第七章
「どうもありがとうございました。」
礼を言って立ち去る母娘を見送って、茉莉花は溜息をついた。
お気に入りのぬいぐるみに憑いた物の怪を祓って、一万円の謝礼を受け取ったところだ。
憑いていたのは物の怪にまだなりきっていない、影のようなものだったから、鈴を鳴らしたらあっという間に霧散した。
簡単な仕事だったので謝礼は多すぎるくらいだが―――今月はこれしか実入りがない。開店して三ヶ月、経済状況は逼迫している。溜息もこぼれるというものだ。
「物の怪からの依頼は多いんだけど‥。人からでないとお金は稼げないのよね。」
黒達磨が言った。
「二階が空いているじゃございやせんか。間借り人をおいたらどうです?」
「今どき、部屋だけの下宿なんてね‥。借りたい人がいるかしら?」
「だめでやんすかね?」
「まあ‥。無理ね。レトロ趣味で昭和初期の建物に住みたい、とかいうんじゃないと。」
気休めに店におかれた箪笥やら長持やらを磨いてみる。いや小物の方が売れやすいかも、と火鉢とかランプとかを手に取り、すわりこんで熱心に磨き始めた。
「何してるの‥?」
顔を上げると堂上玲が夕焼けを背にして立っていた。
「姫さまぁ‥!」
彼の肩から桜が飛びついてくる。
「桜が君に会いたがってね。‥あ、達磨さん、お久しぶり。」
「おや、桜に旦那。いらっしゃいやし。ほんにお久しゅうございやすね。」
リズが成仏してから二週間余り経つ。桜は本体と一緒に玲の部屋に引っ越していた。
茉莉花は桜に向かっては仄かな微笑を返したものの、怪訝な顔で玲を見上げた。
「何か‥ご用でも?」
「相変わらずだね。慇懃無礼な姫さまだ。」
苦笑しながら彼は框に腰を下ろした。
「桜の里帰りだよ。ほら、ケーキ買ってきたんだ。お茶くらいふるまってくれるだろ?」
「姫さま、ふわふわのクリームいっぱいで、とっても美味しいのですよ! 姫さまの卵焼きと同じくらい、美味しいのです!」
桜が満面の笑みを浮かべ、説明した。
精霊はもちろん食事を必要とはしないのだが、桜は気に入った食べ物は時々口にする。食べたものはいったいどこへ消えていくのか、あらためて考えれば不思議だ。
昔の主人はたまに桜餅を食べさせてくれたらしい。『懐古堂』にいる時は茉莉花の作るだし巻き卵が好物だった。
茉莉花はお茶の支度をするために腰を上げ、台所へ向かった。
ケーキならばと紅茶を用意する。お盆に温めたカップとティーポットを載せて茶の間に行くと、桜がお皿にケーキを取り分けて待っていた。
「へえ‥。紅茶が出るとは意外だな。しかもティーバッグじゃないんだ‥いい香り。」
「安物の葉だけど。‥桜は蜂蜜入りね。おじさんはストレート。堂上さんは? ミルク、入れますか?」
「俺もストレートで。‥‥ね、今、初めて名前を呼んだね。」
湯気の立つカップを受け取って、玲はにこっと微笑んだ。
「は?」
「俺の名前だよ。」
「えっと‥。今日は堂上さんでいいのよね?」
「ま‥いいや。どうも君には調子が狂うよ。」
再び苦笑して、彼は手をひらひらさせた。
「それよりさ。あれから鳥島さん、ここへ来た?」
「いいえ。なぜ?」
茉莉花はクリームを頬張りながら、少し頬が熱くなった。
