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福来る  作者: 千百
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第二話

 薫子がよちよちと歩けるようになった一歳の冬、正造と葵は娘のために初めての節分をした。薫子はまだ恵方巻など食べられないので、葵がスーパーで買ってきた豆を、家族そろって撒くことになった。


「カコちゃん、鬼は外、福は内って言いながら、この豆を投げるのよ」


 薫子は小さな顔を真上に向けて、母の言葉に熱心に耳を傾けている。夢中になるあまり、赤いほっぺたが丸くふくらんでいるのがかわいらしい。だが今はあどけない薫子も、いずれ成長して少女へ、そして大人の女性へと変わっていくのだと思うと、正造は今から鼻の奥がつんとして、早くも目頭が熱くなるのだった。


「ねえ、あなたこのお面付けてよ」


 葵は感傷に浸る夫に、豆とセットになっていた鬼のお面をずいと突き出した。正造はペラペラのプラスチックのお面に手をのばしかけたものの、はたとその手を引っ込めた。


「…君じゃだめなのか」


 妻は顔をしかめ、露骨に非難のまなざしを向けてくる。


「何言ってるの。相場ではパパが鬼の役と決まっているの。さあ」


 葵はそう言うと、彼女にしては珍しく強引に、お面を正造の手にぐいぐいと押し付けてくる。正造はうろたえた。薫子は豆の入った袋を抱え、不思議そうなようすで父と母の顔を交互に見ていた。

 娘に両親が揉めているところなど見せたくはないので、正造は不承不承、鬼のお面を顔にかけた。そして心のうちで、鬼よごめんとつぶやいた。妻は知らないのだ。鬼というのは、二月という寒さが最も厳しい季節に、単純に豆をぶつけていい相手ではないのだ。



 薫子が赤ん坊の頃、葵に一人で出掛ける用事が出来た。家には、正造と生後半年の薫子が残された。正造はその時初めて、赤ん坊と二人きりで留守番をすることになった。緊張のあまり、前の晩は眠れなかった。

ミルクのやり方は分かっているし、オムツ替えも大丈夫。抱っこするときは、首の下に手を入れて、慎重にゆっくりとベッドから抱き起す。今のところ、幸い薫子はすやすやと眠っているものの、いつ泣き出すかと思うと気が気ではなかった。


 春の暖かい日差しの中で、薫子は機嫌よく眠り続けた。正造はそばに座って、眠る娘をじっと見つめていた。恐る恐る頬に触れてみると、あたたかく柔らかい。もし、幸せに形があるとしたら、触れてみるときっとこんな触り心地なのだろう。正造の心の中が、じんわりとあたたかくなった。

 

 寝ているのをいいことにいつまでも触り続けていると、薫子がウサギのように鼻をぴくつかせ、くしゃみをしようと大きく口を開けかけた。と思うと、くしゃみはどこかに行ってしまったのか、ため息でもつくようにふうと息をついて、何事もなかったかのように口を閉じて、眠り続けた。それは、あまりにかわいらしいしぐさだった。正造は笑い出しそうになるのを、必死でこらえた。せっかく眠っているのに、笑い声などで起こしたらかわいそうだ。正造は、しばらく一人で肩を震わせていた。笑いがおさまってから、ため息をついた。


