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懐古堂奇譚  作者: りり
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第八章

 翌日、書庫にしている『弐ノ蔵』の扉を開けっ放しにして、茉莉花は祖父の遺したたくさんの書物をあさっていた。鬼人について調べるためである。

「ねえ、達磨のおじさん。鬼人て、いわゆる(おに)とは違うのよね? 物の怪ではなくて‥神さまに近いものだったかしら? ‥昔お祖父ちゃんにちらっと聞いたんだけれど。」

「神さまとは格が全然違いやしょうぜ。嬢ちゃん、ばちが当たりやすよ。」

 箒をせっせと動かしながら黒達磨は答えた。

「でも鬼人界に棲んでいて、人間の精気を必要とせずに霊力を保てるってここに書いてある。鬼人界って‥何かしら?」

「さて。人の住む現世(うつしよ)とはちょい違うところみたいでやんすね。」

「‥‥直接話を聞いた方が早そう。墨染鼠さんは少しは落ち着いたかしらね?」

 茉莉花は散らかした書物を片づけると、『弐ノ蔵』を閉めた。 

「嬢ちゃん。あれはどうやら‥半端もんでやすな。」

 黒達磨が声を低めて囁いた。

「半端もん?」

「へえ。わしは墨染鼠なんちゅう妖しは聞いたことがございやせん。わしや桜のように本体を持っとるとも思えんし‥。思うに成りきれなかった半端もんでやんしょう。」

「ああ‥なるほどね。でも成りきれなかったんじゃないのよ。もともとの存在がいくつか混じり合ってしまっているの。わたしに見えるのは三つ。普通の化け鼠と黒猫、それから袈裟を着た人。‥まだ他に入っていても驚かないわね。」

 茉莉花は険しい表情を浮かべた。

 四宮本家が何らかの術によって彼のような存在を生みだし、使役しているとなれば、許されない話だ。夜鴉の若頭領はどこまでわかっていて茉莉花に預けたのだろう? 

 夜鴉一族はたぶんいつでも全面戦争を開始できる準備が整っているに違いない。しかも相当の自信を持っている。冷徹な視線で『懐古堂』二代目の交渉能力を見極めようとしているはずで、茉莉花が収拾できなければ即座に力ずくで四宮を潰すつもりかもしれない。

 だが―――四宮は夜鴉一族の力をよく知っているはずだ。

 人の世に暗闇が減って、物の怪たちが徐々に物の怪街道筋へと引っ越していったのを後目に、夜鴉一族だけは勢力を拡大している。都会の夜にびっしりと根を張り、(かしら)である若頭領の妖力は未だかってないほど甚大だ。人の世にも入りこんで巨万の富を握っている。

 その若頭領の勢力に四宮本家はどう対抗するつもりなのか。

 若頭領の漏らした言葉で茉莉花が気になっているのは三つ。『俺の代で夜鴉一族を潰すわけには』『四宮が人の分を超える』―――つまり四宮が人ではない力を使役しようとしていて、その力は夜鴉一族を場合によっては潰しかねないほど強大だということ。更に黒鬼が『現在東京で最強の庇護者』と言うなら、若頭領の懸念は鬼人の力か?

 もしも四宮咲乃が黒鬼を釣る餌なのだとしたら。

 その場合墨染鼠は四宮の意志とは反対に動いたことになる。しかし使役印は必ず、四宮の意志を実行させるはずで、逆らう行動を取れば墨染鼠はその場で燃えつきてしまう仕組みになっていた。即ち四宮が咲乃で本来釣りたかったのは、若頭領であるべきだ。

 ともかく四宮咲乃と黒鬼に会って、直に話を聞こう。彼らの役割が見えてこないことにはすべては空論にすぎない。

 一方で心配なのは―――行方が知れないという人のことだった。

 もしやもうリズと同じ目に遭わされてしまったのでは、と思うと気が気ではない。できた縁が導くまで成りゆきに任せるしかないのだと言い聞かせてはいるのだけれど、どうやらこの気持ちは『懐古堂』店主ではなくて茉莉花個人の感情らしかった。

