【第1話】痛くしないよ。♀ (挿絵あり)
三田村雄介は困惑していた。
風もない教室の中でふわりと揺れる、サラサラのストレートの髪。
目の前に立つ、女子としては身長の高いその少女が、潤んだ切れ長の瞳で上目遣いに雄介を見つめている。
「雄介、約束通り、雄介の血を私に分けて……」
「え、え?」
ごくごく普通に生きてきただけの、ごくごく普通の高校一年生である自分が、今こうして人気のない旧校舎に呼び出され、迫られているのだ。
しかも相手は、今日の朝雄介のクラスに転入してきた、超がつくほどの美少女。
すらっと鼻も高く、凛々しくととのった弓月の眉。
『かわいい』、よりも『美人』、と形容できるその少女の顔が、息もかかるくらいに近づく。
雄介の頬にぴたりと添えられた両手は、少女の心を現すかのように僅かに震えている。
〝もしかして、告白?〟
ここにくる前まで、雄介も少しは期待していた。
放課後、こんなところに呼び出したという事は、そういう事かな、と。
ただし、手紙を渡されるとか、付き合ってください、とか、予想していたのはその程度の事だった。
しかし……。
「ちょ、ちょっとっ、何言ってるのか分かんないんだけど……あの、西條さん? ちょっと、ねえ?」
雄介はこのいきなりな展開についていけず、頬を包む少女の手から逃れるように後ずさった。
「やっと……やっと会えたね雄介……私、一日も雄介の事、忘れた事なかったよ?」
逃げる雄介をまるで追い詰めるかのように、西條美月は見つめる目を少しも逸らさないまま、ゆっくりとにじり寄る。
「え……と?」
忘れた事がない……と言われても、雄介にはこの少女と会った記憶がない。
とん、っと雄介の背中が壁に触れた。
「はあぁ……雄介……」
美月は僅かに上気した顔で甘い吐息を漏らし、壁を背にした雄介にぴったりと寄り添う。
背伸びをした美月の豊満な胸が、雄介の胸に押し当てられて形を歪ませる。
「西條さん……あの、当たっ……」
「大丈夫、私も初めて、だから……痛くしないよ……優しく、するから……」
美月の艶やかでふっくらとした唇が、艶めかしい動きで薄く開かれる。
「や、あ、あのっ、それは普通、男の、セリフでは……?」
言ってはみたものの、雄介にも詳しい事は分からない。
自慢ではないが、雄介もまったくモテない方ではない。
ラブレターをもらった事もあるし、告白された事もあるにはある。
だが、こんな事は初めてだった。
もう距離はほとんどない。それにも関わらず、美月は更に顔を近づけてくる。
「ま、待った、西條さん、近い、近いっ」
「静かに……私……もう、我慢できな、い……」
妖しく開かれた唇の隙間から、きらりと光る、人にしては長めの犬歯が覗いた気がしたのは、焦っている雄介の気持ちのせいだったのかもしれない。
「だからねっ、西條さんっ……ちょっと、落ち着いてっ」
雄介だって男だ、美少女に迫られれば、もちろん嬉しい。嬉しいのだが、釈然としないのは、彼女の言葉だ。
さっきから、会話が微妙に成り立っていないような気がする。
「お願い、雄介の血……ちょうだい……」
極めつけはこれだ。
「いや……なんで、血……?」
雄介のもっともな疑問に、美月の顔からは今まで見せていた妖艶さが消え、悲し気な色が滲む。
「なんでって……約束……したでしょう?」
「えっと……ごめん、何の話? ってか、初対面だよね、俺たち」
「は?」
美月の頬がひきつったようにぴくんっと動いた。
「あの、なんかのドッキリ? 前の学校で流行ってた遊び、とか?」
それ以外、雄介には思い浮かばなかった。
この辺で、『ねえ、びっくりした?』とか、彼女が吹き出して、二人で笑って終わり。たぶんそういう遊びなのだろう。
〝初対面の男子に迫って血をせがむって、なんの遊びだよ〟
当然そう考えてしまうくらいに、意外性に突き抜けた遊びだと雄介は思った。
ただ、遊びやいたずらなら、他に誰かが隠れていて、そろそろ飛び出してきてもいい頃だが……。
「はあ?」
だが、美月の反応は雄介の想像していたものとは違っていた。
「遊び?」
美月の声が、1オクターブ低くなる。
「雄介は、私が……遊びでこんな事、するって思ったの?」
美月は僅かに下がり、雄介の襟元を両手で掴む。
「いや、ちょっと待って。ってか、遊び以外に何があるの? この学校じゃ流行ってないけ……」
「もしかして、ホントに忘れたの?」
雄介の声に被せるように美月が尋ねた。
「え? 忘れたって……何を?」
雄介を見つめる美月の瞳が、みるみるうちに涙を湛える。
「え? いや、なんで? なんで泣いて……」
ぽろり、と大粒の涙が一つ、美月の頬を零れ落ちる。
「最低っ……」
美月は、涙をにじませた瞳で、キッと雄介を睨みつけ、ふるふると肩を震わせた。
「雄介の、ばかっ!!」
ばちん、っと雄介の頬に思い切り平手打ちをした美月は、踵を返して駆け出し教室の扉を開け放つ。
「思い出さなかったら、もう遊んであげないんだからねっっ!!」
大人びた容姿に似合わない、子供みたいな捨て台詞を残し、美月は廊下を駆けていった。
「え……え?」
一人教室に残された雄介は、この状況を飲み込めずに、美月の出ていった扉を呆然と眺める。
考えてみても、いったいあれだけの美少女といつ出会っていたのか、まったく思い出せる気がしない。
「あれ? そういえば西條さん、俺の事『雄介』って名前で呼んでたな」
しかも呼び捨てだった。
となると、名前で呼び合うほど、仲が良かったという事だろう。
雄介には本当に、まったく覚えがなかったが。
それに、一番の疑問は血を欲しがるという事だ。
「輸血が必要って事かな? いや、俺普通のO型だし、病院行けば輸血用の血液なんて十分あるよな」
ただ、美月の表情や言葉は、輸血を頼んでいるようには思えなかった。
気のせいだとは思うが、美月の口元から一瞬だけ覗いた犬歯は、まるでいつか映画で見た事のある吸血鬼のような……。
「いやいや、それこそないわ。なんだ吸血鬼って、アホか俺」
そう思った時、最後に美月が見せた、悲しそうな顔が雄介の脳裏に浮かんだ。
「……でも……泣いてたよな……西條さん……」
雄介は、平手打ちを貰った左頬に手を添えた。
「痛っ」
口元に違和感を覚えて拭った掌に、切れた唇から流れた血がべっとりと付いていた。
「うん、容赦ないな西條さん」
できるなら、二度とあの平手打ちは喰らいたくない。
「え? 待って……まさか、血って、こういう事……?」
背筋に冷たいものが走るのを感じて、雄介は思わず身震いをする。
明日の朝までには、なんとかして彼女の事を思い出そう。
雄介は心の中でそう誓った。




