第一話 とある令嬢の朝模様
手にしたフォークをゆっくりと刺す。皮の弾力を感じ、それを突き抜ける音が弾ける。そして、鼻腔を擽る香ばしい匂い。フォークの先からは内から溢れた肉汁が滴り落ちていく。
(ああ、なんて幸せ)
大きく口を開けてかぶり付く。想像以上の旨みが口の中に広がり、唾液がジワリと溢れるのがわかった。
「朝からこんなに美味しいウインナーが食べられるなんて、なんて幸せなのでしょう」
天気の良い朝。暑すぎず、寒すぎない季節。睡眠時間もバッチリで、朝からは自分の大好きな美味しい食べ物。まさに、これは夢のような一時。パクパクと皿の上のウインナーを胃袋に収めていく。むろん、横にあるサラダやスープも忘れない。これらも例に漏れずに絶品と評価せざるを得ない。
「タリアはいつも美味しそうに食べるのだな」
「ふぁい」
「あらあら、お口に含んだまま話すのは淑女らしくないわよ」
正面に座る父が優しく告げ、その横の母は微笑みながら話す。二人ともその表情が幸せだと語っている。自分の隣に座る姉も微笑んでいる。きっと、自分も笑っているのだろう。頬を膨らませたまま。
小さい口をもぐもぐと動かした後、飲み込む。次のウインナーを食べようとするが、皿の上は綺麗になくなってしまった。お代わりを、と後ろに控えるメイドに告げようとするよりも早く、父が話した。
「そういえば、タリアにお見合いの話が来ていてね」
「え」
お皿を手にしたままピタリと止まる。
「といっても、十二歳になったばかりなのだから、成人まではあくまでも婚約者の位置づけとなるが。相手側も、とりあえず当人を含めて顔合わせをしたいと申し出てきたよ」
何ということだろうか。
自分の体を確認する。母譲りの水色の髪を肩まで伸ばし、父譲りの黒目はまだ朝の寝起きが影響して半目になっている。視線を落とすと、そのまま何の障害も無く太ももが目に入る。隣にいる姉のアネッサは、きっと恐らく同じような視界では無いはずだ。豊満な母性を感じさせるソレが視界を埋め尽くす筈だ。しかし姉は十六歳。四年の年月がそれを可能にしているのだ。十二歳からの四年間で自分もそうなる筈だ。母のイリスも同様に豊かなものをお持ちなのだから。
いや、待て。姉の四年前の姿はどうだっただろうか。……考えるのはやめておこう。とりあえず、今の自分は平坦だ。こんな自分にお見合いなどとは、どこの変態野郎なのか。
「お、お父様はその話に乗り気なのでしょうか?」
愛されている自覚はある。貴族として、他家との繋がりが必要なのは理解している。だが自分の父親は、娘の事前の意思も確認せずに話を進めるようなことをする人間だっただろうか。
「ああ、もちろん私は――」
そして、世界は暗転した。
◆
「お早うございます、タリア様」
「……ウインナー」
「珍しいご挨拶ですね。これからは、そのような挨拶が宜しいでしょうか?」
「お見合いは?」
「それは二十歳になっても結婚はおろか、恋人さえもいない私への挑戦状でしょうか?」
「……夢か」
ぼんやりと見つめた侍女アティの額に血管が浮かんだのを見て、ようやく頭が回り始める。寝る前にアティが閉めた窓のカーテンは開けられており、僅かな風と朝の陽の光が部屋へと入ってきている。
僅かに頬に触れる風を感じると、再び眠気が襲ってくる。
「ぐー」
「ウインナー」
先ほどの意趣返しか。主人に仕えるはずのアティが、タリアの体に巻き付いていた掛け布団を一気に引っ張った。まるでウインナーがフライパンの上で転がるようにして、タリアの体はコロコロと転がり、そのままベットの端まで転がり、落ちた。
「あべっ!?」
流石に一気に目が覚めたタリアが見回すと、何事もなかったようにシーツを取り外していくアティの姿。ここまで扱いが雑だと逆に清々しい光景だった。
「アティ、ひどいよ」
「申し訳ありません、タリア様。しかし、私もタリア様の寝起きの悪さを調きょ―直していただくため、心を鬼にして接しております。決して、先ほどのお言葉に腹を立てているわけではございません。ええ、誓って」
「色々と突っ込み所が多いけど、お腹空いたから保留で良いや」
「では、お着替えを」
「んー」
