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懐古堂奇譚  作者: りり
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第六章

 皓々と明るいビルの群れの間を、咲乃は足早に歩いていた。

 時刻は既に真夜中の一時を過ぎていた。なのに新月の闇は表通りには届かない。

「こっちですよ、お嬢さま。」

 小さな声が聞こえた。

 細い路地の暗がりにひっそりと佇む小さな姿が見える。猫にしては小さいけれど鼠にしてはやけに大きい、墨色の獣。

「‥‥ほんとうなの? 彼に逢わせてくれるのね?」

「お探しのお方は、夜の色をなさっていて、とても強くて美しいお方でしたよね? そんなお方はこの東京にはたった一人ですから。東京の夜を統べておられる若さまです。‥若さまはこちらでお待ちですよ。さ、早く。」

「ええ‥。」

 咲乃は暗がりに足を踏み入れた。

 途端に真っ暗な穴へ果てしなく吸いこまれていく感じがした。もう戻れない。この先は闇しかない場所。直感的にそう理解したけれど、咲乃は必死だった。彼に逢いたい。逢って―――傷つけたことを謝りたい。それしか心に浮かばなかった。

 あの夜からもう半月が過ぎた。だが黒鬼(こつき)は二度と姿を見せなかった。

 彼の気配が残っているのか、部屋の中にいさえすれば夜でも襲われることはなく、昼間も同様に遠巻きにしたまま物の怪どもは近寄ってこない。

 感謝の念が胸に湧きあがるにつれても、怒らせてしまったのが悲しい。そんなつもりではなかっただけに、後悔ばかりがふくらんでいく。

 思い切って夜の街に出て、探してみることにしたのは三日前だ。敵意のなさそうな小さな物の怪を選んで、恐る恐る声をかけ、彼のことを知らないかと訊ねてみた。そして昨夜、この墨染鼠に出会った。

 墨染鼠は約束を取りつけてあげるから今夜この路地へ来るようにと告げた。約束がなければ会えない、高貴なお方なのだと。間違いない、と咲乃は胸を弾ませてここまで来た。

 しかし―――

 案内された場所は闇が支配する場所だった。

 彼の気配は微塵も感じられない。ただ猛々しい、無数の気配が群れているのを感じた。

「お嬢さま、こちらです。前へどうぞ。」

 こわごわと歩きながらあたりを窺うと、無遠慮に注がれる無数の視線とざわめきが咲乃をびっしり取りまいてくる。

「若さま。お嬢さまをお連れしました。」

 墨染鼠の誇らしげな声ではっと前を向くと、一段高い場所にきらびやかな衣装を身につけた男の姿が見えた。

「俺に会いたがっている人間の娘というのは‥おまえか?」

 夜のように黒い髪と瞳。流麗な貌にしなやかな長身。優美な姿。全身からにじみ出る強い妖力。確かに条件どおりだけれど―――彼ではない。

 咲乃は絶望的な気分になった。

「どうした‥? いつもなら人間など入れないのを、特別に通してやったんだぜ? 何か俺に用があるんじゃなかったのかい、お嬢さん。」

 よく見れば男は背中につやつやとした黒い翼を持っていた。

「あの‥。ごめんなさい‥。間違いでした。あたしが探しているのは‥あなたじゃないんです。」

 男の瞳が冷たく光った。ふわり、と羽を広げ、一瞬で咲乃の傍に降りたつと、顎を鋭い爪で掴んだ。

 ひっ、と恐怖の叫びが喉から洩れる。体が無意識に震え始める。

「間違いですむと思うかえ? ここは俺たち夜鴉(よがらす)一族の屋敷裡なんだよ。人間ふぜいが用もないのに入ってきたとなれば‥‥餌にされても文句は言えねェのさ。‥‥墨染鼠、おまえもだ。」

 墨染鼠はひえっと叫んでぶるぶる震えだした。

「お許しください、若さま。わたしめはただ、この娘が夜のように黒い、強くて美しいお方を探していると申しましたので、てっきり‥‥。」

「ふん。ますます腹が立つ。俺より強くて美形なヤツがこの東京にいるっていうのかい? 冗談じゃない。」

 夜鴉の若頭領は口をとがらせて、再び咲乃を見据えた。

「ん‥? おまえ‥この匂いは‥四宮の姫じゃないか、何とまあ‥。」

 咲乃から手を放すと、彼は呆れ顔で腕を組み、じっと見下ろした。

「‥‥四宮が姫を一人放出したと噂には聞いちゃいたが‥。まさか、ほんとうだったとはね‥。ふうん。」

 頭の先からつま先まで、じろじろと眺められて咲乃は思わず赤面した。

 すると若頭領は端麗な貌に(あで)やかな微笑を浮かべた。

「おまえ‥‥。命が助かりたいなら、俺の嫁にならないか?」

「よ‥嫁って‥?」

「おまえを嫁にすれば、俺は今よりもっと強くなれる。人間の嫁は寿命が短いからつまらないんだが‥。四宮の姫ならば、寿命を終えた後に一族に加えるって手もあるな。どうだ、うんと可愛がってやるぜ?」