 外出の支度をすませ、鈴を高らかに鳴らして気分を落ち着かせる。

 個人的感情とは厄介なものだ。仕事をするうえでは邪魔以外の何ものでもない。茉莉花の仕事は力の導くまま、縁の強弱によって関わりの度合いを決めるのが肝心なのであって、この点を外せば絶対に失敗する。だから鳥島に過度に思い入れをして動けば、逆に茉莉花の力が彼に反作用するはめになるだろう。

 墨染鼠の首に『懐古堂』の印章が入った護符をつけてやり、手提げ鞄に入れた。

「咲乃さんのいるところへまっすぐに案内しなさい。余計な真似はしない方が、あなたのためよ。」

 墨染鼠は神妙な顔で髭を震わせ、はい、と答えた。小さな両手で護符の袋を握りしめている。よほど黒鬼が怖いらしいが、それは臆病な鼠の習性だろう。

「達磨のおじさん。ちょっと出かけてきます。留守をお願いね。」

 店の外は梅雨模様だった。


 授業が終わって咲乃が校舎を出ると、雨が降っていた。

 湿った、生温かい空気がしっとりと体を包みこんでくる。咲乃はバッグから白い水玉模様の傘を出して広げた。

 携帯に大学から就職ガイダンスの案内メールが入っていた。もうそんな時期かと思いつつも、どこか身が入らない。運良く就職先が決まったとして、この体質を何とかしないとやってゆける自信がなかった。

 黒鬼が言うには、彼の力は強すぎて物の怪だけではなく人をも遠ざけるのだそうだ。

 もともと人見知りが激しくて友人など一人もいない咲乃だが、黒鬼の嫁になって二日、用がない限り話しかける人もいなくなった。これで社会人として人の間で生活できるのか、不安でたまらない。だからといって咲乃を包む黒鬼の霊力を薄くすれば、今度は物の怪に命を狙われるのだ。

 咲乃は溜息をついた。

 本音を言えば黒鬼さえ傍にいてくれればどうでもいい。四六時中一緒にいたい。咲乃の望みはただそれだけだ。けれどそんな言葉はひと言も口にできなかった。

「どうした‥浮かない顔をして。」

 びくっとして咲乃は体を震わせた。

 すぐ近くから顔を覗きこんでいた黒鬼は苦笑して、つうと離れた。

「まだ慣れないのか。しょうがねえな。」

「あ‥。」

 小雨の中、二歩先を歩く背中を見つめて咲乃は吐息をついた。

 咲乃の感情はぴったりくっついていたいのに、体がなぜか怯えているかのように震えてしまう。怖いわけではない、傍にいて欲しい―――言葉が出てこない。

 小走りに走って追いつくと、散々ためらった末にやっと指先だけ繋ぐことができた。

 肩ごしに振り向いた黒鬼は咲乃の手から傘を取って、高い位置からさしかける。

「人は面倒だな。これっぽっちの雨でいちいち体が濡れるのか? これ、濡れないためなんだろ?」

 うん、とうなずいておずおずと見上げる。

 黒水晶のような澄んだ瞳がじっと咲乃を見ていた。

 大きな手が頬に触れて、前髪をかきあげた。引き寄せられて目を閉じる。唇が触れあう柔らかい感触に胸が破裂しそうになった。

 不意に黒鬼は顔を上げて、咲乃をしっかり抱え直した。

「誰か‥来る。おまえを探してるようだ。」

「え‥? こんな昼間から‥お化け?」

 いや、と黒鬼は首をかしげた。

「人間みたいだが‥‥おまえに似ている。」

「あたしに?」

「うん。だがおまえみたいに騒がしくない。もっとずっと静かな気配だ。」

 咲乃は不安になって黒鬼にしがみついた。もしや四宮の家の者ではないだろうか? だとしたら―――黒鬼を祓いに来たのかもしれない。

 微かに鈴の音が響いた。低くて鈍い、眠気を誘うような音。

 キャンパス内の小道が深い霧に包まれ、その中から長い黒髪の少女が現れた。

 少女は冷ややかなくらい静かな瞳を向けて、丁寧に頭を下げた。

「四宮咲乃さんと庇護者の方ですね? わたしは『懐古堂』と申します。人と人でない方々の間での交渉ごとを生業にしております。‥夜鴉の若頭領より預かりの件について、お二人のお話を伺いたくお訪ね申しました。」

