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福来る  作者: 千百
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第三話

 小学生の頃、薫子は友人たちとけんかになった。原因は、もうよく覚えていない。たぶん、たわいもないことだったのだろう。覚えているのは、数名のクラスメイトに取り囲まれて、ただただ悔しい思いをしたこと。だがそんなことは今となってはどうでもいい。問題は、彼らに面と向かってぶすと言われたことだった。


 薫子は打ちのめされた。薫子を苛めた子供たちは、先生にこっぴどく叱られた。学級会が開かれ、彼らは教室の前に出てきて、皆の見守る中で薫子に謝罪した。だが、当の薫子は、そんなけんかも謝罪もどうでもよくなっていた。ブスと言われたことの方が深刻だった。

 たとえ百人が束になって謝ってきたとしても、どうせ私はブスなのだ。私がブスなのは決まっているのに謝られてみたところで、一体何の解決になるだろう?


 ブスであるということは、それほどのことなのだ。何を頑張っても、何が出来ても、結局ブスなのだ。ブスならば意味がないのだった。薫子は、それまでの活発さを完全に失い、目に見えて暗くなった。私はブスなのだと、これまで頑張っていた勉強もプールも、何もかも投げやりになった。ついには夏休みに入る前の保護者面談で、担任の女性教師からこっそりと、御両親そろってお見えになってくださいという連絡が入るほどだった。



 保護者面談に行った正造と葵は、まさか自分の娘が学校でブス呼ばわりされていたとは思いもよらず、衝撃を受けた。言われてみると確かに娘は最近、どことなくようすが違っていた。ふさぎがちというほどでもないが、口数が少なくなっていた。だがそれは、思春期を迎えつつある娘の、成長の段階か何かだと思っていた。娘も落ち着いてきた、という程度の認識だったのだ。だから、まさか薫子がそうした理由で大人しくなっていたとは考えもしなかった。


「とんでもない奴らだわ。薫子は全然ブスじゃないわよ。そもそも女の子にブスっていうようなのは、大抵がバカよ」


 葵は学校から帰ってくるなりハンドバッグをソファに投げ、どかりと腰を下ろした。だが、内心で葵は、バカなクラスメイトよりも、娘の異変に気がつかなかった自分自身に、腹を立てていた。正造は、悲しそうな顔で冷蔵庫を開け、麦茶を入れた。


 薫子は、両親の帰ってきた気配と会話の様子に聞き耳を立て、すべてを理解した。担任は、あのことを全部両親に話したのだ。薫子は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。下りかけていた階段を駆け上がり、自分の部屋に閉じこもって鍵を閉めると、頭から布団をかぶって泣いた。



 その日、薫子は結局一度も降りてこなかった。葵が何度か夕食のトレイを持って声をかけてみたが、返事はなかった。母の声を部屋の外に聞きながら泣き続けるうち、いつの間にか眠ってしまった。

夜中、薫子はノックの音で目を覚ました。いるのかい、と父が恐る恐る声をかけた。

(へんなの)

いるのかいも何も、自室から一歩も外に出ていないのだ。相変わらず、お父さんはちょっとどじだな、と薫子は心の中でつぶやいた。父が優しく続けた。

「いれてくれないかな」

 薫子は一瞬迷ったが、目を覚ました途端、急におなかがすいてきた。もしかしたら、父は食事を持ってきてくれたのかもしれなかった。薫子はベッドを下り、部屋のドアを開けた。正造が、ほっとした顔になった。


「どうもありがとう」

 薫子は黙っていた。正造は、勉強机の椅子に注意深く腰かけた。


「先生から聞いたよ。嫌な思いをしたんだね」


「…べつに」


 薫子は足元に目を落とした。昼間あれだけ泣いたのに、また泣きそうになった。正造はまっすぐに薫子を見つめた。


「いいかい。君はブスじゃない。そいつがバカなんだ」


 鼻の奥がつんとなる。せっかく泣き止んだのに。薫子はごまかすように目をこすった。


「そんなことないよ」


 涙がぽたりと落ちた。正造は、大きく首を振って否定した。


「何を言ってるんだ。ほんとうだよ。君は生まれた頃から、ほんとうにかわいかったんだ。その証拠に、鬼が君に会いに来たことだってある」


 涙を拭いていた手がぴたりと止まった。


(…え、何?お父さん今、鬼って言った?)


 薫子が、うろんな顔を上げた。


「そうなんだよ。これまで誰にも話したことはないんだが、薫子が生まれた時、赤鬼と青鬼が会いに来たんだよ。かわいいから、なでさせてくれって。それで、君に触るために、一週間もかけて手を洗いに行ったんだ。すごいだろ?鬼が一週間もかけて手を洗ってからようやく、君をなでたんだ。それくらい、君はかわいいんだよ」


 薫子は、ぽかんと父を見つめた。正造は一人でうんうんとうなずくと、ぽんと薫子の頭を撫でた。


「だから、大丈夫だよ。自信をもって。父さんも母さんも薫子の味方だからね」


 そして呆気にとられたままの娘を一人残し、部屋を出ていった。暗い廊下に、階段を下りる音が響いた。


(えっ、それだけ?嘘でしょ?)


 薫子は、今の出来事の意味が最後までよくのみこめなかった。その話は何なのか、何を言いたかったのか、さっぱりわからなかった。ついでに言うと、父は夕食を持って来なかった。なんてことだろう。

だが薫子は空腹をもてあましながら、明かりを消したままの部屋で、父の言葉の意味をなぞり直していた。



 ある程度年月が経つと、おそらくあれは父なりの慰めだったのだろうと思えるようになった。そしてその後、何年も何年も、薫子はあの晩の父の話を思い返すことはなかった。

 そのうち薫子は成長して家を出て、就職をした。そしていっぱしの社会人になって働くうちに、結婚が決まった。夫となる人は、薫子のことを世界で一番の美人だと称賛した。初めてその言葉を聞いたとき、嬉しさと同時に、瞬間的に父のあの奇妙な鬼の話が思い出された。遠い日の父の必死さが思い出され、胸が熱くなった。薫子は幸せだった。




 しかし父の話が比喩でも慰めでもなかったことを、薫子は結婚式の日に知ることになった。

 チャペルのドアの前で父に腕を預け、いよいよバージンロードに足を踏み出す。ドアが静かに開けられ、参列者の笑顔がコーラスとともにはじけた瞬間、薫子の視線は、壁を背にしてぴったり沿うように立っている、二人の鬼に釘づけになった。


 薫子は、雷に打たれたような衝撃を受けた。赤鬼と青鬼が、確かにそこに立っていたのだ。鬼は、まっすぐに自分たちを見ていた。そして皆と同じように、嬉しそうににこにこと笑って拍手をしていた。目尻と口元に、父と母と同じような深い皺をいっぱいに刻みながら、赤鬼と青鬼が、結婚を祝福していた。


「おい、見えるか薫子。あれだあれだ、あの時の鬼だ」


 脇で、父が興奮を抑えきれずに囁いた。薫子は頷くしかなかった。

 あたたかな拍手と柔らかく投げられる花びらをくぐりながら、花嫁は誰の顔も見ずに、一心に鬼を見ていた。


 ふと、笑顔の参列者の中でただ一人、自分と同じようにあんぐりと口を開け、あらぬ方向を凝視している人物が目に入った。母であった。そしてその視線の先にいるのは、やはり赤鬼と青鬼であった。自分はこの両親のもとを離れていくのだと思うと、薫子はあらためて寂しさをおぼえた。


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