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懐古堂奇譚  作者: りり
6/19

第五章

「だめ‥。何も思い出せない。」

 翌日、茉莉花に連れられて『メルサ』という会員制クラブを訪れた『しず』は絶望的な顔で茉莉花を振り向いた。

 玲の話では先月この店で、ホステスをしていた『しず』に会っているという。

「『しず』じゃなくてリズって名前だったけど。」

 言われたとおりに深々と頭を下げて頼んだ茉莉花に、玲はご機嫌な笑顔でそう答えた。

 『しず』は―――いやリズは、慇懃無礼でむかつくとまで誹謗されながらも茉莉花が頼んで手に入れてくれた情報だし、何とか少しだけでも思い出したいと一生懸命だったのだが、店に入った途端まるで霞がかかったように頭が真っ白になってしまったのだ。

 すると茉莉花はあっさりうなずいて、リズを促しさっさと店を出た。

「ごめんね‥。何だか、真っ白になっちゃって‥。」

「大丈夫? 顔色が悪いわ。」

 茉莉花は歩きながら、うなだれるリズの手をきゅっと握ってくれた。

 すると何となく気分が良くなってくる。幽霊なのに顔色が悪いもないものだと思わず苦笑いがこぼれてしまうが、茉莉花は真面目な顔でこちらを見ていた。

「たぶん、あのお店で間違いない。実はね‥危険な感じがしたから急いで出てきたの。」

「危険‥?」

 そう、とうなずいて茉莉花は眉間に皺を寄せた。

「あそこに十分もいたらきっと、あなたは術に吸いこまれて消えてしまったでしょうね。」

「じゅ‥術? なあに、それ?」

 リズはびっくりして立ち竦み、叫んだ。

 桜が茉莉花の懐からすうっと姿を現し、リズの腕に掴まった。

「今の場所はヘンでしたよ。(たま)封じによく似た術でしたけど‥人の匂いではなかったような気がしました。」

「桜もそう感じた‥? けれどこれではっきりした。リズさんは誰かに魂を封じられてしまったんだわ。だから記憶がないのよ。封じたのは物の怪の力を借りた人か、物の怪憑きの人か‥。力任せの業できちんと式に則ったやり方ではない‥。」

 ぶつぶつとつぶやく茉莉花を見ているうちに、ひどく不安になってきた。

 自分はいったい何にまきこまれたのだろう? やはり―――殺されたのだろうか。何だか無性に怖ろしくなる。

 突然茉莉花の携帯が鳴った。

 相手を確認して、茉莉花はやや躊躇ってから出た。

 どうやら玲かららしい。そう言えば『メルサ』で待ち合わせるはずだったのではなかっただろうか。

「‥‥ちょっと事情ができて‥。今日は家に戻ることにしたの。ごめんなさいね。あなたの協力には感謝してますけど、もうこれ以上は結構ですから‥‥」

「それはないだろ? 仲間はずれはあんまりじゃないか。」

 すぐ後ろで声がした。

 茉莉花は携帯の通話ボタンを切って溜息をつき、静かに振り向く。リズも一緒に振り向いて、目を丸くした。

「‥‥誰?」

「佐山徹。君を『メルサ』に紹介した男だよ。よろしく。」

 そこに立っていたのは跳ねあげたスタイルの派手な金髪、濃いブルーの瞳に左目の下のタトゥ、ダイヤのピアスといった格好の見知らぬ男だった。

「ご主人さまぁ‥!」

 茉莉花の懐から桜が顔を出して、佐山と名のった男にとびついた。そのまま首にかじりついている。

 茉莉花が再び、呆れ顔で溜息をついた。

「ああ‥。お仕事用の名前と衣装なわけね。」

  玲は苦笑気味に茉莉花を見返した。

「胡散臭っ、て顔に出てるなあ。君って無表情のわりに嫌悪感だけははっきり表すね。俺の仕事はね、派遣のホストなんだ。いろんな店と契約して短期間だけ勤めるわけ。先月は三日から一週間だけ『メルサ』に派遣されてた。ホストって仕事、知ってる? 世間知らずのお嬢さん。」

「ええと‥。ホステスさんの男性バージョン?」

「‥‥ま、いいや。で、俺はプライベートと仕事はくっきり分けることにしてる。」

「‥‥その姿の時は佐山さんて呼べということよね?」

「それだけじゃないよ。こんなふうに派遣先にプライベートな話を持ちこむのは俺にとっちゃ主義に外れた行為なんだよ。つまりさ‥」

「つまり?」

「君が桜の姫さまだから、ものすごく特例的好意を示してるわけ。そのへん、よっく理解してほしいね。あからさまにそんな嫌な顔されるのは不本意だ。」

 茉莉花はちょっと立ち止まって、雑誌から抜け出てきたみたいな華麗な顔を冴え冴えと眺めた。

「さっきも言ったけど、ほんとに感謝してる。でも遊びじゃないの。どうやら剣呑な展開になってきたし、桜のためにもあなたをまきこみたくない。」

 剣呑な展開―――?

