1話 始まりから絶体絶命
兎塚大助は非常にまずい状況下に置かれていた。
場所はおそらく森。草木が生い茂り未知の花やキノコが辺り一体を占めており、動物や虫の自然生物の鳴き声が、鮮明に耳元まで聞こえてくる。
おそらく、という確証のない言い方をするのはここが本当に森なのかどうかさえ分からないからだ。
なぜここにいるのか、そしてこんな絶体絶命の場面になっているのかをダイスケ自身も理解できていない。
分からない、が突然気づいたらダイスケはこのような場面に遭遇している。
ダイスケにとってわからない場所にいるだけなら、百歩譲ってまだ何とかなるかもしれない。
だが、ダイスケの目の前には――
「グルルルルルゥ」
腹を空かせ獲物を狙うオオカミのような声を発する生物、もちろんダイスケの声ではない。
キリッとこちらを見据えて睨み付ける吊り上がった眼に豚を髣髴とさせる大きな鼻、人間の身体を貫くには十分な鋭い二つの牙をもち、全身深緑色の生物。
おまけに右手には木で作られた棍棒を握っている化け物がいる。
「これはあれだな、オーク……だな」
目の前にはファンタジー作品でよく見る姿そのままのオークがいる。それも二匹もいる。
兎塚大助17歳、これまで柔道空手ボクシングなどの武術は一切習ったことがないため、オークとの近接戦闘は無謀にも程がある。
では、遠距離ではどうか。
生憎、こんな状況にも関わらず銃や弓などの遠距離武器は所持していないため最も論外な選択肢だ。
「俺、無能すぎるっ!」
己の非力さを皮肉交じりに、拳をグッと握りしめて地面を一発殴る。
「……痛ぇ」
自分で殴ったにも関わらず、赤くなった右拳を見つめながら後悔する。
そう嘆いている間にもオークは一歩一歩ゆっくりと獲物を喰らう寸前のチーターのように近づいてきている。
「待て待て、武器持ちとか卑怯だぞお前ら! 俺を見ろ、PIMAのジャージだぞ? 防御力なんて皆無だぜ? そんな無抵抗な人を殴るなんて人徳の欠片もないぞお前ら!」
ダイスケの服装は何を隠そうPIMAのジャージ。
オシャレセンスなど皆無である彼にとって、部屋着であろうと外出であろうと8割はジャージを着ているためである。
だが、悲痛な嘆きも言葉が通じない相手には無力な戯言に過ぎない。
「グルゥ?」
二匹とも首を傾げていた。頭上にクエスチョンマークを浮かべるような表情を見せる。
愛用しているジャージを誇張しながら必死にオークに力説するも、気持ちが届くことは絶対にない。
すると、オークは迷いを振り切ったかのように突然走って傍にまで駆け寄ってきた。
棍棒を持った右腕を大きく振りかざして――。
「……逃げるしかねぇ!」
バッと勢いよく後ろを振り返り、オークなど目もくれず突っ走る。
振り切った棍棒は地面を大きく叩き付ける形になり、見事空振りとなった。
伸びきって邪魔なツタやそこら中に落ちている枝をもろともせず、ひたすら駆け抜ける。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
十分ほど走り続けただろうか。
マラソンやシャトルランといった体力持久を競う競技をめっぽう嫌うダイスケにとって、体力を浪費するには十分な時間だ。
右方左方と後ろを見てオークを撒いたことを徹底的に確認してから徐々に走っていた足を止める。
心臓の鼓動は急スピードで脈を打ち、ゼェゼェと息を乱しながらも深呼吸をして心を落ち着かせた。
「よーし、落ち着け俺」
呼吸を整えながら自己暗示を交えて、周囲を見渡す。
「ふっ、オークは足が遅いのか。十分な情報収穫だな」
オークを嘲笑う。だが、この訳の分からない森を抜ける方法を知るというのが現在の課題。
「さて、どうしたものか。まずはこの気味の悪い森を早々に抜けたいんだが……」
見上げると快晴の青空、鳥だって飛んでいる。
不幸にも、彼は腕時計をつけていないため正確な時刻は分かるわけないが太陽が昇っているということは朝か昼であろうことが推測できる。
脱出ゲーム感覚にヒントを探ったところで森を抜けるヒントなんてどこにも隠されちゃいない。
