1 大風呂の掃除に来たら鬼っ娘が入っていました
俺は、人生最大の命の危機に瀕していた。
仰向けに倒された俺の喉元には、モップの柄が突き付けられている。
もしこのままくいっと突き刺されたら……、うん、あんまり安らかには眠れなさそうだ。
「あんた誰よっ! お風呂を覗くなんて、どこの変態っ!?」
殺意を溢れさせながらモップを握り締めている女が、俺に叫んできた。わめき立てる声が頭に響いて痛い。
先ほど倒された拍子に少々頭を打ったようで、どうも記憶が混乱している。
いったんここは冷静に頭の中を整理しよう。
まず、今いる場所は大浴場の更衣室だな。ということは、生まれ育った実家の温泉宿であることも間違いない。
そうそう、俺はいつもの日課である風呂掃除をしにきたんだった。
で、まずは男湯の方から済ませようと、物置からバケツとモップを取り出して、男湯の脱衣場の扉をガララッと開いたっと。
うんうん、思い出してきたぞ。
で、その後だ。 扉を開けたら、人の気配がしたんだよ。
今日はお客さんがいないはずなのに、おかしいなぁと思ったんだよね。
だから、俺はその人に声をかけたんだ。
「えっーっと、すいません。今日お泊りのお客さんでしたっけ?」
「え!? だ、だれっ!」
俺が声をかけると、その人はびっくりしたようにこっちを振り返ったんだ。
そうすると、今度はこっちが驚く番だったんだ。
「えっ!? なんで女の子がっ?」
そう、そこにいたのは、長い黒髪を垂らしていた割と可愛い感じの女の子だったんだ。
どうやら身体を拭いていたところらしく、胸元に白いバスタオルを当ててその子はこっちをじっと見つめてきたんだよね。
で、次の瞬間、俺の記憶は途切れたんだけど…… そういえば、ちょうど目の前でモップを持ってる感じの子だったな。そうだそうだ。
……ってええ!? なんで女が男湯にいるんだ?
そもそも、彼女はいったい誰なんだ?
ようやく整理できた俺の頭の中に、今度は一気に疑問符が湧きあがる。
しかし、そんなことはお構いなく、女が罵声を浴びせてきた。
「堂々とお風呂を覗きに来るなんて最低ね! 覚悟なさい! このまま成敗してやるわ!」
「ちょ、ちょっとまて! 俺はただここの掃除をしにきただけだ! そもそも、こっちは“男湯”のはずだぜ!」
俺の反論に、正面に仁王立ちしちていた女の子が固まった。
「え? オトコユ?」
「ああ、男性専用の風呂、略して男湯だ! わかるよなっ? 」
俺が告げた事実に驚いたのか、彼女の顔がみるみる赤くなった。
よし、今だ!
俺は喉元に突き付けられたモップの柄をしっかりとつかむと、この場から逃れるために相手目がけて一気に押し込んだ。
俺の思惑通り、あっさりとバランスを崩した彼女が後ろに倒れ込みそうになる。
すると彼女は、転ばないように何とかこらえようと、慌てて両手でモップの柄を掴んできた。
ん? 両手? 確かコイツの今の恰好って……。
彼女のとった行動は、物理法則に従って当然の帰結をもたらすこととなる。
そう、彼女が自身の身を隠すように手にしていた真っ白な大判のバスタオルは、ニュートン力学に逆らうことなくゆっくりと床に落ちていったのだ。
つまり、俺の目の前には――。
「くぁwせdrftgyふじこ!」
女の言葉にならない悲鳴とともに、俺の記憶はプツリ途切れた。
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「……ん、んんっ、うーーんっ……」
俺が目を覚ますと、そこには見慣れた天井が広がっていた。
って、ここ、うちの客室か。あの天井の染み、何とか直さないとなぁ……。
……って、なんで俺は客室で寝てるんだ?