 咲乃はおずおずと訊いてみた。

「それって‥人間どうしの結婚と‥同じなんですか‥?」

「似たようなものだ。違うのは一度契りを結べば、命を終えるまで運命をともにしなければならない。人間どうしはくっついたり離れたり、結構いい加減だろう?」

「あたしの‥霊力を吸い取るんじゃないんですか?」

「違う。それなら嫁にするなどと言わない、力ずくで吸い取ればいいだけだ。夫婦の誓約を成せば、おまえの霊力が俺の存在を吸い取るより何倍も強く大きくするのさ。四宮の姫ならば効果は絶大だ。」

 ―――そういうことなのか。

 咲乃は自分の無知につくづく嫌気がさした。

 若頭領は最初に感じたよりも優しい瞳で、咲乃を見ている。咲乃は勇気を奮って、再び深々と頭を下げた。

「ご‥ごめんなさい。あたし‥。先に約束した人がいるから‥。あなたの申し出は受けられません‥。」

「約束がある? 相手は人間か?」

 いいえ、と首を振ると、若頭領はうってかわって冷ややかな表情を浮かべた。

「ふん。探してるってのはそいつかい?」

「はい‥。すごく怒らせちゃったから、もうあたしのことなんて知らないって思ってるかもしれないんですけど‥。あたしは‥。」

「‥惚れてるわけだ?」

 苦々しげに言い捨てると、若頭領は咲乃の柔らかな喉に大きな手をかけた。

「いまいましい‥! 俺以外の男に惚れてる女なんて見たくもねェンだが‥。このまま喉をかっ切ってもいいんだぜ? さあ、どうする?」

 咲乃は目を瞑った。

「‥‥仕方ありません。勝手に間違えて、来ちゃいけないところに来たんですから‥。」

「おいおい‥。死んでもいいのか? ここで死んだらそいつには逢えないぞ?」

「だって‥。どうせ、もう逢えないもの‥。あたしがバカだから‥。」

 涙がこぼれた。

 首をつかんだ手が溜息まじりにつと離れた瞬間、圧倒的な力が降りたって咲乃の前に立ちはだかった。

 周囲のざわめきに悲鳴が混じる。

 咲乃はびくびくしながら目を開けた。体の震えが止まらない。髪が逆立つようなこの感覚、怖くて怖くて―――焦がれるほど恋しい感覚。

 目の前に(つや)めいた夜の化身のような姿が凛然と立っていた。

「‥‥夜に出歩くなと言ったはずだ。自分から喰われに妖しどもの棲み家に来るとは‥。つくづく愚かな女だな。」

 何も考えられずにただその背中にしがみついて、咲乃は泣きじゃくった。

「だって‥あなたを探してたの‥謝りたいのに来てくれないんだもの‥。もう逢えないのなら‥生きてても仕方ないと思って‥だから‥」

 黒鬼はややたじろいだ顔で咲乃を振り向き、バカ、と叱った。

 素早く後方に飛び退いていた夜鴉の若頭領は、腕組みをして翼をはためかせながら、ふふんと笑った。

「なるほど‥。夜のように黒い、とは‥黒鬼だったか。はぐれ者の鬼人どの、嫁取りにはまだ早いんじゃないのかい? 確かまだ、生まれて二十年足らずだろうに。」

 黒鬼は金色の瞳をきらめかせて、言い返した。

「若造りのジジイ鴉なんぞに言われたくねえよ。あんた、百はとうに過ぎてるんだろう? 人間の娘を嫁にするなんて考える前に、生まれ直すんだな。」

 若頭領は眦をぐっと上げた。

「‥‥半人前のヒヨッコが言ってくれるねェ。」

「とにかく、こいつは俺の女だ。貰って帰る。文句はないよな?」

 いつのまにか咲乃はひょいと小脇に抱えられていた。

「ちょいと待ちなよ。その娘は自分からここへ来たんだぜ? 間違いだったから帰る、じゃア筋が通らないだろうよ。」

「‥俺の知ったことか。大人しく通せば、あんたらの結界は壊さずにおいといてやるよ。つべこべ言うなら、全部ぶち壊して出ていくが? どうする、頭領?」

 周りじゅうが殺気立ってきた。

 自分のせいだ、と咲乃は抱えられたままで身を竦める。どうしたらいいのだろう?