ドッキリ番組にしてもたちが悪い。ドッキリ大成功の板を出すにはあまりにも遅すぎる。
「そもそも、俺はどうしてこんなとこに……」
そう言って、オークと面していた以前の記憶を思い返す。
「いててて」
思い返そうとするも、考えれば考えるほど頭が痛くなり思い出すことに嫌悪感を覚える。
他のことを考えても、痛くはならないが思い返そうとするときだけ頭痛が走った。
「ま、まぁ、まずは水でも確保しに――
人類の命の源である水を確保しようと、次の行動を決めた瞬間、
背後からとてつもない殺気を感じ瞬時に横に回避行動をとる。
「グラアアゥッ!」
幸か不幸か、悪感は見事に的中した。
おそらくは先程のオーク。
心なしか奴の殺気は先程の時よりも遥かに増しているようにも窺える。
逃げられたことが、彼の怒りを増進させるトリガーになったのか。
撒かれたことが、彼の殺気を増幅させるきっかけになったのか。
そんなこと、ダイスケに分かるはずもなかった。
「……おいおい、しつこいなお前。しつこいやつは嫌われるぞ!」
ササッと身軽な動きで素早く立ち上がり、再び走り始める。
相手の方が遅いと分かった以上、少しは余裕をもって走ることができる。
逃げながらでも水源の確保にでも向かうと考えた。
「へっ、残念だったなぁ! お前じゃ俺には追い付けね――
突然、足が何かに引っかかり身体の重心が前に崩れていくのを感じる。
撒いた後ならまだしも走って数秒、当然オークを撒けているはずなんてない。
ここでつまずいたら、一巻の終わりであることはいくらバカで鈍感な少年でさえも、理解できた。
少年は手から地面につき思いっきりこけた。
「ぐっ……」
「グルルルルルゥ……」
オークはようやく獲物を喰らえる喜びからか、口からダラダラと粘着性のありそうなよだれを垂らす。
ダイスケの足にはツタが見事に絡みついていて、到底すぐに抜け出すのは不可能だと理解する。
「……へっ、万事休す、だな」
死を悟る。
――こんなところで死ぬのか。
――場所も分からなければ、なぜオークがいるのかも分からない。
――そんな何も理解できていない状況で。
なんてこの世の未練を考えてみるが、無残にもオークの右腕は振り上げられる。
今度こそは逃げられない。
目を瞑り、攻撃に備えたその時――
「フレイム!」
右の方から女性の声が聞こえたと思った矢先、突如オークの身体は発火し胸から腕へ、足へ、頭へと身体中に燃え広がる。
オークは、もがき苦しむような聞くに堪えない呻き声を上げて倒れる。
身体中は真っ黒に燃え焦げており、身体からは煙が上空に上っている。
「な、何だ今の!?」
フレイムという掛け声の下、一瞬にしてオークが燃えた。
単純な思考で考えた答えを言うならば魔法。
オークがいるくらいなのだから、魔法が存在したって今更驚くことはない。
魔法を使った魔法使いの方を見ると、そこには可憐な少女が立っていた。
「――かわいい」
ボソッと発した無意識な一言にダイスケの感想全てが凝縮されていた。
腰付近まで伸びた長い金色の髪をした目鼻口全てにおいて最高級のパーツを持つ端正な顔立ちの美少女。
身長は百六十センチほどで、白色と黄色で織りなす綺麗な服装は華美な装飾などは一切ない。
しかし、ただの少女ではないと確信できる最も特徴的な部位が一つだけあった。
彼女は普通の人間と比べると耳が長い。
「エルフ……なのか?」
その存在もまたファンタジーな概念の存在である。
目が合うや否や、少女はすぐにダイスケ目がけて走ってくる。
とにかく彼女がいたら安心だと思えるほどに心強い存在だとすぐに認識する。
心配してくれるのか優しい表情で走ってくる彼女だったが、突如険しい表情に成り代わる。
少女は急いで口を開いて、言葉を紡ぐ。
「――逃げて! 後ろ!!」
彼女の言葉を聞き、後ろを振り返る。
そこには……全身から殺してやるという殺気や闘気を纏う、もう一匹のオーク。
ダイスケは今更ながらに思い出す。
「そういや、二匹いたっけな」
なんてことを思っているうちに後頭部に強い衝撃を覚えて徐々にダイスケの視界は霞んでいった。