第八話 令嬢、さらわれる
タリアは目を覚ましてから、まず自分の服の乱れ具合を確認した。
水を吸った服は重くなり、ズレ落ちて小さな肩が出ている。足元も太ももまでめくれ上がっているが、乱暴された痕はない。まずは一安心する。すると、次は現状の把握である。どこかの狭い空間。周囲は歪な岩の壁で出来ており、天井からは雫が断続的に落ちてくる。そのため、湿気が多く感じる。恐らく、洞窟かそれに準ずる空間とみて間違いないだろう。
外が見える穴はなく、日が昇っているのか落ちているのかすら把握できない。唯一の続いている通路の端には、松明が燃やされており、淡い明かりを発している。陽の光も、風の流れも感じない。完全に外とは別の空間ということらしい。レオンの姿も見えない。見知らぬ場所に、一人放置されていたようだ。守る人間もいない幼い少女が、凶暴なモンスターに襲われなかったのは不幸中の幸いだ。
怪我もない。ただし、逃走防止のために両手は前で縛られており、自由には動かせない。足は自由なので移動は可能だ。頭が少し虚ろだが、恐らく水を飲んだ影響だろう。我慢できない程ではない。
「とんだ視察になってしまった…」
ため息を吐いて愚痴る。本来なら自分の畑の成長を確認し、収穫できるものは行い、少し村の様子を確認して帰る筈だった。夜にはタリア印の野菜が食卓に乗り、翌朝にはいつもの美味しい朝食をお迎えできるはずだったのだ。それが、今やずぶ濡れで一人硬い地面の上に転がっている。まさに人生一寸先は闇だ。
「ピーちゃんいる?」
呼ぶと、ピーちゃんが姿を表した。ひょっとしたら、はぐれたかとも思ったが、船が沈む直前に上手く自分の内に戻ってきたようだ。姿の見えない本体は恐らくメリッサの元に戻っているはずだ。これでメリッサからは自分の位置がある程度把握できるだろう。父が寄越した応援が彼女だった事には驚いたが、納得もした。変わった人物だが、優秀な人だからだ。
さらわれる直前に読んだ手紙の内容から、メリッサが村まで到着しているのは間違いない。アティと合流し、ここに辿り着くのは時間の問題。ならば、自分に出来る事は少しでも時間を稼ぐことだ。
計算し、方針を固め終えたが、現れたピーちゃんの様子がおかしい。いつもなら元気に飛び回る筈が、なぜかフラフラと力なく落ち始めた。タリアが慌てて差し出した手に、ポトリと落ちた。
「ピーちゃん?」
問いかけても反応がない。グッタリとして呼びかけにも応じない。今まで、タリアの側にきてからこんな事は一度もない。
タリアは必死にメリッサから教わった授業を思い出す。精霊には死という概念が存在しない。人間の主を見つけた精霊は飽きるか、主が死ぬまで共にあるとされている。精霊の分霊も同じで、分け与えた力が何らかの原因で離散しても再び本体から蘇ることができる。つまり、現状は本体から分離した力が著しく低下していることになる。
(でも、なんで? 小さな炎の精霊でも水に濡れたくらいで弱ったりはしない。攻撃を受けたわけでもない。私が意識を失っている間にあの男に何かされたの?)
