です」
「どうも初めまして。佐藤みさきです」
「唯から聞いたわよ、正樹と付き合ってくれているんだってね。あの子はちょっと他人と距離を置いているところがあるから心配だったんだけれど、みさきさんみたいに素敵な人が彼女なら私も嬉しいわ」
お母さんはさっきまでのお母さんと言葉遣いどころか声も変えていて、しっかりしている大人のようだった。他の人と話すときはまー君じゃなくて正樹って呼んでいるのは、結構前にお兄ちゃんに本気で嫌がられたからだ。最初はずっと正樹と呼んでいたのだけれど、いつの間にか家族だけの空間ではまー君と呼ぶようになっていた。お兄ちゃんは最初は抵抗していたのだけれど、誕生日の日にケーキのプレートだけではなく他の料理にもまー君と書かれていたことがあって、その日以来お兄ちゃんは家族だけの空間ではまー君と呼ばれることを黙認するようになっていた。
普段のお兄ちゃんが大好きなお母さんも好きだけど、こうやって余所行きのカッコつけお母さんも好きだったりする。唯ちゃんのお母さんは美人なのに気さくで人当りもいいのだけれど、家族以外はお母さんがお兄ちゃん大好きな変な人だって知らないんだよね。
そんなことを考えていると、お兄ちゃんが誰にも気付かれること無くリビングに戻ってきた。どうして誰も気付かなかったのかはわからないけれど、私とお母さんはみさき先輩に注目していて、みさき先輩は私とお母さんに注目していたから、お兄ちゃんの存在に気付かなかっただけだと思う。
「あ、お兄ちゃん。どこに行っていたのかな?」
「正樹にも彼女が出来るなんて嬉しいわ。それもこんなに可愛らしい子だなんて」
「みさき先輩は私がむっちゃんの演奏を聴きに行った時に一目見ただけで憧れちゃった先輩なんだよ。お母さんにもその話したから覚えてるよね?」
「ああ、唯ちゃんが帰ってくるなり興奮しながら話していた人の話でしょ?」
「そうそう、あの姿はBlu-rayにして永久保存しておかないともったいないよ。人類にとって物凄い損失になるよ」
「あの、そこまでの演奏だったかはわかりませんけど、そう言ってもらえると嬉しいです。あと、定期演奏の時の映像なら山本さんに頼めばコピーしてもらえると思うよ」
ちょっと待って、むっちゃんはそんな事一言も言ってなかったのに。あれだけ私がみさき先輩の事を好きだって言ってたんだけどな。こうなったら直接電話して問いただしてみようかな。
「ええ、むっちゃんそんな事言ってなかったのに。今度頼んでみる……今頼んでくる。お母さんにも見てもらいたいし」
「あらあら、唯ちゃんは夢中になると前だけしか見てられないのね」
私はリビングを出ると一目散に自分の部屋を目指して駆けていた。誰よりも早く身軽な感じで階段を上ると、私の部屋に滑り込むように入っていった。
なるべく外の空気を部屋の中に入れないように、ドアを最小限に開くことにしたのは理由がある。さっきまでお兄ちゃんが私の部屋にいたからだ。
さっきも感じていたけれど、お兄ちゃんが入った後の部屋は空気が浄化されているような気がする。本当ならお兄ちゃんを部屋に常駐させたいんだけれど、なかなか部屋に入ってくれないんだよね。勉強を教えてくれるのもリビングなのは少し寂しいよ。
気を取り直してむっちゃんに電話してみると、電話には出てくれなかった。
もしかしたら部活で忙しいのかもしれないので、メッセージを送る事にしておいた。
『佐藤みさき先輩と私のお兄ちゃんが付き合ってます。連絡待ってます。』
なるべくならメッセージは簡潔にした方が良いって聞いたことがあるので、むっちゃんにはこんな感じで送っておこう。その方が返事も気やすいだろうしね。
そう言えば、むっちゃんの事で頭がいっぱいになっていたんだけれど、お気に入りのスニーカーが庭に出しっぱなしじゃない。でも、今のタイミングでリビングに戻るのはちょっとタイミング的に気まずくなりそうかも。
どうしようかなと思っていると、スマホにメッセージが着ていた。
『唯ちゃんのお兄ちゃんがみさき先輩と付き合っているの???』
私はすぐに返事を返してあげることにした。
『そうだよ。私も今日初めて知ったんだけど、お兄ちゃんがみさき先輩と付き合っているの。私が一目惚れした先輩だよ。凄くない?』
『唯ちゃんのお兄ちゃんがみさき先輩と同じ高校だってのもびっくりだけど、付き合う事になってるのもびっくりだよ。みさき先輩って告白されても全部断っていたんだよ』
『それだけお兄ちゃんが魅力的だってことだよ。ところで、みさき先輩が演奏してた去年の演奏会のDVD持ってるの?』
『唯ちゃんのお兄ちゃんの魅力は唯ちゃんから聞いていたけれど、中学別の二人ってことは高校に入ってから魅力に気付いたってことだよね??? DVDはあるよ』
『そのDVD見たい』
『今度持っていくからみさき先輩の話を聞かせてね。休憩終わるから部活戻るよ』
みさき先輩のDVDは見れることになったので一安心だけど、お兄ちゃんに頼めばコピーしてもらえるかな?
とりあえず、いつになるかはわからないけれど、むっちゃんと遊ぶのも楽しみが増えたな。お兄ちゃんの魅力でむっちゃんが惚れちゃわないようにだけ気を付けなくちゃね。
このままリビングに戻って靴を取るのは何となく恥ずかしくなっているので、玄関から庭に回って気付かれないように靴を回収することにしよう。
下駄箱を開けてサンダルを取り出すと、奥の方にスニーカーがあるのを発見してしまった。多分、お兄ちゃんが持ってきてくれたんだと思うけれど、やっぱり優しいところがあるよね。でも、片方しか見つからなかったので、結局は庭の方に行く事になった。
サンダルを履いて玄関を抜けると、誰にも気付かれないように庭へと向かった。角から顔だけを出して確認したのだけれど、やっぱりスニーカーは片方だけ放置されていた。
「お兄ちゃんは優しんだけど、時々こういうことするよね。そんなところも大好きなんだけどさ」