「うん。昨日刑事が‥ルームメイトのとこへ来たんだ。鳥島さん、行方がわからないらしいよ。それでね、直前に調べてたのが俺たちのことだからって結構、しつこく聞かれた。だからつい、リズの失踪を調べてたみたいだと言っちゃったんだ。‥まずいかな?」
「まずくはないと思うけれど‥。鳥島さんは無事なのかしら?」
胸が何となくざわざわする。知らず知らず眉間に皺を寄せていた。
「‥‥彼が心配?」
「そうね‥。あの人はリズさんを殺した犯人に心あたりがありそうだったから‥。」
「‥‥佐山徹が面識のない男にナイフで追いかけられたのとどっちが心配?」
茉莉花は目を瞠った。
「そんなことがあったの? でも佐山さんは当分オフにするんじゃ‥?」
「一箇所だけキャンセルできない先があったんだよ。まあ‥幸い、て言うかその男は常連客のご主人だったんだけどね。奥さんが佐山に熱中したあげく、家も何も全部抵当に入れて借金してたとかって‥。逆恨みってヤツ?」
「ひどい話。‥‥あなたのことよ。」
「だって知らないもん。客の整理は店側の責任だしね。奥さんや財産の管理はその男の責任だろ? 俺が借金勧めたわけじゃないし。」
茉莉花は食べ終えた皿を手に立ち上がった。
「何にしても無事で良かったけど。日が暮れたらあまり出歩かないほうがいいわ。」
「‥皮肉?」
「真面目な話。その男の人のあなたへの恨みを増幅したモノが、暗闇を闊歩しているかもしれないでしょ。‥桜に常に傍にいてもらうことね。」
脅かすなよ、とつぶやいて、玲は自分のカップと皿を手に台所までついてきた。
手早く片付けをすませると茉莉花は窓の外を見遣った。
「だいぶ暮れてきたし、あなたは早く帰ったほうがいいわ。」
「え? 今来たばかりなのに‥。」
「ごめんなさい。宵のうちに来客があるの。‥ケーキ美味しかったわ、ごちそうさま。」
「‥嬢ちゃん。ちょっと遅かったようでやす。旦那はしばらく帰れやせん。嬢ちゃんはお支度を急ぎなせい。」
黒達磨が桜を肩に乗せて、お盆を手に立っていた。
「黄昏で境界が混じってしまいやした。旦那が外へおいでんなされば物の怪の闇へ迷いこんじまうやもしれやせん。」
「‥‥ずいぶん早いお越しだこと。」
黒達磨はくっくっ、と笑った。
「午前二時から五時までは営業時間外だと縞猫に断られたのを、根に持っているんでやんしょう。」
「仕方ない‥。堂上さん。いいですか、達磨のおじさんの言うとおりにして。それから決して声を出さないで。言葉は‥‥危険だから。」
茉莉花は玲をまっすぐ見据えて言いつけると、自分は廊下の奥の納戸へ消えた。
何が何だかわからない玲は、黒達磨に手を引かれるまま、さっきまでいた座敷の隣にある四畳半の部屋へ押しこめられた。
「ここは‥?」
「嬢ちゃんの寝所でやす。ここなら家の者以外の物の怪は入れません。今宵の客は夜鴉の若頭領で、東京の夜の闇を差配なすってるお方です。賢くて怖いお方ですから、くれぐれもじっとしていてくなせいやし。‥見るのはかまいやせんが、動いたり声を発したりはなさらねえよう願いやす。」
黒達磨は襖を小指一本分だけ開けて外へ出ると、金の鈴を持ち上げてリーンと鳴らした。
方形の空間が微かに震えた。
「やれやれ‥。ここに来るたび、新体験の連続だね‥。桜、夜鴉って妖怪なのか?」