兎に角、力を本体から譲渡してもらう必要がある。それにはメリッサと合流するしかない。だが、今のタリアは救出を待つ身。自らが向かうことは出来ない。
「おい」
グルグルと思考の渦に巻き込まれていると、突然後ろから声を掛けられた。振り返る必要もない。自分を攫った相手だ。ピーちゃんを自分の中に戻しつつ、振り返る。そこには予想通りの相手がいた。
「ここは何処ですか? 私をどうされるのですか?」
取り敢えず、か弱い令嬢が怯えて弱っているフリをする。油断させれば、情報を漏らすかもしれない。
「以前見つけた遺跡の一部だ。村人も知っているやつはいない。救助など諦めることだ」
遺跡。初めて聞く単語だ。村の周辺にそんなものがあるなど、聞いたことが無い。
「遺跡とは、初めて聞きました」
「そうか。さて、こちらはお前が大人しくしていれば、危害を加えるつもりはない。もっとも、引き渡した後は知らんがな」
どうやら、自分はここから更に誰かの手に渡る予定のようだ。一つ情報を得た。
レオンはそれ以上会話を続ける意思はないようで、無理やりタリアを立ち上がらせて移動を始める。両手を縛られた上、強制的に歩かされるため、バランスが取りにくい。何度も転びそうになり、その度にレオンが苛ついたようにタリアの腕を引っ張る。痛みに顔をしかめるが、我慢する。それよりも、自分はどうやら誰かに引き渡されるらしい。ということは、それまでは命を取られる可能性は低いだろう。ならば、少し挑発してさらに情報を聞き出してみる事にする。
「淑女の扱いがなっていない方ですね。それでは、あなたのいう平和とやらも笑い話にしか聞こえませんね。貴族や王族がいなくなれば、そこにはただの混乱しか残りません。平民だけでどのように国を動かすのですか? 平民から代表を選ぶのですか? どのようにして? そこには利権や思念が絡まないとでもお思いですか?」
「今まで父親の権力で無自覚に恩赦を受けていた子供が良く喋る」
「子供だからこそ、素朴な疑問を感じるのです」
レオンの表情には変わりないが、掴まれる手には力が込められている。やはり、彼の言動には違和感しか無い。現状の世を変えるには時間も、人間も、手段も足りていない。仮にも平民が国を運営するような仕組みを取り入れるにしても、十年単位の歳月が必要となるだろう。そこには王族や貴族、さらには他国との駆け引きや、争いも当然のように発生する。ただの夢物語だ。レオンの仲間が何人いるのか分からないが、実現はほぼ不可能だろう。
レオンはタリアの言葉に答えずに、どんどん歩いて行く。やがて、目前にそれまでよりも広い空間が現れた。途端、鼻につく擦れた匂い。反射的に嘔吐感を催す。何事かと見渡せば、ぼんやりと何かが均等な距離で地面に置かれている。
「ここは?」
「始まりの場所だ」
理解できない。少なくとも、気持ちのいい空間ではないことは確かだ。
レオンはタリアを適当に放り投げる。そして、置かれている何かの一つに近づいて作業を始める。どうやら、大きな麻袋をいじっているようだった。
「お前の言うとおり、簡単には理想は実現できない。えーと、そうだな。だからこそ、少し強引に状況をそうさせる。人間、追い込まれれば誰でも状況に順応する」
「強引?」
「簡単だ。魔族を召喚し、王族、貴族を一掃する。そうすれば、あとは残ったのは平民だ。平民が国を動かして行くしか無い」
「……はっ?」
タリアの背筋に寒気が走った。頭から血の気が引き、視界が揺らぐ。冷や汗がじんわりと浮かび、その頬を伝わった。
魔族。森など人の手が入りにくい場所に住み着く魔物とは違い、知性を持ち強力な魔法を行使することができる存在。精霊とは違い、魔族以外の種を道端の石ころのようにしか思っておらず、何となくで他国を攻め滅ぼすような種族だ。基本的に人間が住む世界とは切り離された、所謂魔界という世界にいるため、人間と遭遇することはまずない。しかし、原因や手段は不明だが、歴史上では何度か人間の世界に姿を表している。そして、その際には天変地異単位での被害が発生している。国が一つ消える位当たり前。討伐も試みられたが、尽く失敗している。魔族はある日突然姿が消えるが、それも数日の時もあれば、月単位で活動を続ける場合もある。人間はただ脅威が過ぎ去るのを待つしか方法がない。