俺は頭を抑えながら、慌てて身体を起こそうとする。
しかし、その行動は、横から伸びてきた細くしなやかな白い手により、やんわりと止められた。
「お加減大丈夫ですか? うちの妹が大変乱暴なことをしてしまいまして、申し訳ございませんでした」
その声のする方に顔を向けると、そこには三人の女性が並んで座っていた。
先ほどの声の主は、どうやら三人の中でも一番年齢が上 ―― おそらくは俺よりも少し上だろう ―― と思われる女性だ。
少しウェーブがかかった濃いめの紫髪を一つにまとめ肩口から前へと垂らしているその女性は、どこか妖艶な雰囲気を漂わせている。
彼女は、俺の肩口に手を乗せて、前のめりに覗き込むようにしながら申し訳なさそうな表情で俺の様子を伺っていた。
俺は、心配かけまいと、わが身の無事を伝えようとする。
「い、いえ……。とりあえず、大丈夫そう、で……ん?」
その時、俺はふとあることに気づいた。
こちらの美しい女性 ―― いや、お姉様が身に纏っているのは胸元が大きく開いたドレスだということに。
青春真っ只中である十七歳の健全男児としては、姿勢と服装が織りなす空間から垣間見える神秘の谷間に目が行くのは物理法則上やむを得ないことであるのは間違いない。
出来れば、も、もうちょっとかがんでもらえないかな……。
「……やっぱりこいつは変態ね。お姉ちゃんの胸元ばーっかり覗きこんでるしっ!」
お姉さまの隣に座っていた気の強そうな黒髪の女の子が、割り込んできた。
チッ、せっかくいいところだったのに。
って、よく見ると、記憶が途切れる前に俺の人生をシャットダウンして天国へと送り届けてくれようとしていたサービス精神旺盛の子じゃないか。
年恰好は俺と同じくらいか。さっき妹といってたということは、少なくとも二人は姉妹ということなのだろう。うーむ、よくよく見れば、お姉さま譲りの整った顔立ちをしたなかなかの美人さんではないか……静かに大人しく座っていればという条件が必要にはなるが。
俺がそんなことを考えていると、今度はさらにその隣に座っていた小さな女の子が声をかけてきた。
「でも、ユモトねーたまっ。さっきのことは、そもそも“おとこゆ”と“おんなゆ”を間違えたユモトねーたまのせいなんですよっ。ちゃんとごめんなさいしないと、アワラねーたまに、めっ、ってされちゃいますよっ!」
……なんかやたらかわいいな。
随分舌足らずだけど、んー、小学生の低学年か中学年ぐらいかなぁ。おかっぱ頭が良く似合っているお子様だ。
二人のことをねーたまって言ってるということは、この子が末っ子さんなのかな。
ということは、こちらの素敵なお姉さまがアワラさんで、えーと、こっちの殺意溢れる凶暴系女子がユモトってことか。
俺は、三人の会話を聞きながらすっかりこんがらがった頭の中を整理する。そして、普段のオヤジの行動パターンから一つの結論を導き出した。
この三姉妹は、恐らくは昨日の夜にオヤジが街中で声をかけて連れてきたウォークインのお客様だ。
それで、きっとうちのバカオヤジがそのことを俺に伝えず、朝になったらとっとと出掛けやがった。そして、先ほどの“事故”につながったと。
ったく、何が修行だ。オヤジの方こそまともに仕事しろよ!
そうなると、俺はお客様が滞在している客室で、お客様を前に寝ていることになる。
これはいかにもマズイ。俺は、慌てて身体を起こした。
その時、俺の視線が、三人の頭の上に載っている“あるもの”を捉えた。
三人の頭の上にあるのは、小さな三角形のアクセサリーのようなものだ。
推定長女と推定三女は頭の真ん中から一本、推定次女は両サイドに一本ずつついている。
その姿形は、まるでおとぎ話に出てくる“角”のように見える。質感もリアルで、何とも変わったアクセサリーだ。
しかし、学校とかでもそんな角っぽいアクセサリーが流行ってるとかいう話は聞いたことがない。
一応これでも流行には敏感なタイプと自負はしているのだが……。
もしかして……、何だか嫌な胸騒ぎがした俺は、恐る恐る三人に話しかけた。
「えーっと、お客様、その頭に着けているのは……?」
俺の質問に、推定次女の凶暴娘がキョトンとした顔で答えてきた。
「え? 私たち、お客様じゃないわよ。それに、ツノになんかついてる?」
推定次女はそういうと、“ツノ”と呼んだものを手でパッパと払う。
結構な勢いで払っているが、頭から採れる様子は一向にない。まるで頭から直接生えているかのようだ。
んーっと一つ考え込んでから、俺はもう一度聞き直す。
「ええっと、それってアクセサリーでは……?」
「何言ってるの? 違うわよ。私たちオニなんだから、ツノが生えてて当たり前じゃない」
……よし、もう一度寝よう。
これが悪い夢であると信じつつ、俺は再び目を閉じた。