 黒鬼はますます強く咲乃を引き寄せた。

「夜鴉の旦那が何を言ったか知らないが、咲乃は俺の嫁だ。どうしても嫁にしたければ俺を斃してからにしなと伝えろ。」

「嫁‥?」

 少女は怪訝な顔を咲乃に向けた。

「あなたは承知したのですか‥? この方は人ではありませんよ。」

 咲乃はうなずいた。

「あのう‥。若さまにはちゃんとお断りしました。それにもう、わたしは‥。」

 口ごもって真っ赤になる。少女はまじまじと咲乃を見返した。

「ああ‥。既に契りは成立しているのですね。‥いえ、ご自分で決めたのなら構わないのです。それに若頭領があなたに結婚を申し込んだとは聞いていません。別の話です。」

 同じくらいの年頃に見える少女にあっさりと大人みたいな受け答えをされて、咲乃はますます赤面した。

 彼女は手提げ袋の口を大きく開けた。

 おずおずと墨染鼠が顔を出す。黒鬼の姿に髭をぶるぶる震わせたものの、咲乃を見つけて伸び上がった。

「お嬢さま‥。ご無事でしたか?」

「まあ‥。墨染鼠さん‥! あなたこそ無事で‥。良かった、心配していたの。あたしのせいで怖い目に遭わせてしまって‥ほんとうにごめんなさい。」

 咲乃はほっとして涙がこみあげた。

 思わず墨染鼠に向かって両手を差しだそうとして、その途端黒鬼に止められた。彼は険しい表情をしていた。

「咲乃、近づくな。こいつはわざと夜鴉のもとへおまえを誘導したんだ。‥鼠、そうだよな?」

「そそそそれには‥訳があるのです‥。わたしめはお嬢さまのために‥。」

 鼠は胸に下げた護符を両手で握りしめて震えながら、必死で訴えた。

「うるせえ。夜鴉の餌に差しだすつもりだったんだろ? ‥‥消えな。」

 黒鬼は片手を墨染鼠に向けて、霊力を放った。

 咲乃の叫び声より一瞬早く、鈴の音が高らかに響いて、鼠は少女の腕の中に移動した。

「お待ちください、鬼人さま。この者の言い分にも理があるのです。咲乃さんの身に関わる大事なのですから、あなたの運命にも関わってくるのですよ。」

「俺の‥運命?」

「そうです。契りを結んだのでしょう? 咲乃さんに降りかかる難事はあなたの身にも影響を及ぼします。縁とはそうしたもの。」

 黒鬼はせせら笑った。

「俺を脅かそうってのか? おまえに言われなくても咲乃のことは護ってみせるさ。」

「ええ。夜鴉の若頭領が、あなたを現在東京で最強だと評していました。わたしもそう思います。人だろうが物の怪だろうが、たやすく消してしまえるのでしょうね。」

 ですが、と少女は続けた。

「咲乃さんが置かれている状況をちゃんと知っておいて損はないでしょう? ‥咲乃さんも知りたくはないですか? この者は四宮紫さんの命令であなたの傍に来たそうです。」

「四宮‥(ゆかり)?」

 誰だ、と黒鬼が耳元で囁く。咲乃は母の名前だけど、と戸惑いながら答えた。

「でも母は‥二十年前に死んでいます。」

「そのようですね。だからわたしも四宮本家で何が起きているのか知りたいのです。申し遅れましたが、わたしの名前は四宮茉莉花。曽祖父の代まで分家でした。」

 そう言うと少女は名刺を咲乃に差しだした。


 茉莉花の話は咲乃にはまったく理解できないものだった。

 四宮の敷地内で育ったのは確かなのだが、使役印だとか結界、修法などと言われてもさっぱりわからない。ましてや伯父や祖母がいくら何でも咲乃をわざと物の怪の餌にするために放りだしたなんて、何かの間違いだとしか思えなかった。