「ま、魔族を召喚するなど、そんな方法があるなんて……。それに、そんな事をすれば平民だって相当な被害を受けます。あなたの理想とは反しているじゃないですか!」
タリアの知る限り、魔族を意図的に召喚する方法はない。むろん、王族や貴族の一部がその存在を把握しているとしても、一介の冒険者であるレオンが知っている筈がない。しかし、目の前の理解不能な男は自らの行動に不安を感じているようには見えない。確信を持って、淡々と準備を進めている。ただの狂人の戯言ならば良い。しかし、もしも本当にそんな方法があり、レオンがそれを知っているとなれば、最悪の最上だ。
「確かに、平民も数を減らすが、貴族や王族は平民と比べれば圧倒的に数が少ない。生き残るのが多いのは平民だ」
「戦いになれば貴族や王族は安全な場所から指示を出すだけです」
「聞いた話では、魔族はひねくれた性格で人間の恐怖を非常に好むらしい。安全だと安心していた者の前に突然現れ、時間を掛けていたぶり続けるのは常套手段らしい。のうのうとしていたところに、魔族が突然現れた時の貴族や王族連中の顔はさぞかし見ものだろうな」
レオンは笑う。まるで街中で年頃の女性と交際を楽しむ青年のような純粋な笑い。もはや、タリアには同じ言葉を話す、別種族の者にしか見えない。
「六人の未通の男と、六人の処女の女を六の月の間、新月の夜に贄に捧げる。そうすることで、その地に魔族を呼び出すことができる。そして、今日が新月で、十二人の男女が集まった! ついに、今日から歴史が始まるのだっ!!!」
言いつつ、レオンが手にしていた麻袋から何かを転がし出した。
目を見開くタリア。薄暗くても分かる。それは人間だ。偶然タリアを見るかのように転がり出てきた二人の子供。男児と女児が一人ずつ。タリアを見るその瞳には力なく、手足も投げ出されたまま動くことはない。死んでいる。それがハッキリとわかった。
「…その子達は」
「ああ、村の一家の兄妹だ。昨晩のうちに、コッソリと用意しておいた。寝静まった頃に忍び込み、両親を片付けた後にワザと起こして、命乞いをさせた。兄は自分の命で妹を救おうとしたが、目の前で時間をかけて妹の命を奪ってやった。そして、怒りや悲しみで心が塗りつぶされた状態の兄を殺す。こうすることで、贄としての上等な魂が用意できるというわけだ」
「このっ、外道めっ!」
「大事の前の小事だ。平和のためなら仕方のない犠牲さ。そもそも、お前たち貴族がいるからこんな事になる」
言いつつ、他の麻袋からも次々と中の者を出していく。年齢や格好に多少のバラツキはあるものの、皆が男女一組で共に幼い者が多い。最初のうちはそうでもなかったが、最後の方の麻袋から出てくる者は悲惨だった。
レオンが最初の頃に用意したものだろう。その姿は性別すら判別不可能だった。皮膚がウジに食われ、肉が露出してさらに多数の虫が湧いている。眼球は既に無く、柔らかい唇や頬肉は完全に食われて存在しない。袋から出したことで、今までよりも更に腐敗臭が強く立ち上り、空間を支配する。
「ぐえっ、流石にキツイな。勘弁してくれよ」
嫌そうに鼻を摘み、手で扇ぐレオン。自分で幼い命を奪っておいて、罪悪感は見えない。彼にとって、本当にこの犠牲は正しいと思っているのだろう。
薄暗かった空間に淡い光が満ち始めた。地面から赤い光が発しているのだ。メリッサの精霊の赤よりもドス暗く、まるで血のような光は、死体を沿うようにして繋がり、やがて一つの幾何学的な文様となった。