「はい。桜が生まれた時代も、お江戸の夜の闇は夜鴉一族が取り締まっておられました。夜鴉の頭領が縄張りをきちんと区分けして管理してくださるおかげで、小さな妖したちもそれなりに生きる場所をいただけるのだとか‥。夜ならば、人の世界でもかなりの影響力をお持ちのはずですよ。」
「へえ‥。」
玲はそろそろと腰を下ろして、片膝を立て、襖に寄り添って頬杖をついた。
「ご主人さま‥。夜の気配が濃くなってまいりました。よろしいですか?」
うなずいて、そっと隙間の向こうを窺い見る。
いつの間に戻ってきたのか振袖姿の茉莉花が正座していた。思わず背中がぞくっとするほど美しい。あれで百パーセント人間なのか―――ほんとうは未だ半信半疑だ。
いきなり部屋中に暗闇が満ちた。
息をのんで見ていると、茉莉花は落ち着き払って蝋燭を一本だけ灯し、卓袱台の上にまっすぐに立てた。
どこから現れたのか縞猫が灯りの隣にぴょん、と跳びのる。
「案内してきたよ。夜鴉の若さまが直々のお越しだ。それとお伴が一羽、鼠が一匹。」
暗闇の中からすうっと現れたのは紋付きの黒羽織を着こんだ三十くらいの若い男と、お伴らしい二十前後の青年だ。こちらは片手に提灯、片手に鳥籠をぶら下げていた。
茉莉花は畏まって頭を下げ、床の間の前の上座へ客を案内する。
「夜鴉一族の頭領でございますか?」
「確かに頭をやっちゃいるが‥若頭領とか若さまとか呼ばれる方が好みなんだがね。」
苦笑いを浮かべて、若頭領は示された座布団の上にふわりと腰を下ろした。
「失礼しました、若頭領。‥『懐古堂』二代目四宮茉莉花と申します。先代同様、よろしくお引き立てのほどお願い申し上げます。」
茉莉花はまったく動じたふうもなく、淡々と挨拶をした。
「話には聞いていたが‥若いねえ? いくつなんだい?」
「‥‥ご用に年齢が関係ございますか? まずはご用の向きを伺わせていただきます。」
若頭領は細面の端麗な顔に、凄みのある妖艶な微笑を浮かべた。
「ふふ‥。祖父さん譲りで慎重だな。ま、用があって来たんだ、話に入るとしようか。切羽。その鼠を引き出しな。」
お伴の少年は鳥籠を若頭領と茉莉花の間に差しいれる格好で置いた。
籠の中では鼠にしては大きい、黒い獣がぶるぶる震えていた。
「おい、墨染鼠。おまえの話をもう一回、ここでしてみな。おまえも物の怪の端くれなら、『懐古堂』の噂ぐらい聞いたことがあろうよ。ここでは嘘は禁じ手だ。何が起こるか誰にもわからぬ‥。さあ、話してみなよ。」
鼠は震えたまま籠をガリガリ囓っている。滑って転んだひょうしに、足裏の赤い焼き印がちらりと覗いた。
「お待ちください‥。これは‥使役印ではありませんか?」
茉莉花は冷ややかな視線を若頭領に向けた。
「ほう‥。『懐古堂』は四宮本家と縁を切ったと聞いてるが、よく知っているな。」
「はい。曽祖父の代に縁切りをしておりますので、わたしで四代。完全な絶縁状態です。ですが使役印が何を意味するかくらいの知識はあります。‥若頭領、もしや試すおつもりですか? でしたらば早々にお立ち去りくださいまし。かように弱い獣を嬲り殺すお手伝いは『懐古堂』では引き受けかねます。」
玲は茉莉花が本気で怒っているようなので驚いた。使役印とは何なのだろう?