 ところが黒鬼は咲乃よりずっと正確に茉莉花の話を理解したようで、気に入らない、と言い切った。

「その鼠とあんたの話を丸呑みにするなら、咲乃はまるで餌じゃねえか? 物の怪でも最も低級な奴らみたいな、下司な真似を人間がしてるってのかよ。‥腹が立つ話だな。」

「人間にもいろいろな人がいますし、今わかっているのは事実のほんの一端だけです。ところであなたにも伺いたいのですが。人間界へはいらしたのはいつ頃なのでしょう?」

「なぜそんなことを聞く?」

「初めからあなたがターゲットなのか、それとも予定外だったのか確認したいのです。」

 淡々と説明する茉莉花を黒鬼は黙ってじっと見た。彼女も静かに見返している。

 咲乃はあらためて茉莉花が非常な美人であることに気づいた。

 しかも同じ年頃なのに、自分とは比較にならないほど頭が良くてしっかりしている。すべてが平凡極まりない自分を顧みて、咲乃は知らず知らずうつむいていた。

 黒鬼はふふん、と笑って咲乃を抱いた手に力をこめた。

「人間界へ来てからまだ三年と経ってねえよ。普通の鬼人は人間界なんぞ見下してるから、まず来やしないだろう。咲乃で鬼人を釣るつもりだったとは思わないな。それから‥咲乃の中には怪しげな術式みたいなものは仕掛けられてないぜ。隅々まで確認ずみだよ。」

 茉莉花はちょっと赤くなって目を伏せた。

「‥‥信じましょう。けれど、わたしが墨染鼠さんの使役印を無効にしたせいで、近々新たな接触があるかもしれません。くれぐれも気をつけてあげてくださいね。」

 そして彼女は幽かに微笑んで、咲乃を振り向いた。

「あなたはとても無垢で美しい。餌というよりむしろ、宝玉でしょうか? 暗闇に宝玉を放りこんで物の怪たちに奪い合いをさせるのが狙いなのかもしれませんね。‥‥お時間を取らせました。」