タリアは現状が避けたかった最悪の事態だと理解する。このままでは本当にレオンの目論見通り魔族が召喚される、と。それと同時に、ピーちゃんの様子がおかしい原因が分かった。これほど禍々しい空間が存在している以上、人間や精霊への影響は免れない。タリアには行使できないが、膨大な魔力があるため、まだ影響はない。しかし、本体と違い少ない魔力量しか保持していない分霊のピーちゃんには、この場に来てすぐに影響が出ていたのだろう。
「王族や貴族のいない、平和な世界。それを実現するために、まずは今の世界を一掃する。そのための魔族召喚だ。そのための犠牲なら、彼らも分かってくれる筈だ。むしろ、歴史的な貢献者として名を残す位さ」
街から引き入れた子供の名を彼が覚えていたとは思えない。
「随分と勝手な言い分ですね。あなたの貴族というイメージピッタリですね」
言外に、お前も勝手な貴族と同類だと言い含める。それを理解したのか、レオンは表情を消しタリアに近づく。彼の体に染み付いていた死臭が、タリアの鼻を刺す。
「お前は生かしておく。スタブ・ヴックヴェルフェン様に引き渡すと約束したからな。だが、その前に大人として教育する必要があるようだ」
スタブ・ヴックヴェルフェン。また情報が漏れた。タリアは記憶を辿るが、思い当たる人物はいない。偽名かもしれないが、覚えておく。
レオンはタリアの胸ぐらを掴み、立たせ歩かせる。そして、最も初期に用意された生贄の側に突き飛ばした。両手が縛られているため、受け身もまともに取れないタリアは、為す術もなく地面を転がる。止まると目の前には、丁度遺体の顔と対面することになった。
崩れ落ちた顔は既に最期の表情すらも分からない。抜け落ちたが、僅かに残っている髪と、そこに留まる腐敗すること無い髪飾りが、女の子だった事を示す。彼女が苦しまずに逝ったのか、それとも泣き叫んで最期を迎えたのか。それすらも知ることはできない。
「お前たちの傲慢さが、目の前の惨状を引き起こしたのだ。気持ちの悪い死体だろう? 吐き気がするだろう? 遠ざけてしまいたいだろう? 人間は死ぬとそうなる事を、その傲慢な心に留めておくと良い。いつまで生かされるかは知らないが、少しは心優しい人間になれるかもしれないぞ」
哀れみの目でタリアを見下ろすレオン。一方のタリアは、きつく口を結び、憤怒の感情を抑えている。あまりの怒りに涙が滲み、レオンを射抜くかの如く睨む付ける。普通の貴族令嬢ならば、この時点で気を失うか、発狂している。そもそも、大人でもこの狂った空間にいれば平常ではいられない。しかし、タリアは幸か不幸か普通ではなかった。
「死ぬとこうなる、ですか」
その言葉は静かで、ただただ悲しげで寂しい。そして、哀れな者への慈愛の感情が含まれている。
「知ってますか? 人間って、水に溺れて死ぬと、体中がブヨブヨに膨らんで、お腹がボンッて破裂するんですよ?」
「は?」
「人間って、馬車に轢かれると、手足が曲がり、骨が突き抜け、内臓が飛び出すんですよ? 死んでも体の中はピクピクと動き続けて、まるでまだ生きたいよ、生きたいよ、って言ってるみたいなんですよ? 頭の中から飛び出るそれは、ピンク色ですごくキレイなんです」
思い出すかのように語るそれは、令嬢の言葉とは思えない。貴族が。子供がそんなことを知るはずがない。
「知ってますか? 目の前で夫が、恋人が、子供が盗賊に首を跳ねられる姿を、見ることしか出来ない女たちの心情を。その後に自分達に訪れる、女として産まれた事を心の底から呪いたくなる惨状を」
タリアは現実で見たわけではない。誰かから聞いたことでもない。しかし、それはすべてタリアが夢で体験し、知ったこと。タリアが何もしなければ起こった筈の出来事。それを世界でただ一人だけ、タリアだけが知っている。目を反らしたくても、夢の自分は逃げることもできない。目を覚ましたくても、終わることはない。夢でタリアが止めてくれ、何故自分がこんなものを見なくてはならない、と泣き叫んでも決して終わることの無い夢。まさに悪魔。