若頭領は憮然と腕組みをし、鼠を見下ろしていたが、しばらくして大きく息を吐いた。
「わかった‥。試そうとしたのは謝る。機嫌を直して、あらためて話を聞いてくれ。」
「‥‥一度だけです。二度はありません。」
傍らで忍び笑いをこらえている切羽の頭をぱしっ、と叩いて、若頭領は話し出した。
「実は昨夜、こいつの先導で人間の娘が俺に会いに来た。ところが顔を見るなり、間違いだったと言いやがる。まあ‥そのへんのくだりは腹が立つから省略するが、問題なのはその娘が四宮本家の姫だったことだ。‥あんた、俺たちが姫と呼ぶのはどういう意味か、知ってるかい?」
「いいえ。四宮の本家の女性のことですか?」
「本家の女でも並みの霊力なら姫とは呼ばない。その娘はあんた並みの、人と言うよりこっち側みたいな力を持っていたがね、何の制御もされてねェのさ。自分じゃ何もわかってなくて、どうしたらいいか知らないンだな。そうだろ、墨染鼠‥?」
震えながら鼠は茉莉花寄りに籠に貼りつき、うなずいてさめざめと涙を流した。
「咲乃お嬢さまは‥亡き紫お嬢さまのたった一人の御子で‥。誰よりも強い霊力をお持ちなのですがご家族には認められておらず、姫ならば当然身につけるはずの修法を教えられておりません。二十才までは本家の結界の中でお過ごしでしたので‥家の外でも護持の力が働いておりました。ですがこの三月に二十才になられたので、本家より出されておしまいになったのです‥。」
茉莉花の切れ長の瞳が、信じられないと言うように大きく見開かれた。
「力の制御を学ばずに結界の外へ‥?」
鼠はすすり泣きながら、はい、と答えた。
「わたしめは紫お嬢さまに使役されておりました。ご遺言で咲乃さまをお守りするよう、言いつかったのです。それで、夜鴉の若さまのもとで庇護していただこうと‥。」
「‥‥使役印は刻んだ術者が亡くなったならば消えるはず。あなたは今は誰の命令でここにいるのですか?」
墨染鼠はひげをしならせてがたがたと震えながら、必死で答えた。
「わわわ若さまもそう仰って‥。わたしめがスパイだなどと‥。ですが、わたしめは‥確かに紫お嬢さまのご遺志のもとに、咲乃さまをお守りしているのです‥。」
茉莉花は懐から金の鈴を取り出して、四宮紫、と小さく唱え、リーンと低く鳴らした。
鼠の足裏で赤い印が光った。ひえっ、と叫んで墨染鼠は気絶した。
「どうやら嘘ではないようです。」
「‥‥なぜわかる、『懐古堂』?」
「四宮紫の名に使役印は反応しました。つまり、その名を持つモノがどこかで今も存在しているということ。意志を持っているかどうかはわかりませんが‥。」
「‥‥つまり紫とかって姫は、物の怪にでも喰われたわけかい?」
それには答えず、茉莉花は若頭領を振り向いた。
「‥‥その咲乃さんという女性は今、どこに?」
若頭領はふん、と鼻を鳴らした。
「美味そうな匂いを撒き散らしているがね、心配いらないよ。恐らく現在のところ、東京で最強の庇護者が傍についてる。」
「最強‥? 人間界にいるのですよね?」
「そうさ。あんたは知らないだろうな。黒鬼だよ。はぐれ者の鬼人だ。鬼人のくせに全身が真っ黒なのさ。」
「鬼人が人間界にいるのですか‥。そんな話、聞いたことがないけど。」
じれったそうに若頭領は手を振った。
「そりゃどうでもいいんだよ。とにかく娘の身は心配ない。問題なのは‥四宮がわざと咲乃という姫を放出したらしいってェことさ。ついこの間まで東京じゅうの物の怪どもがざわついて、姫を誰が喰らうかで大騒ぎだった。それだけでも俺たち夜鴉一族への挑発に近いがね、こいつがわざと俺のところへ姫を誘導してきたのが気に入らねェ。‥‥まるで餌だよ。四宮はいったい、何を企んでやがる?」