 若頭領は腕組みして苦い顔をしていたが、終いに、行けよ、と吐き捨てた。

「今回だけは大目に見てやる。さっさと行っちまいな。」

 黒鬼は傲然と笑い、咲乃を抱えて跳びあがった。

 瞬き一つしただけなのに気がつけば見知らぬビルの屋上にいて、ぽんと放りだされた咲乃は勢いよく尻餅をついた。黒鬼はぷいと背を向ける。

 またこのまま消えてしまうのでは、と不安でたまらなくなった咲乃は、離れようとする腕をつかんで必死でしがみついた。

「いったい、何をしている?」

「‥‥行かないで。置いてかないで、お願い‥。」

「人の姿に戻ろうとしただけだ、手を放せ。この姿では怖いんだろう?」

「怖くない‥。とても‥綺麗だもの。まるで月夜のように(あで)やかで‥。」

 咲乃はしがみついたまま必死で言い募った。涙がぽろぽろこぼれてくる。

「怖くないから‥約束どおり、お嫁さんにしてください‥。お願い‥。一緒にいたいの。」

 今では自分の気持ちがはっきりわかっていた。

 夜鴉の若さまが言ったように、咲乃は彼に―――惚れているのだ。お腹の中が全部ひっくり返ってしまったような、痛いような疼くような血が沸きたつ感覚。

「あたし‥これといって取り柄はないけど‥。や、役に立てるなら何でもするから‥‥」

 不意に抱き上げられた。

「うるさい。何でもすると言うなら、まず泣くのをやめろ。ちゃんと傍にいてやるから‥。だいたい今までだって、気配を消していただけで近くにいたんだ。」

「え‥?」

「‥護ってやると約束したからな。でなきゃどうして今夜、あの場にいたと思う?」

「あ‥。」

 黒鬼は金色の瞳を冷ややかにきらめかせて、じっと咲乃を見た。

「俺の嫁になると言ったが‥今度は確かなんだろうな?」

 勢いよくうなずいて、すぐに恥ずかしくて真っ赤になる。頬がじんじん熱い。同じくらい胸も痛い。

 ふわりと体が舞い上がった。

「もう勝手に出歩くなよ。いつも話のわかる相手とは限らないんだ、むしろわからないヤツの方がずっと多い。今夜は運がよかっただけなんだぞ。」

 返事を待たずに黒鬼は、新月の闇を渡っていく。

 咲乃は身震いするほどの陶酔感に酔いしれながら、そっと横顔を眺めていた。


 夜鴉の若頭領は苦々しげに黒鬼のいた場所を見ていたが、どさくさにまぎれて逃げ出そうとしていた墨染鼠に気づき、つまみあげた。

「ひえっ‥! 若さま、お許しください‥。」

「まあ、そんなに怯えるなよ。おまえがわざと俺に恥をかかせたたァ、思っちゃいないさ。そうだろ?」

「は‥はい、もちろんです‥。」

 小妖怪は見るも哀れに震えている。

「おまえ、あの女をどこで見つけた?」

「‥‥ふらふら、歩いてたんです‥。黒い強い妖しを見たことないかって、そこらじゅうで聞き回ってました。う、嘘じゃありません‥。」

「ほうお。おまえみたいな輩が、ただの親切心で人間の女にくっついてたってのかい? 信じられねェ話だな、墨染鼠?」

「だだだだけど若さま。わたしめはてっきり若さまのことだと‥。あの娘を若さまに差しだせば、ご褒美にあずかれると思ったもんで‥‥。」

「褒美ねえ‥何の褒美だえ? 一族を率いてるんなら縄張り分けってェ話もあろうが、独りもんのおまえが俺に何を願う? せいぜい鴉に喰われない保証くらいだぜ。それよりあの女を誑かして自分で喰らえば、大化けできるじゃねェか。‥‥おまえ、黒鬼がついてるのを承知で俺んとこ回したンだろう?」

 墨染鼠の全身の毛が針のようにビーンと逆立った。

「図星かよ、ちぇっ。いったい誰の指金だい? 俺と黒鬼を争わせる魂胆か。」

 しんなりと髭まで下げて、墨染鼠はふるふると泣き始めた。

「申し訳ありません‥。わたしめは‥昔あのお嬢さまの母上に使役されていた者で‥。お嬢さまを若さまに庇護していただこうと、浅知恵を廻らせた次第です‥。」

「はあ‥? また言い逃れかい?」

 尻尾をつまんでぐるぐる振り回しながら、若頭領はからからと嘲笑した。

「ほ‥ほんと‥なんです‥。わあ、目が回るう‥もう‥だめだあぁぁ‥!」

 叫びながら墨染鼠は悶絶した。

 隅へ放り投げようとして、鼠の左足裏にくっきりと赤い焼き印があるのに気がつく。

「おや‥。四宮の使役印だ。ふうん‥。」

 目を回した鼠を床に放りだし、若頭領は安楽椅子に戻った。

「おい。誰か、縞猫に渡りをつけな。」

 ざわざわと声がする。若い鴉が進み出た。

「若‥。それでそいつは喰ってもいいんですかい?」

「よした方がいいぜ。四宮の印がついてる。腹ァこわすぐらいじゃすまないだろうよ。」

 ざわめきがいっそう大きくなった。

「さてと‥。鼠をぶら下げて『懐古堂』を訪ねるとするか。切羽(せつぱ)、ついてきな。」

「若が自身でお出ましで?」

「噂じゃ『懐古堂』の二代目は、若くてそりゃあ別嬪なんだそうだ。俺が行かなくて誰が行くんだよ?」

 若頭領はにっこりと微笑んだ。


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