第一話
赤ちゃんがここまで可愛いとは知らなかった。自然と笑顔になる葵を見て、ベッドにちょこんとおさまった薫子も、にこと笑う。半年ほど経った頃から、あやすと笑ってくれるようになった。こうなるともう、笑顔見たさにあの手この手だ。おどけてみたり歌ったりと、葵は思いつく限り試した。生まれたばかりの娘が声を上げて笑うと、世界が変わる。舞い上がって、天にものぼりそうな心地になる。
「なんてかわいいんでしょう。そのほっぺ、食べちゃいたいくらい。ほーら、食べちゃうぞ食べちゃうぞー、鬼さんだぞー」
葵は、薫子の全身をやわらかくくすぐった。そうすると、えもいわれぬあまい笑い声が耳を撫でる。部屋に満ちる。外からやわらかな風がふきこみ、カーテンがふわりと舞う。しあわせとは、こういうことかと思う。
「ほーらほらほら、鬼さんだぞー、食べちゃうぞー」
こんな姿は、数年前の自分を知る人間にはとても想像がつかないだろう。友人たちが見たら、目を疑うに違いなかった。だが、葵は薫子がかわいいくて仕方がなかった。どうにかなりそうなくらいに愛おしかった。
その時、背後で声がした。
「そんな、まさか。食べませんよ」
葵はぎょっとした。この家には、自分たち二人の他には誰もいないはずだ。おそるおそる振り返って見ると、赤鬼と青鬼が、傷ついた表情を浮かべてリビングの敷居のところに立っていた。それはまさしく絵本から出てきたような鬼で、二人ともちゃんと虎模様の腰巻をつけていた。背格好は、夫と同じか少し大きいくらいだった。青鬼が、はっきりと区切るようにして言った。
「僕たちは、子供は、たべませんよ」
赤鬼が続けた。
「それに、鬼さんだぞー、とも言いません。あなたは赤ちゃんにたいして、ママだよーとは言うでしょうが、人間ちゃんだぞー、なんて言いますか?言いませんよね。それと一緒です」
赤鬼も青鬼も、自分たちの言葉にうんうんとうなずいていた。しかし葵は動揺するばかりで、何も答えられない。今、目の前に、赤鬼と青鬼が立っている。
薫子が、キャハハと声を上げて笑った。すると赤鬼のごつごつした彫りの深い顔がふにゃっとくずれ、遠慮がちに腰のところでベッドに向かって小さく手を振った。青鬼は、隣で指を組んで目をきらきらさせている。赤鬼が興奮気味に言った。
「娘さん、やっぱりかわいいですね。僕たち子供が大好きなんです。ちょっと、なでてもいいですか?手は洗ってきますので」
嘘でしょ、と葵は心の中でつぶやいた。この赤鬼と青鬼は、どうやら我が子をなでたいらしい。本人たちが、そう言っている。鬼に赤ちゃんをなでさせるって、どうなんだろう。大丈夫なのだろうか。でも悪い鬼には見えないし、せっかく来てくれたのなら…。
頭の中を様々な思考が行き来し、不安はぬぐい切れなかったが、思い切って葵はうなずいた。首をかしげるのとうなずくのとが混ざったような奇妙な動きになったが、鬼たちは、わっと喜びあった。
「ありがとうございます。洗面所はどこですか?」
リビングの外を指さすと、赤鬼と青鬼はそそくさと出ていった。早く手を洗ってしまおう、と話し合う声が、廊下の奥から聞こえてきた。洗面所のドアの閉まる音がして、再び静寂が戻った。カーテンが、風に撫でられてふわりとふくらんだ。薫子は、相変わらずパン種のようなほっぺたをして、幸せそうに眠っていた。葵は思わず頭を抱えてしまった。あの鬼たちは、一体なんなんだろう。
だが結局、あんなに嬉々として手を洗いに行ったくせに、鬼たちは待てど暮らせど戻ってこなかった。一体どこまで手を洗いに行ったのだろう。いずれまた、うちにやって来ることがあるのだろうか。薫子をなでるために。
薫子はこの春めでたく中学を卒業するのだが、葵はまだ薫子から、鬼になでてもらったという話は聞いたことがない。