「‥それでわたしに何をさせたいのですか?」
「こいつを預けるから、人の世で何が起きているのかできるだけ探ってほしい。咲乃姫の居場所もこいつが知ってる。‥今まで五百年この地では、妖しは夜鴉一族、人間は四宮で均衡が保たれてきた。俺の代で一族を潰すわけにはいかねえンだよ。四宮が人の分を超えるってんなら、全面戦争も辞さないつもりだ。‥だがね、その前に交渉屋『懐古堂』の顔を立てようってのさ。俺たちは筋はちゃんと通す。」
「‥‥筋は通す。そのお言葉、確かに承りました。」
若頭領は不意に破顔した。
「脅したつもりだったがね‥。一本取られたな。まあ、いいよ。‥茉莉花といったかい? どうだい、俺の嫁にならないか?」
「‥‥人の分を超えるつもりはありませんので。」
くっくっ、と可笑しそうに笑いながら、いいねェ、と若さまは返した。
「人の寿命なんて短いもんだよ。人を超える気になるまで待ってやってもいいぜ?」
「それより。今回のご依頼の対価を決めたいのですが‥。」
「ああ‥。そうだったな。前金で百万。報告はこっちから聞きに来る。毎回、百万払おうか? 金なら余ってる。」
「前金だけいただきます。危険そうなので。その後の状況次第で追加金を請求するかもしれませんが、基本的にはそれで十分です。」
「欲がないねえ?」
「いえ。貰いすぎるほうが困りますから。」
含み笑いと気絶した墨染鼠を遺して、羽音とともに夜鴉たちはすうっと消えた。
暗闇は普通の夜に戻り、部屋の電灯がぼうっとともった。
茉莉花は蝋燭を吹き消して、ふうっと息をついた。
「ご苦労さまでございやす。お茶をお持ちしました。‥‥旦那、もうよござんすよ。」
黒達磨の声で我に返った玲は、襖を開けてそろそろと這い出た。
「凄いね‥。映画みたいだったなあ。‥若さまだっけ? あの人、昔の舞台俳優みたいに派手な顔してたね。妖怪ってあんな美形が多いの?」
熱いお茶をすすりながら訊ねると、黙ったままの茉莉花に代わって桜が答えてくれた。
「妖力が甚大なのでお美しいのですよ。弱いものは総じて貧相です。‥‥ちなみに桜はご主人さまのほうが麗しいと思います。」
「妖力がないのに‥?」
くすくす笑うと桜はぷくりとふくれた。
「人としてお美しいと申し上げているのです‥!」
ありがと、と桜をきゅっと抱きしめる。
「じゃ、桜が可愛いのも精霊として力が強いから?」
桜は嬉しそうに玲の手に頬ずりして、はい、と答えた。
「桜の役目はご主人さまをお守りすることで‥。ご主人さまが桜を可愛がってくださればくださるほど、精霊としての力は強くなるのです。桜はもっともっと強くなって、ご主人さまをしっかり守りたいと思っています。」
「頼りにしてるよ、桜。」
二人のそんなやりとりを相好を崩して聞いていた黒達磨が、不意に鳥籠を指さした。
「嬢ちゃん‥。どうやら目を覚ましたようでやんす。」
墨染鼠はきょときょととあたりを見回していた。
「若頭領は帰ったわ。あなたは『懐古堂』預かりになったの。」
茉莉花が穏やかな口調で言えば、墨染鼠は見てそうとわかるほどはっきりした安堵の色を浮かべた。
「あなたの知っていることを残らず話して。大丈夫、使役印は消したから、主人に都合の悪いことを喋っても火で焼かれる心配はないわ。」
鼠は跳びあがって、尻餅をつき、震えながら足の裏を確認した。確かに赤い焼き印はきれいに消えていた。
「いつのまに消したの‥?」
「さっきの鈴よ。若頭領に気づかれないようとぼけているのは大変だったけど‥。気づかれていたかもしれないわね。」
玲はふうん、とつぶやいて、じっと籠の中の鼠もどきを見た。