 咲乃が驚いているうちに、徐々に霧が薄れ、もとの小雨の降る小道に戻っていた。

 茉莉花は軽く会釈をすると、背を向けて立ち去っていった。

 黒鬼は姿が見えなくなるまでずっと彼女を見ていたが、やがて咲乃を振り向いて、行くぞ、とひと言告げて空に舞い上がった。


 茉莉花は店に帰ってくると、ああ疲れた、と言って肩を回した。

「凄い霊力‥。おまけに気が短いし。あの鬼人、鬼人としてはまだ子どもなんじゃないのかしらね?」

 黒達磨がくすくす笑った。

「嬢ちゃんが愚痴を言うなぞ珍しいこってすね。うまくいかなかったんでやんすか?」

 茉莉花は隣でぐったりしている墨染鼠を見遣って、うなずいた。

「話を聞いてもらうだけで精一杯。聞き出す余裕はなかったわ‥。でも咲乃さんて人はほんとうに何も知らないみたいだった。」

 思い出しながら茉莉花はつい赤面する。

「あの人は‥力の制御が全然できていないから、自分が全身で彼を好きだと言い続けているなんて気づいていないのよね‥。こっちが恥ずかしくなっちゃう。」

「ロマンスですかい?」

「そうね。熱愛中みたいよ。おまけに若さまったら、彼女を黒鬼と取り合おうとしたらしいわ。痴話喧嘩は『懐古堂』では受けつけませんて、今度来たら言ってやろうかしら?」

 黒達磨の笑い声がいっそう大きくなった。

「ま、熱いお茶でもお飲みなせい。鼠さんも、ほら。」

 ぐったりしている鼠の背中を茉莉花はそっと撫でてやった。

「可哀想に‥。あの鬼人たら問答無用で消そうとしたの。怖がるのも無理はないわ。‥でも鼠さん。咲乃さんは彼の庇護下で安全だと思うけど? どうして反対なの?」

「‥‥鬼人はだめです‥。怖ろしいモノですから‥。お嬢さまを守ってくださるのは夜鴉の若さましかいないのです‥。」

 お猪口を両手で持って、墨染鼠は髭をぶるぶる震わせながらつぶやいた。

 茉莉花はじっと彼を見ていたが、やがて静かに問いかけた。

「ねえ‥。ゆっくりでいいから思い出してほしいんだけど。あなたを墨染鼠として生みだした人は誰? 四宮紫さんなの?」

 髭をしんなりとさせて鼠はうつむき、はい、と答えた。

「わたしめは紫さまの飼い猫でした。妖力を得るに至らず、半端な存在ではありましたが、紫さまが死の直前にわたしめに化け鼠を取りこませて物の怪となし、隙間からそっと逃がしたのです。‥‥わたしめは情けないことに多くの大事な記憶を二十年の間に失くしてしまいました。取りこんだつもりの鼠の浅ましさが本性となりはて、卑屈で惨めな存在に‥。とうとう咲乃お嬢さまもお護りしきれず‥。」

 鼠はしくしくと泣き始めた。

「こちらのお嬢さまに昨日問われて‥やっと自分の素性を思い出しましたが‥。何から護らねばならなかったか、それさえもわからず‥。」

「‥‥でも夜鴉の頭領ならば対抗できると感じるのね?」

 両手で顔をおおったまま、鼠はうなずく。

「あなたはちゃんと務めを果たしたのよ。若頭領は咲乃さんを脅かす存在を自分にとっても敵だと認識しているようだった。きっと保護してくれるでしょう。」

「‥‥そうでしょうか?」

 ええ、と茉莉花は請け合った。そして鈴を取り出す。

「だからね。安心してしばらくお休みなさいな。」

 低い、柔らかな鈴の音がリーンと響いた。

 鼠はこっくりこっくりと舟をこぎ出す。

「そう‥。そして‥墨染鼠さんに憑依しているあなた‥。出てきて話を聞かせて‥。もとは人だったはずの‥そう、あなたよ。」

 ふうわりと墨染めの袈裟みたいなものが鼠の背中から剥がれ落ちて、ぼんやりとした若い男の姿をなした。黒っぽい作務衣を身につけ、剃髪はしていない。今まで朧気に見えていた時には袈裟を着ていると思っていたが、着てはいないようだ。修行僧だろうか?

 男は虚ろな瞳をさまよわせて、茫然と立ち竦んでいた。

「あなたの名前は‥?」

「吉見‥達也‥。」

「自分について憶えていることは、何でもいいから話してみて。」

「ぼくは‥失業中で‥。そうだ、アルバイトでお祓い師の助手に雇われて‥大きな屋敷に行きました‥。」

 彼はぶるぶるっと一瞬身を震わせて、頭を抱えた。

「祈祷の途中で女性が‥いきなり倒れて‥。ぼくは慌てて逃げ出そうとして、転倒して‥それから記憶が‥曖昧になってしまって‥。他人の記憶なんだかぼくのなんだか、さっぱりわからなくなっちゃったので説明できないんです‥。どうか、助けてください。」

「どうして逃げ出さなきゃと思ったの?」

「そりゃ、次はぼくだと思ったから‥。よく‥憶えてないけど。」

「ふうん‥。それからどれくらい経つかはわかる?」

 作務衣の男は首を振る。

「どうして墨染鼠と一緒にいたの‥?」

「気づいたらくっついちゃってて‥。途中途中で意識が飛んでるから、はっきりしないんだけど‥。誰かが鼠と逃げろって言ったんだ。」

「それは‥女性かしら?」

「いや‥男だった気がするけど‥。あのう、ぼくは戻れないんですか‥?」

「あなたの体が残っているなら、可能性はあるけれど‥。いつの話だかわからないのではね。‥とりあえず鼠さんとは離れたほうがいいから、この店にある道具のどれでもいいから一つ選んでくっついててちょうだい。」