タリアがバンザイして目を瞑ると、アティは躊躇なくネグリジェを脱がす。そして、下着一枚になったタリアの体を濡れタオルで丁寧に拭いていく。タオルからは僅かに柑橘系の香りがしており、拭いている手も優しくしっかりとしている。アティは基本的には優秀な侍女なのだ。ちなみに、胸当てはしていない。必要ないからだ。
「お顔はこちらをお使いください」
「うい」
顔を洗うための水が張られた小さめな桶。今朝は少しだけ気温が高いからか、少しヒンヤリとしていた。これが冬なら温めて、真夏ならもっと冷たいのだ。時々、タリアが前日にイタズラした時には真逆のものを用意される時もあるので、注意が必要だ。ちびちびと顔を洗い、フワフワのタオルで拭う。残っていた眠気もこれで完全に消えた。
「本日のお召し物はこちらで如何でしょうか?」
「良いよー」
その日に着るものはアティが適切に見繕い、タリアにお伺いを立てる。タリアはアティが選んだものを拒んだことはない。アティのセンスに信頼をおいているのと、タリアは自分がこだわる物以外には基本的に無頓着なのだ。
「とても良くお似合いです、タリア様」
「ありがと」
「では、食堂へ参りましょうか」
「うあーい」
やる気のない返事をしつつ、部屋の扉の前へ行く。ここから一歩でも外に出ればアティ以外の使用人が行き交っているだろう。だからこそ、本来の自分はここまで。ここからはタリアは皆が望む令嬢に成る。小さく息を吐き、呼吸を整える。顎を引き、表情に微笑を貼り付ける。
「それでは、行きましょうか。アティ」
「はい、タリアお嬢様」
それは小さくとも気品のある、立派な令嬢の姿だった。
◆
「おはよう御座います、タリア様」
部屋から出ると、待ち構えていた四十代の執事服を着た男が頭を下げた。タリアに付いている執事のガーディー。元は父の右腕で数年前からタリアの面倒を見るようになった。アティも元は母の侍女だったのが、同様に数年前からタリアに付くようになった。
「おはよう、ガーディー。お父様とお母様は?」
「既に食事の席に着かれております。それと、アネッサ様もご一緒に」
「ほんと!? 良かった、お姉様。今朝は体調が良いみたいね」
生来、体が弱い姉のアネッサは朝食は遅くに自室で取ることが多い。そのため、部屋を出て他の家族と共に食事をすることは本当に少ない。それだけで、今日の姉の調子は良いのだと判断できる。しかし、そもそも。今朝の夢でも姉は自分の隣にいたな、と一人勝手に納得する。
「それでは、少し急ぎましょうか。お姉様と一緒の食事はとっても貴重な時間です」
それと、お腹が空いたから、早くウインナー食べたい。タリアは決意を胸に、いつもより早く足を進めた。
◆
この大陸には幾つの国があるのだろうか。そんな質問に、ある者は十と主張し、ある者は十五と言う。またある者は質問の意味が無いと断言する。昨日まで存在した国がクーデターにより消滅したり、隣国に侵略されて飲み込まれたり。はたまた、天災であるドラゴンに気まぐれに滅ぼされたり。増減を繰り返す国家事情と、それを伝える主な情報網である口伝の曖昧さから更に正確な情報は埋もれていく。
しかし、それでも絶対的な力を持ち、大陸で知らぬ者は居ない国も四つ存在した。それぞれの位置から北国、南国、西国、東国と人々から呼ばれる四列強。タリアが住むのは東国と呼ばれる国、正式名称イーセット王国だった。
「どうだい、タリア。先日君が話していた南国の食材を使った料理なのだが」
「はい、とても美味しいです、お父様」
「そうか、そうか。気に入ったか。冒険者に依頼して入手した甲斐があったな」
満足そうに頷くのはタリアの父親であるハルバート・グランドール。口ひげを生やし、右頬に切り傷のある壮年の男である。イーセット王国の公爵であり、かつては現王の懐刀と呼ばれ、現在は自分の領地で手腕を振るう非常に優秀な人間だ。ちなみに、甘いモノが好きでコッソリと買い溜めしたお菓子を自分の部屋にある酒棚に隠している。
そんな彼は、末娘であるタリアを非常に甘やかす父親だった。
「あなた、あまりタリアを甘やかしてはいけませんよ?」
イリス・グランドール。タリアと同じ青髪の女性で、常に淑女としての振る舞いを忘れない女性。娘への愛が暴走する夫のストッパーでもある。夫の甘いモノ好きに気付いており、時折酒棚にあるお菓子をコッソリ拝借している。なかなか強かで、グランドール家を守る心強い母親である。