「こいつにもお茶を飲ませてやれば? 喉がからからなんじゃないかな?」
墨染鼠は大きく何度もうなずいて、玲に感謝の言葉を述べた。
黒達磨が小さなお猪口にお茶を注いでやると、一気に飲みほす。
「さてと‥。正直に質問に答えなさい。四宮紫さんがあなたに下した、いちばん最後の命令は何?」
茉莉花の手の中の鈴をこわごわ見つめながら、墨染鼠はひいひいとすすり泣くような声を出した。
「‥‥咲乃お嬢さまを守れ、という命令です。」
「それはいつ、出されたもの? 咲乃さんが何才の時かしら?」
「二十才になられたその日です。本家をいよいよ出されると決まって‥‥」
鼠はもぞもぞしながら答えた。
「そう。では咲乃さんを夜鴉の若頭領のもとへ行かせたのは誰の意志?」
「そそそれは‥‥。お嬢さまが黒鬼なんぞに誑かされておいでなので‥黒鬼を除く力をお持ちなのは夜鴉の若さましかいない、と‥。わわわたしめが‥愚考いたしました‥。」
「若頭領は黒鬼がついているから咲乃さんは安全だと言っていた。あなたはなぜ、黒鬼を排除することを考えたの? 紫さんが黒鬼ではだめだと言ったのかしら?」
墨染鼠は髭まで濡らして涙をぽろぽろこぼし始めた。
「紫お嬢さまは亡くなりました。ほんとうです‥。鬼人は怖ろしい存在ですから‥。咲乃お嬢さまを真に守ってくださるのは‥夜鴉の若さまだけなのです‥。咲乃さまは何もご存じない‥何も知らされずに育てられて‥‥わたしでは守りきれない‥。」
茉莉花が鈴を低く柔らかい音で鳴らした。
混乱し始めていた墨染鼠は、小さな両手で涙を拭った。
「墨染鼠さん。最後の質問です。あなたが墨染鼠として生まれたのはいつ? 咲乃さんが何才の時?」
「わたしめが生まれたのは‥‥」
「墨染鼠が生まれた時よ。間違えないで。」
「墨染鼠は‥‥去年‥? いえ‥咲乃お嬢さまが生まれた直後です。そう、思い出しました‥前の体を失ってすぐのことです‥。」
それだけ答えると墨染鼠は再び気を失った。
「君って凄いね‥。さっき夜鴉の若さまが言ってた交渉屋ってさ、もしかして人じゃないモノと人の間で交渉する役ってこと?」
感心しきって玲がそう訊ねると、籠から出した墨染鼠を座布団で寝かしつけていた茉莉花は振り返り、不思議そうに彼を見た。
「‥‥堂上さん。まだいたの?」
「あのさぁ‥。その鼠くんにお茶をあげたらって提案したのは俺なんだけど。‥いったいどのへんから俺の存在を忘れてたわけ?」
茉莉花は赤面して口ごもった。どうやら―――初めかららしい。
呆れ返ったものの、何だか怒る気にもならなくてつい可笑しくなった。
それだけ夜鴉との交渉事に緊張していたのだろう、と思えば彼女もやはり人間なのだと実感できる。
「‥‥交渉屋の意味はね。『懐古堂』では物の怪と人の間に起きるトラブルをなるべく言葉による交渉で平和裡に収めようとしているからなの。一方的に封じるのではなくて、人同士のように話し合いで解決できれば、お互いにスムーズに共存できるだろうと‥。祖父の考えだけれど。」
静かな声で茉莉花は説明した。
いつもならば知らなくていいと言わんばかりに、質問をはぐらかすところなのに、珍しく解説してくれる気分らしい。
「人と人でないモノたちは本来微妙に棲む次元が異なるの。でも隣り合った場所で生きているから、様々な理由で混じり合ってしまうことがある。はみ出てしまった存在はそれぞれ、はみ出た先の理屈で処理されるわ。つまり人の領界でない部分へ迷いこんだ人は、夜鴉一族の差配している世界で喰われようが消されようが文句は言えない。逆に人の世界へ迷いこんだ物の怪は、四宮本家が元締めをしている霊能力者たちによって封じられたり滅せられたりしても仕方がないの。」