「なんてかわいいんだ」


 その時だった。扉が勢いよく開いて、赤鬼と青鬼がばたばたとリビングに駆けこんできた。


「すっかり遅くなってすみません。手を洗ってきました。お子さん、なでてもいいですか?」


 赤鬼が、手を揉みしだきながら入ってきた。


「せっかく洗面台の水道を教えて頂いたのに、恥ずかしながら使い方が分かりませんで…きれいな手水所のあるお寺を探していたら、まさか一週間もかかってしまうとは」


 青鬼が、申し訳なさそうに言った。だが二人は、呆然と立ち尽くした正造を見て、ぴたりと動きを止めた。赤鬼が首をかしげた。


「あれ?お母さんじゃない…」


「…とすると、この人はお父さんか」


 鬼を見るのは、これが初めてだった。正造は、あまりの出来事に呆気に取られ、言葉が出ない。無理もないことだった。正造と鬼たちは、しばし無言で互いに見つめ合っていた。

 薫子が目を覚ました。きょとんとした顔をあげて正造を見て、次に鬼を見た。薫子は赤鬼と青鬼を見つけると、嬉しそうにキャッキャと笑い出した。正造は我に返った。


「あの…家内がなにか?お宅さんは、うちのカコと知り合いなんでしょうか…」


 鬼にむかってお宅さんだなんて、我ながら間の抜けた質問だと思った。それに、赤子の薫子に、知り合いも何もあるだろうか。かといって、他に適当な言葉も思いつかなかった。あの時何を言うのが適切だったのかは、あれから何年も経った今でも、謎のままである。

 赤鬼は肩をすくめ、すまなそうに話し始めた。


「ええ…お宅のお子さんがあまりにかわいいので、お母さんにお願いして撫でさせてもらおうと思いまして。めでたくお母さんの許可が下りましたので、まずは手を洗ってからにしようってことになったんですが、ちょっと時間がかかってしまいましてね。今になりました」


 赤鬼は恥ずかしそうにしていた。もともとの顔色が赤くなかったら、もしかしたら顔が赤くなっていたかもしれない。青鬼がしんみりと続けた。


「うちにも小僧がいましてね。丁稚に出しているので、長いこと会えていないのですが…。あの、お父さん、さしつかえなければカコちゃんをなでてもよろしいですかね」


 僕はうなずいた。だが、首を傾げるのとまじったような変なうなずき方になってしまった。はたして、大切な娘を鬼になでさせても良いものだろうか?だが、妻が良いと言ったのなら、きっと大丈夫なのだろう。いやでも…。正造の中で葛藤が起こりかけたが、その一方で、人の好さそうな鬼たちの手を払いのける理由も見つけられないのだった。

 鬼たちは喜び合い、さっそく薫子の頭をなでたり、頬をつついたりし始めた。薫子も機嫌よくケタケタ笑っている。正造は、ぽつんと取り残された体になった。




ひととおり遊び終わったところで、赤鬼が僕に向き直った。


「どうもありがとうございます。とても素敵なひとときでした。では、失礼します」


 青鬼が、きまじめな顔で言った。


「お父さん、ご安心を。きっと娘さんはこれからますますかわいくなりますよ。失礼します」


 そして、赤鬼と青鬼はリビングを出ていった。しばらくして、玄関のドアが閉じる音がした。鬼は行ってしまったのだ。

 正造は、再び薫子と二人きりになった。娘は、にこにこと笑いながら父を見上げていた。




 あの時の鬼に義理立てするつもりではないのだが、福と引き替えに鬼を売る後ろめたさはどうしても拭えなかった。だが、正造は覚悟を決めて鬼のお面をかぶった。妻が薫子の気を引こうと、大袈裟に拍手した。


「じゃあ、カコちゃん、こうやるのよ。おにはーそと!ふくはーうち!せえの!」


 節分の決まり文句とともに、薫子と葵は鬼にむかって豆を投げた。鬼のお面をつけた正造は逃げ惑う。

 もちろん、薫子はまだ小さいのでうまく投げられない。的確に豆をぶつけてくるのは、妻の方だった。正造は、生まれてこの方節分の鬼などやったことはなかった。だから、身体にぴしぴしと当たる豆が意外と痛いことを、今夜初めて知った。




 夕食が済み、正造が薫子を寝かしつけてからリビングに戻ると、葵はテーブルの上に置いた鬼のお面と神妙な顔でにらめっこしていた。その横顔は真剣そのものだった。ねえ、と正造が声をかけると、葵はぎくりとした様子で振り返った。夫がリビングに入ってきたことに、今初めて気がついたようだった。正造は、葵に訊ねた。


「あのさ…本物の鬼って見たことある?」


 葵は目を丸くして正造を見つめていたが、考え込むような沈黙の後で、ぶっきらぼうに言った。


「多分ないと思うわ」


 そしてぱっと立ち上がり、豆とお面を戸棚にしまい込むと、さっさと風呂に入りに行ってしまった。

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