タリアの心が今此処で壊れることは絶対にない。なぜなら、彼女の心はかつて壊れてしまい、今もなお麻痺しているのだから。
「あなたは哀れです」
ただ一言。タリアのその言葉に含めた様々な感情がレオンを逆上させた。瞬時に頭に血が上り、手に持っていた空の麻袋を地面に叩きつけ、タリアの首を締め上げる。
「がっ、はっ!?」
縛られた両手でレオンを叩くが、令嬢と元冒険者。力の差は歴然だ。レオンが冷静ならば一瞬でタリアの頸動脈を圧迫し、意識を落としていただろう。しかし、このままでは落ちるのは時間の問題。どうにかして抜け出さなければ。しかし、力ではどう頑張っても勝てない。ピーちゃんも今は動けない。タリアの唯一の力である予知夢は現状では意味を成さない。打つ手がない。
「ぐ…あ…」
意識が遠くなる。苦しさが段々と薄れていき、楽になっていく。叩いていた手に力が入らなくなり、弱々しくなっていく。もう、ダメかもしれない。その時。
『ふにゃー』
鳴き声と共に、タリアの体から一匹の猫が飛び出した。茶トラ、長毛、フサフサの尻尾に緑の瞳。体のサイズは普通の猫のため、タリアの体から出てこなければ、ただの猫にしか見えない。それは、タリアが気付くこと無く、アティが保険として施した精霊スノトラの分霊。それがタリアの首を掴むレオンの手に噛み付いた。
「ぐわっ!?」
外見はただの猫でも、曲がりなりにも精霊の分霊。牙はレオンの手の甲に深々と突き刺さり、激しい痛みを生じさせた。追撃とばかりに、両前足でバリバリと手を無差別にひっかくと、レオンの手の肉が削り取られ、ボロボロと血を振りまいて落ちていく。堪らずにレオンがタリアから手を離して距離を取る。無事な手で怪我を抑えるが、出血は止まる様子はない。
「ね…こ…」
タリアは途切れかけた意識の中、自らの顔をやさしく舐める猫を見た。ザラザラとしたその感触にまだ生きていると実感する。
「精霊…だと!? 一体だけではなかったのか!」
前日の晩、村長の家に泊まるタリアとアティをクリスは警戒していた。そして、目撃したタリアがピーちゃんを空に放つ姿。それを見て、クリスはタリアが精霊を使役していると認識した。実際には、精霊の分霊がタリアに憑いているだけなのだが、そこまでは判別できない。その一体だと思っていた小さな鳥は、レオンの予想通り魔族召喚の陣に当てられて弱っている姿を確認している。タリアは隠し通せたと思っていたが、それは間違いだった。
しかし、
「ふん、そいつも所詮は雑魚精霊。一体目と同じで弱っているみたいだな」
『なー』
レオンの指摘通り、タリアを心配そうに舐めていた猫が弱々しく地面に伏せた。先程の攻撃は力を振り絞ったものらしく、既に立ち上がる様子もない。タリアはまだ苦しい体をムチ打って動かすと、伏せる猫を優しく包む。
「あなたが何故私の中に居たのかは、分かりません。ですが、ありがとう。ゆっくり休んで下さい」
猫は心配そうに見上げ、それでも一声鳴くと静かにタリアの中に消えていった。これで本当にタリアには手が無くなった。まさか三体目の分霊が自分の中にいるとは思っていない。回復しない体と皆無な力。後に残るのは、思考する頭と言葉を発する口のみ。ならば、やれることをやるしかない。
「スタブ・ヴックヴェルフェンとやらに、私を引き渡さなくても良いのですか?」
ジリジリと警戒しながら近づいていたレオンの動きが止まる。やはり、自分の身柄を渡すことは、それなりに優先度の高いものらしい。レオンの表情は苦悶に満ちており、葛藤が丸わかりだ。タリアを引き渡すと考える理性と、自分に苦渋を飲ませ傷つけた復讐をしたいと考える本能。それらがレオンの中で衝突し、混じり合う。どちらが勝つかは、正直賭けだった。
「そうだな。引き渡す必要がある」
「……」