「ああ‥。さっき若さまが言ってた、五百年の均衡ってヤツだよね。」
ええ、とうなずいて茉莉花は簪を抜き、結っていた髪を下ろした。そしてお茶をすする。
「四宮の分家の出だった祖父は、男なのに珍しく見える体質を持っていてね。あ、四宮の霊感体質は普通女にしか出ないものなのよ。それで‥男だからと本家に無視されたのを逆手に取って、勝手に交渉屋を始めたの。迷子ならまずは本来の場所へ戻してやるのが筋だろうと‥。滅するとか喰うとかは最後の手段にするべきだ、と双方に説いたわけ。幸い、夜鴉一族は手伝いはしないけれど静観して待つとの姿勢で受け入れてくれた。けれど四宮の本家とは大喧嘩になって‥。曽祖父は江戸っ子で気が短かったから、分家なのにこちらから絶縁状を叩きつけたそうよ。これが『懐古堂』の発端なの。」
「ふうん‥。君のお祖父さんて、大きい人だったんだ。」
「なぜ? 祖父は小柄だったけど。」
玲は思わずお茶を吹きそうになってこらえた。
「外見じゃなくて、心って言うか、内面のことだよ。人物が大きいってこと。だってさ、自分以外の人やモノのために危険な橋を渡るんだろ? それも友人でも知人でもないのに。俺には絶対、できないなあ。」
怪訝そうに眉をひそめて、茉莉花は玲を見返した。
「そうかしら‥? あなただってリズさんを助けるのに協力してくれたじゃない? 何も得することなんかないのに‥。佐山さんの件ではむしろ、損しているでしょう?」
「まあ、あの時は暇だったし‥。面白そうかなって‥。それくらいの軽い気分だよ。ちゃんとした信念とか責任感とかあったわけじゃない。」
茉莉花は桜の差しだしたお茶のお代わりを微笑んで受け取り、言葉を続けた。
「鳥島さんにも言ったけど、目に見えたからといってそのまま受け入れる人はすごく少ない。気のせいだとかトリックだとかって理由をつけて、なかったことにするものだわ。だけどあなたは桜のことをすんなり受け入れたでしょ? 目の前に見えているのだから自分の常識では信じないという選択肢はない、そう言ったじゃない?」
「言ったよ。だから不思議だけど、別に物の怪だって存在は否定しない。」
まったく桜には微笑むくせに―――玲は何だか無性に腹立たしくなった。
「俺に言わせれば、人も妖怪も大して変わりはないよ。他人は他人、関わりのない存在で見えてる以上のものじゃない。自分だってそうだろ? 俺がちょっと外見に手を加えただけで、別の存在を生み出せるんだ。どっちも俺だけどどっちも俺のすべてじゃない。アイデンティティてのはその場限りのものだし、不変な本質なんて生きるのに必要ないんだ。求めること自体、意味がない。‥妖怪が人になりすまして生きようが、人が妖怪になり果てようが放っておけばいいと思うけど? 人間同士だって年中トラブルや事件は起きてるけど、義理もないのに関わらないだろう?」
なんでこんな話をしているのだろう? 今夜は喋りすぎだ。やはりさっき目にした光景のせいで、冷静さを失っているのかも。
不意に立ち上がって、玲は愛想良く微笑んだ。
「‥‥今夜はまだ仕事があるの? なければ外に食事に出ないか。」
戸惑っている茉莉花の背中を押して、黒達磨がにんまりと笑った。
「行ってらっしゃいやし。嬢ちゃんもたまには、人並みの暮らしに戻ったほうがいいでやんすよ。」
「達磨さんもどう? 個室なら平気だよ。」
「おや‥。旦那にはやはりわしが人でないとばれてやしたかね。お心遣いだけいただきやす。わしは店を離れられないもんで‥。鼠の面倒はわしが見とりますんで、嬢ちゃん、行っておいでなせい。」
そうね、とうなずいて、茉莉花は桜の手を取った。