「そんな‥。どれでもいいって、あんまりじゃないですか。」

 吉見達也は泣き声を出す。

「嬢ちゃん、この木彫りの観音像なんかどうでやんしょ?」

 黒達磨が持ってきた観音像は二十センチくらいの小振りなものだ。以前交通事故で死んだ少女が憑依していた品なので、霊が入りやすいはずだった。

「ああ‥。ちょうどいいわね。吉見さん、ちょっとの間だからこれに入っていて。あなたの体が見つかるまで。」

 しぶしぶ彼は観音像を手に取った。あっという間に吸いこまれてゆく。

 茉莉花はさてと、とつぶやき、眠っている墨染鼠をじっと見据えた。

「‥用心深いですね。出てきてはいただけませんか? さっきの袈裟はあなたのものでしょう? 吉見さんに着せてわたしをごまかしたつもりですか。」

 気配はあるが返事はなかった。

「墨染鼠を操って、若さまのところへ咲乃さんを誘導したのはあなたですよね? もしかして四宮紫さん?」

 やはり返事はない。

 茉莉花は溜息をついた。

「二十年前四宮紫さんに何が起きたのか、知りたかったのですけど仕方ありません‥。信用していただけるまでお待ちします。話す気になったら、いつでも出てきてください。」


 咲乃は自分の部屋で明日の授業の下準備をしながら、黒鬼を気にしていた。

 部屋に戻ってからずっと、黒鬼は黙って何かを考えこんだままだった。窓辺に寄り添ってガラスごしの景色を眺めている。

 咲乃は彼が何を想っているのか不安でたまらない。

 さっきの美少女を思いだすにつけ、咲乃を嫁にして早まったと後悔しているのではないかと―――要するに焼きもちなのだが、心配している。

 彼女がくれた名刺を取り出してじっと見入った。

「あのう‥。あたし、この『懐古堂』ってお店に行ってみようかな‥?」

 黒鬼はゆっくりと振り向いた。

「あの女の話が気になるのか‥?」

「それもあるけど‥。あたしもあの人みたいに、ちゃんと力をコントロールできるようになりたいと思って‥。その、少しは自立しないとね。なるべく迷惑にならないように‥あなたを頼ってばかりじゃいけないから‥。」

 咲乃は一生懸命、微笑んで見せた。

 ―――重荷にならないように努力するから‥。どこにも行かないで‥。

 黒鬼の黒水晶の瞳が、呆れたと言わんばかりに咲乃を見下ろした。

「今更、霊力の制御を身につけて何の意味があるんだ‥? まあ‥学びたいなら止めはしないが。おまえはもう俺の嫁になったんだぜ? 自立とか迷惑だとか‥変なこと言ってんじゃねえよ。‥おまえ、やっぱりよくわかってないんじゃないか?」

「だって‥頼ってばっかりじゃ‥今にうんざりされちゃうと思って‥。き、嫌われたくないんだもの。」

 咲乃は唇を噛んでうつむいた。

 咲乃、と黒鬼の声が耳元で聞こえて、背中からすっぽりと抱きかかえられた。

「‥あの女が言ってただろう。もう後戻りはないんだ。咲乃の運命は俺の運命、ずっと傍にいる。何もかも頼ればいい‥俺が護ってやるから。」

 返事の代わりに腕に頭をもたせかけた。胸がいっぱいになる。

 黒鬼は黙って咲乃を抱きしめたまま、しばらくの間髪を撫でていたが、やがて静かに口を開いた。

「今日の話だが‥。咲乃は‥親の顔を知らないのか‥?」

「あ‥うん。母はあたしを生んですぐに死んじゃったし、父親はわからないの。祖母も伯父も‥母が私生児を生んだのが許せなかったみたい。確かにあたし、嫌われてはいたけど‥でもね、だからって妖怪の餌にするなんて‥ちょっと信じられない。きっとあたしにも力があるなんて、気づかなかっただけだと思うの。なるべく顔を合わさないようにしていたから、それでたぶん‥気づかなかっただけで‥。」