「見えない部分を死なない程度に痛みつけて、引き渡す。生きて引き渡せば問題ない。仮にバレたとしても魔法で回復させるさ」
タリアにとって良くない傾向だ。
レオンがその通りに痛めつけて終わるとは思えない。続けるうちに手加減を忘れ、理性を無くして自分が死ぬまで止まる事がないかもしれない。逆上させ過ぎたとも思うが、今更だ。それに、ここまで散々勝手な理由で振り回されたのだ。タリアにもちっぽけな貴族としての誇りと、多大な人間としてのプライドがある。少しは意趣返しできたと思い、納得した。
ついにレオンがタリアの目前に立った。その表情は意識してか、無意識か。無抵抗な小動物を虐待するそれだ。
「腕の傷はかなり痛かったぞ。ペットの躾は飼い主の責任だ」
レオンがゆっくりと右手を振り上げた。衝撃を予想し、タリアは両目を強く瞑る。
衝撃が走った。
爆音と共に、砂煙が舞う。目をつむっていても、瞼越しに強い光を感じた。恐る恐る目を開けると、空間の天井が一部崩れており、天から注ぐ太陽の光が部屋を明るくしていた。そして、光を背後に、ゆらりと動く巨大な猫。
状況についていけないタリアは呆然としている。レオンは不測の侵入者に驚き、一瞬動くのが遅れた。その隙が致命的だった。
「愚か者を吹き飛ばしなさい」
猫の背から聞こえてきた言葉。聞き間違える筈がない。毎朝自分を起こしてくれる、呆れつつも優しい声。予知の悪夢に飛び起きた自分を、心配して背をさすり、落ち着かせてくれる柔らかい声。
彼女が乗る巨大な猫が、自分の中にいる猫と酷似している事に気づく。それが精霊であり、分霊を自分に憑けていたことを知る。嬉しかった。表でも裏でも自分を守ってくれる、その思いが単純に、とても嬉しかった。
『なーん』
風が舞い、舞い上がっていた砂埃が一掃され、さらにタリアの横に居たレオンに叩きつけられる。不思議と、真横に居たタリアは髪が揺れる程度しか影響がない。レオンは勢い良くその体を飛ばされ、部屋の端の壁に激突し、血を吐いた。
「タリア様。遅くなりました」
場に似合わぬメイド服と、手に剣を持つ彼女。タリア唯一の侍女が、タリア以上の怒りを持って、此処に降臨した。
「アティ、遅いよ? 私、待ちくたびれちゃったよ」
タリアの目から、今度は嬉し涙が少し溢れた。
◆
アティはタリアの両手を縛っていた紐を断ち切る。タリアがさすっているその手首には、紐痕が痛々しく残っている。他に怪我がないか確認しつつ、タリアの乱れた服を整えていく。いつ、いかなる状況でも主に気品を持たせる。アティは完璧なまでに従者だった。
怪我がないことを確認し終えると、タリアを持ち上げてスノトラに乗せる。これでタリアを再びさらったり、危害を加える事はほぼ不可能だ。
「ぐはっ!」
見ると、レオンが立ち上がっていた。しかし、足元はフラつき、口端からは血を流し、呼吸も不規則だ。打ち付けた背中で、内臓のどこかを損傷したのかもしれない。呼吸をする度に痛みで顔が歪んでいる。普通なら痛々しい姿も、同情心は欠片も浮かばない。
「生きていましたか。色々と聞き出すために、それなりに手加減はしたのですが。正直、死んでも不思議ではない威力でした。腐っても元冒険者ですね」
ほとんど動けないだろうが、念には念を入れる。アティは手にした短剣を投げつけ、風の魔法で加速させる。瞬間的に速度を増した短剣は狙い通り一点目掛けて突き進む。狙い。それはレオンの太もも。これで完全に動きを封じる。
肉を抉る音が響く。そして叫ぶレオン。なりふり構わずに痛みで地面を転がる姿を見てもアティの表情は動かない。
「これで勝手に動くことはできないでしょう。あとは応援に任せることにします。タリア様をこのような場所に置いてはおけませんので」
「アティ、その前に」
「はい、分かっております」
意識的に視界から外していた陣を見る。等間隔で置かれる死体と未だに淡い色を発している陣。アティはそれが何なのか未だ知らない。しかし、碌でもないものということは、本能で分かった。
