3 オニの親父に談判します
17年間の人生の中で最も恐ろしい攻撃を股間に受け、俺は実家の温泉宿の一室でこの世のものとは思えない痛みに悶絶していた。
俺の最も大切な部分を狙った凶暴娘の蹴り。
幸いにも直撃は免れ急所をかすめただけで済んでいたものの、それでも滝のように脂汗が流れ出ていた。
俺は股間を押さえ、前かがみに身体を倒しながユモトを見上げる。
するとどうだろう。ヤツは、爪を噛んで、チッ、仕留めそこなったといわんばかりの表情をしているではないか。
あかん、コイツはホンマモンの鬼や。
それでもしばらくすると悪夢のような痛みもなんとか治まり、俺はようやく落ち着きを取り戻すことができた。
ふと見ると、正面に座っていたオニのオヤジさんが俺の命を狙った凶暴娘に説教をしているようだ。
そのあたりはちゃんと教育を行き届かせておいてほしいと切に願う。うんうん。
(まてよ、俺がしたことって……)
俺は、自分の行いを振り返る。
先ほどの蹴りが飛ぶ直前、俺は凶暴娘の胸をその背でしっかりと堪能していたんだよな。
……良く考えれば、非常にヤバいことをしてしまったかもしれない。
その刺激的な柔らかさに17歳という青春真っ只中な俺の理性が飛ぶのは仕方が無いとはいえ、オヤジさんの目の前でというのはまずかったかもしれない。
しかも、相手はオニのオヤジさんだ。この後、金棒で三途の川に向けて人生サヨナラホームランってことになっても全然おかしくないんじゃないか?
俺の脳裏に夕方の河原に放物線を描く自分の姿が思い浮かぶ。
こめかみからツーッと冷や汗が流れた。
ま、まずい……どう言い訳すれば……。
俺は必死に思考を巡らせ、異世界に転生しないための言い訳を必死に探す。
しかし、そんな俺の心配をよそに、目の前に座るオニのオヤジさんが朗らかに笑い始めた。
「はっはっは、乱暴な娘ですまんね。だが、うちの娘もなかなかいいモノを持っているだろう?」
「あ、は、はいっ……。すいませんでした」
どうやら命の危機は去ったらしい。
うん、おおらかな親父さんでよかったよかった。
……って、その話は本題じゃない。というか、命の危機さえさればどうでもいい話だ。
もっとまじめに話さなければならないことがある。
俺はもう一度居住まいを直してから、改めてオニのオヤジさんに話しかけた。
「えーっと、正直言ってまだ頭の中の整理はついていませんが、とりあえずさっき仰っていたことだけはなんとか理解したと思います。要するに、うちのバカ親父がリューオウさんにこの宿を売っ払った。で、リューオウさんはこの宿を別荘か何かとして使うつもり……ってことですよね?」
俺の言葉に、リューオウはゆっくりとと頷く。どうやら俺の確認は肯定されたようだ。
うーん、そんなにこの宿の経営厳しかったんだ。
まぁ、確かに休前日でもせいぜい半分程度、平日になると予約ゼロの日もザラだったもんな……。
宿の仕事を手伝っている中で、何となく経営状況を察してはいたものの、ここまで追い込まれているとは思ってもいなかった。
それに、バカな親父とはいえ、さっさと宿を処分するとかマジで想定外だ。
心の整理なんてすぐにつけられるわけはない。
それに、俺には……。
いろいろな思いが入り乱れる俺の口から、自然と言葉がこぼれ出た。
「この宿をこれまで支えてきたのは親父だし、その親父が売るって決めたんだからそれは仕方がないと思います。ただ、俺、この宿のこと、結構好きなんっすよね。子供のころからお客さんたちの間に混じって遊んだり、仕事の真似事したりって……、まぁ、うちの親父のことだから、体よく手伝わせてただけっていう気もしますけどね」
リューオウはもとより、横に並ぶ三姉妹も俺の話をじっと聞いてくれている。
俺の言葉は止まらない。
「でも、俺、将来はこの宿を継いで、いつかは頑張って繁盛させたいって気持ちでマンマンだったんです。そりゃ小さな宿だし、近くには大資本のリゾートホテルなんてできたから簡単じゃないってのは分かってます。それでも、俺、この宿の看板を下ろしたくはないんです!」
強い調子で言い切った後、しばし沈黙の時が続いた。
俺は沈黙にも耐え、じっと正面に座るリューオウを見据える。
すると、俺の話を黙って聞いてくれていたリューオウが、腕組みをしたまま口を開いた。
「ふぅむ……。ほんで、あんさんはどないしたいんや?」
先程までとは違い、鋭い視線をなげかけてくるリューオウ。
さすがはオニだ。強烈なオーラがプレッシャーとなって俺に押し寄せる。
その迫力に思わずたじろぎそうになる俺。
しかし、ここが勝負どころだ。プレッシャーに負けてなんていられない。
俺は勇気を振り絞ってリューオウの質問に答えた。
「別荘ってことは時々しか使わないつもりですよね? だったら、せめて空いている間だけで構わないんで、俺にこの宿を続けさせてください! 何としても頑張って繁盛させます! そして、俺がしっかりお金溜めることができたら、その時は俺にこの宿を買い戻させてください!」
俺は一息で自分の気持ちを言い切ると、手を床について頭を下げた。
ぜーぜーと肩で息をする俺。
自分の気持ちをここまで真剣に誰かへ伝えたことなんてこれまで一度もなかったかもしれない。
自分自身の言葉であったはずなのに、俺の心の中には何か熱いものが満ちていくのが感じられた。
再び沈黙が場を支配する。
そのまま頭を下げていた俺だが、リューオウの反応が気になって下から覗き込むように顔色を覗きこんだ。
すると、その気配を察したのか、リューオウが顎に手をやりながらゆっくりと話を切り出す。
「そういう心意気、ワテは嫌いじゃありまへんで。ワテらが使っとらん間なら、別に宿の営業をしても損はあらへんですしな。しかし、営業といっても一人でやるおつもりですかいな? それに宿をやるための運転資金とかはどないしますねん?」
痛いところを突かれた。確かにリューオウの言うとおりだ。
宿の仕事は多岐に渡る。接客はもちろん、料理や部屋の準備、それに帳場……いくら小さな宿とはいえその全てを一人で全部こなすのは到底無理な話ということは良く分かっていた。
それに、人を雇うことはもちろん、お客様にお出しする料理の食材一つを用意するのだってお金がかかるのは当然のことだ。
いくら宿の跡取り息子といっても所詮17歳のただの高校生。新たに人を雇うことはおろか、当座のやりくりをするためのお金だって用意出来るわけがない。
現実を突き付けられ言葉を返すことができない俺に、リューオウはさらに冷たく宣告する。
「それに、よしんば上手く行ったとしても、買戻しとなると気の遠くなるような話ですな。ちょっと無理筋の話とちゃいまっか?」
やはりダメか。俺の勢いだけの思い付きが通用するほど世間は甘くないということか……。
俺は唇をぐっと噛み締め、ただ黙ってうつむくしかなかった。