 喋っているうちに自信がなくなってきた。

 いくら関心がなかったからといって、四宮の本家たる人たちが気づかないなんて話があるだろうか。たぶんありえない―――気づかないのは咲乃みたいな間抜けだけだ。

 涙がまたこみあげてきた。

 泣くな、と叱る声が耳元で囁く。

 黒鬼はベッドに腰を下ろし、咲乃を膝に抱いた。

「俺も親の顔は知らない。育ててくれた爺さんが言うには、山奥の木のうろに押しこめられていたそうだ。」

「え‥。それって‥。」

「ああ、捨てられたんだな。鬼人も人間と同じで親から生まれて、ある程度大きくなるまで親に庇護されて育つのが普通だ。人間のガキほど脆弱じゃないし、霊力があれば放っといても育つから、捨てられたからといってすぐに死ぬわけじゃない。むしろ俺の親は俺みたいなはぐれ者と関わりたくなかったんだろう、と爺さんは言っていた。」

「はぐれ者‥?」

「そうだ。鬼人界では赤鬼(せつき)青鬼(せいき)がほとんどで、ほんのわずかだけ白鬼(びやつき)がいる。親の色が異なっていても、生まれる子どもは必ず赤か青か白で生まれてくるんだ。俺みたいな黒い鬼人はどこにもいない。」

 黒鬼は他人事みたいに淡々と語った。

「俺を拾った爺さんは変わり者で、かなりの年寄りだった。七百才を超えていたろうな。とっくに寿命は過ぎていたから、自分が死んだら人間界へ行けと俺に言った。人間界ならば境界が曖昧でいろいろな生き物が混在しているから、はぐれ者一人くらい紛れこんで生きていけるだろうと。‥実際に爺さんが死んだ後、すぐに俺は狩られるはめになった。逃げるのも闘うのにも嫌気がさして、爺さんに言われたとおり人間界へ来たのが三年前だ。だが人間界では鬼人の存在が安定しなくて、霊力をやたら消耗した。仕方なく小妖怪どもを吸収して補給しなきゃならなかった。」

 黒鬼は嫌そうに眉を顰めた。

 たぶん食べるものがなくて、虫とかを食べなきゃならない状況に近い感じだったのだろうな、と咲乃は同情する。

「おまえと契りを結んだおかげで、俺は存在が安定して霊力を消耗しなくなった。それどころかいっそう強くなった。‥わかるか、咲乃? おまえと俺はお互いに必要な存在なんだよ。だから俺は‥‥相手が誰であろうとおまえを護る。」

 お互いに帰る場所がないのだ、と咲乃は理解した。

 抱かれている背中から忍びこんでくる霊力が全身にしみわたって、雷に打たれたような感覚が走る。体じゅうの隅々、血管の一本一本までが沸きたってくる凄まじい力。咲乃は痺れて動けなくなって、すっぽりと腕に包まれたまま気が遠くなる。

 人は体という器があるから面倒だ、と彼は言うけれど。

 魂だけになって触れ合ったら、咲乃の無防備な魂はあっという間に融けて彼の一部になってしまうに違いない―――息をするのもやっとな状態で咲乃は思う。

「ねえ‥。名前を呼んでもいい‥?」

「名前‥? 誰の?」

「あなたの‥。黒鬼というのは名前ではないのでしょう‥?」

「そうかもしれないが‥。他に特に名はない。黒鬼は俺一人だから。」

 黒鬼は咲乃の頬を撫でて、そっと唇を寄せた。

「おまえの好きに呼べばいい‥。どうせ他の誰も呼ばない名だ。」

 そう言うと、彼は微かに頬笑んだ。


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