「スノトラ、陣を破壊しなさい。遺体はなるべく傷つけないように」
『はいはーい。死んだ人間の体なんて、中身のない器でしかないと思うんだけど。それが君たち人間の感傷ってヤツなんだよね? わかってるよ!』
精霊は人間の感情を理解することはできない。人間が生死に対する感情は始まりと終わり、喜びと悲しみ。精霊には生死は単なる生まれ変わりのフローの一部でしかない。いわば、精霊の生死は成長の一種なのだ。
アティはそれを十分理解しているので、指摘することはない。が、それでも口調は刺々しくなった。
「良いから、やりなさい」
『なーん』
鳴き声に背に乗っていたタリアが思わず耳を塞ぐ。
床の死体を避けて幾つかの風刃が発生する。地を走るようにして向かう刃は通過する場所を例外なく砕いていく。もしタリアがソレを喰らえば、木っ端微塵になる自信がある。そして、それは陣も同じ運命を辿るはずだった。陣の手前まで迫った刃が陣に触れた途端、一瞬で消えた。それまで地面を荒々しく砕いていた風は何処にもない。陣は何事もなかったように存在しており、発する光にも変わりはない。
「本気でやりなさい、スノトラ」
『うーん、ちょっと無理だね。あれは精霊の力とは真逆の力。しかも、僕と同等の高位なヤツだね。お互いに干渉できない』
「では、破壊は困難だということですか?」
『いやー、逆に精霊以外なら簡単に陣を消せると思うよ? ただの人間の血で書いた陣のようだしね。石とかで削ってみれば?』
その言葉に。事実にタリアは再度嫌悪感を覚える。あの男はどこまで人の道を外しているのだろうか。アティはタリアをスノトラに任せ、自身が陣を消すために近づく。近づけば近づくほど腐敗臭が強くなる。ここまで濃い死臭というものは久しぶりだった。
「やら…せるか…よ」
「しつこい男ですね」
陣を庇うようにしてレオンが立ちはだかる。太ももには短剣が刺さったままで、止まること無く血が流れ続けている。このまま放っておけば失血死するのは確実。それは彼も冒険者だったのだから理解しているだろう。つまり、それでもこの陣を守る必要があるということだ。
「アティ、その陣は魔族を召喚する為のもの。禍々しい気配から、恐らく本当だと思うの。絶対に残したままにできないわ」
「分かりました。全力で排除します」
魔族という言葉に驚いたが、やることは変わらない。再び短剣を手にして構える。対するレオンは、足の傷を抑えていた手で顔を覆い、血で顔を染めながら笑い始めた。
「くくっ。あはは! あははははははっ!!!」
「ついに気が触れましたか?」
「ああ、最高だ! これで目的は達成できた!」
レオンは狂気に笑い、太ももに刺さっていた短剣を引き抜いた。太い血管を傷つけていたようで、血飛沫が勢い良く飛び出す。
「魔族を召喚するルールは六人の未通の男と、六人の処女の女を六の月の間、新月の夜に贄に捧げること!」
後ずさり、陣の真ん中へと入っていく。
「贄は揃い」
陣の上に並べられた十二の遺体。
「時は来た」
見上げればアティが空けた天井の穴からは、太陽がいつの間にか姿を消し、かわりに夜の世界を照らす静かな月の光が満ちている。
「ここに召喚者の血を捧げ、魔族を呼び起こす!」
血走った目をして、傷口に指を突き入れて抉る。グチャグチャと気味の悪い音が響き、タリアに鳥肌が立つ。引き抜き、滴る血を陣に向けて振り払った。血が触れた陣は更に色濃く光を発する。
何かが不味いと悟ったアティは、躊躇なく場を離れ、スノトラにまたがる。振り落とされないようにタリアの体を支え、そして穴の空いた天井から飛び出した。
レオンは逃げるアティらを気にも留めない。既にタリアを引き渡す約束など気にしていない。ようやく辿り着いた目的の瞬間に身を震わせ、歓喜に溺れるのみ。そして、最後の最悪を呼び込む言葉を告ぐんだ。
「我が望みよ、この地に来たれ」
レオンの体が四散した。