「えっ! もしかして、私のために態々ギルドに依頼を出されたのですか?」
今食べている料理はタリアがとある経緯で知り、興味を抱いたものだ。確かに、アティとの会話でいつか食べてみたいと話した覚えはある。それを何処からともなく聞きつけた父親が、任せておけと胸を張ったことがあった。てっきり、この国の市場で引っかかったら買ってくれるものと思っていたが違ったようである。
ギルドに依頼を発注したとなれば、当然冒険者への依頼料が発生する。移動手段の確保。現地での買い付け料など、その他色々。どう考えても、採算がとれるとは思えない。
これからは父への発言は気をつけよう、と思ったタリアだったが、父は笑いながら首を振った。
「実はうちの領地にある商家と話し合って、事前に調査をおこなってね。その結果、こちらの地域では広まっていない料理で、しかも美味しい。商人としても定期的に仕入れる価値があると判断したようだ。これはそのお披露目というやつだな」
「あら、それじゃあ私達がこうして食べられるのはタリアのおかげでもあるのね」
「うむ、良い着眼点を持つ娘だと褒められてね。私も鼻が高かったよ」
「私も姉として誇らしいわ、タリア」
父の言葉に嬉しそうに同調したのは、アネッサ・グランドール。タリアの四つ上の十六歳の姉であり、父譲りの金髪碧眼な美女である。さらに、母譲りの豊満な胸は男の視線を釘付けにする。しかし病気がちのせいか、自室で本を読むか、庭を散歩するなど活動範囲が狭い。おかげで、その美貌であっても世継ぎを必要とする貴族の世界からは、ほとんど求婚の話はない。あったとしても、本人に話が行く前に父親が握りつぶしていた。
「私が食べたかっただけですよ、お姉様」
照れながら、付け合せのウインナーにブスリとフォークを刺し、口に運ぶ。とてもジューシーで食が進む。思わず頬が緩んでしまう。
「タリアはいつも美味しそうに食べるのだな」
「ふぁい」
「あらあら、お口に含んだまま話すのは淑女らしくないわよ」
デジャブが走る。全神経を注いでいたウインナーから一旦意識を外す。今の会話をどこかで聞いたような覚えがある。そう、それは確か今朝の―。
「そういえば、タリアにお見合いの話が来ていてね」
「え」
そう、確か夢だ。ウインナーとの至高の時間に突然現れたイレギュラー。夢を思い出す。この後はどうなったか。自分は何を言ったのか。父はなんと告げたのか。
「お、お父様はその話に乗り気なのでしょうか?」
「ああ、もちろん私は――」
大切な話をしていて口が乾いたのか。父が喉を潤すのに水を少し含んだ。ここから先は夢には出ていなかった。見知らぬ光景にタリアは身を縮ませた。
「断ったよ」
タリアを安心させるように、優しく告げた父の言葉にホッと息を吐くタリア。正直、婚約者などゴメンである。会うだけでも面倒だ。さらには婚約をした令嬢として、定期的に相手へ文を送る必要が出てくる。本性をオープンにできる自室で手紙を書くなど時間の無駄すぎて恐怖すら感じる。自室は自室なのだ。世界で唯一フリーダムになれる心のオアシスなのだから。
「有難うございます、お父様。私も婚約者など、まだ早いと思っ―」
「タリアは私と結婚すると誓ったのだからね」
「ふぁ!?」
「あれはタリアがまだ、六歳の頃だったかな。『お父様、大好きー。結婚してー』と私に微笑んでくれた時、私は心に誓ったのだ。他の男は全て敵であると。ましてや、私の可愛い娘達に手を出そうとする不届き者は殲滅すべき、と。だからこそ、今回の話を持ってきた畜生子爵は私が計略を駆使して―」
「あなた、少し落ち着いて下さいな」
色々と負なオーラを出し始めた父親。その横で微笑んていた母が一瞬真顔になり、テーブルの下で父の足を踏みつけた。淑女らしい高価な靴は相応に履きにくく、そしてヒールが高い。目視せずにピンポイントで足の甲をグリグリと踏み抜いている技術は、淑女のマナーというより、娘関連で良く暴走する当主がいるグランドール家の妻として求められるスキルだった。
「いいい、イリス。すまない少々頭に血が昇ったようだ」
壮絶な痛みだが、父としてのプライドで表情は崩していないが、脂汗がダラダラと流れている。本人は娘二人に隠せていると思っているが、タリアとアネッサは気づいていた。なにせ、これも両親のコミュニケーションなのだから。
「タリア、安心なさい。旦那様も私も、今回のあなたへのお見合いを進める気はありません。あなたがまだ幼いのもありますが、そもそも相手の子爵家にはあまり良い噂を聞きませんので。我が家の当主である旦那様が責任をもって常識的にお断りをしますので。そうですね、旦那様?」
「う、うむ。その通りだ」
母に圧倒される形で、父が振り子人形のようにコクコクと首を縦に振った。貴族間の婚約話など、相手との爵位や領地の運営具合など様々な要因を加味して決定されることだが、こちらは公爵で相手は子爵。領地もこちらの方が状況も良い。加えて世間での相手の評判はあまり良くない。どう考えても断れない理由はない。
「わかりました、お母様。私もまだまだ未熟の身。未来の旦那様のためにも、これまで以上に令嬢として高みを目指そうと思います」
口では取り繕っていても、タリアの頭は既に目下にある料理をどこから手を付けるかで占められていた。
本日の朝食も美味で満足である。
◆
朝食を終え、自室に戻った。入室したタリアの後ろでアティが扉を閉めた途端、それまでの令嬢モードがオフになる。
「ふひー、食べた、食べた。満足じゃー」
勢い良くベットにダイブし、大の字で寝っ転がる。至福の表情で自身の腹部をポンポンと叩いている公爵令嬢の姿は、普通の従者が見たら卒倒してしまうが、そこは慣れたアティである。ため息を付きつつ、消化に良いハーブティーを入れ始めた。
「アティ、アティ。この後の予定はどうなってるの? お昼まで休憩? 休憩だよね? 食後の休息は大事だよ!」
「本日は午前中に教会への視察および、教会の孤児達との昼食が予定されております。午後は魔法学とマナーの勉強となります」
容赦なく切り捨てられるタリアの願望。悲愴な表情になるタリアだが、アティは気にしない。いつもの事だから。
タリアはまだ成人前とはいえ、公爵令嬢で貴族である。父のように領地に関わる重要な仕事は無くとも、それなりに任されている事がある。。そのうちの一つが教会への定期的な視察である。視察となっているが、要は教会へのご機嫌伺いと、領民へのパフォーマンスとしての意味合いが大きい。領主が教会を軽視していると思われれば、信仰者を通して広い範囲で身に覚えのない悪評が流れてしまうかもしれない。まさに、宗教は領地を越えていく。領民へは、教会の孤児を気にかける心優し領主だと思わせ、余計な疑念を抱かないようにする。
以前は母イリスが受け持っていた役目だが、姉妹が成長してそのお株が回ってきた形になる。姉のアネッサが外出できないため、妹であるタリアが任されている。
「お、お腹が痛いなー」
「直ぐに治療師を呼びましょう。昼食や夕食はお腹に優しい軽めで味の薄いものにするよう、料理長に伝えておきます」
「げ、元気でたー。お仕事頑張ろう!」
「では、こちらをお飲みになった後、お着替えをいたしましょう」
「……あい」
渡されたティーカップを受け取り、小さな口を窄めて息で冷ます。基本的にタリアは猫舌なのである。なるべく時間をかけて飲もうと誓いながら、タリアの外行きの服を選ぶアティの後ろ姿を見る。表情は見えないが、その動きと仕草から何処か楽しそうに服を選んているようだ。
一方のタリアのテンションは急降下の真っ最中だった。なぜなら、教会への視察はタリアの中で指三本に入るほど避けたい仕事だからだ。ちなみに、他二つは勉強と、時々行われる屋敷で客を招いた食事会である。つまり、令嬢として求められることがタリアは嫌いだった。一方の好きなことは食う、寝る、遊ぶである。
教会では、偉そうな中年神父と信仰について談話した後、孤児と一緒に昼食となる。話を聞き、食事をする。それだけだが、対外的にはともかく内心は『信仰? それでお腹膨れるの?』と思っているタリアには眠気との戦いの場でもある。時折、こちらの意見も求めてくるものだから、単純に頷いているだけにもいかないのが、厄介である。
そして、最も嫌なのが食事である。なぜならば、教会の食事は質素で味が薄く、美味しくないからである。