 リズは胸がどきどきしてきた。

 玲は肩を竦め、いきなりリズの腕をつかんだ。そして茉莉花に背を向け、すたすたと歩き出す。

 リズは驚いて何するのよ、と叫び、手を振りほどこうとした。

「立ち話も何だから、すわって話せる場所へ行こうと思ってさ。‥‥君を捜してる人間が俺たちの他にもいるらしいよ。誰だか知りたいだろ?」

 ―――あたしを‥‥捜してる人間? それはもしかして‥‥。

 手をつかまれて引きずられたまま、リズは茉莉花を振り返った。

 茉莉花は三度目の溜息を吐くと、足早にリズに追いついて空いている方の手をつかんだ。

 玲は振り向きもせず、くすくす微笑った。


 細い路地を曲がって、玲が入った喫茶店にはリズの同僚のベティという女性が待っていた。だが彼女の顔をまじまじと見ても、リズはまったく思い出せない。

 ベティの話ではリズは三週間前に店を無断欠勤して、それからずっと連絡が取れないと言う。携帯も通じない、部屋にもいない―――へんだと思わないのかと問えば、この世界ではよくあるから、とベティは笑いとばした。

「だいたい本名だって知らないもん。店長が平気な顔してるんだから、きっとオーナーの仕事でも請けてんじゃん? 今頃豪華クルーザーに乗ってたりしてさ。‥そうそう、リズの彼氏ってオーナーの知り合いだって聞いたな。名前? 知らないよ。」

 煙草をふかしながらベティは面倒くさそうに答えた。

「三日前にもリズの行方を訊きに来た男がいたって、昨夜電話でそう言ってたよね? 名刺、持ってきてくれた?」

 玲に促されて、ベティはバッグを探り、一枚の名刺を取り出した。

「これよ。何か気がついたら連絡くれって‥。」

 手に取った玲はなぜか複雑な顔をした。

「なぜ‥この人が捜してるんだろ? 誰かの依頼かな。」

「知ってる人なの?」

 小声で茉莉花が訊くと、彼は曖昧にうなずいた。

「まあ‥。知ってるような、知らないような‥。お互いに名前と顔は知ってる、みたいな感じだけど‥。」

 ベティがくすくす笑った。

「向こうもね、佐山くんの名前出したら驚いてたよ。なんで、って訊くから知らないって答えたけど。あ、昨夜も店に来たのよ。佐山くんと電話した一時間くらい後ね。」

「ベティ‥。まさか、今日ここで会うって言ってないよね?」

「‥‥口止めされてないもの。」

「言ったのかよ‥。信じられないな。‥‥悪いけどデートの話はなしだ。他でぺらぺら喋られちゃたまらないからね。」

「そんなァ‥! あたし、もうみんなに言っちゃったのに、今度のお休みに佐山くんとデートするって‥。あたしはちゃんと話したでしょう? 約束破るなんてひどいよ‥!」

 立ち上がって抗議するベティに背を向けて、玲は少年みたいな拗ねた顔をした。

「内緒にするならって言っただろ? 約束違反はそっちじゃないか。困るんだよ‥店外デートはほんとは禁止なんだからさ。」

 まだベティはわあわあ騒いでいる。

 茉莉花は目を伏せて静かにコーヒーを飲んでいる。関係ないといった風情だ。

 リズは肝心の名刺の男が誰なのかを知りたいのに、口を出せないのでちょっと苛ついていた。ベティを見据えて、ウザイ、とつぶやく。そしてすぐにその感情が生前から自分の胸にあったものだと感じた。

 ベティはもちろんリズの存在に気づいていないから、聞こえるはずもない。だが何かが伝わったらしく、茉莉花をぎっと睨みつけ、指さして喚いた。

「だいたいさ、佐山くん、この子誰よ? 友だちが調べてるって言ったじゃない、ほんとに友だち? デートしてくれないなら彼女がいるって言いふらしてやるからね。」

 うんざりした顔で玲は、わかった、と答えて投げ遣りな仕種で耳からダイヤのピアスを外し、テーブルの上に放り投げた。

「デートの代わりにこれ、やるからさ。騒ぐなよ。」

「ほんとにこれくれるの‥? わっ、やった! これって特注品なのよね、佐山くんのトレードマーク‥! うん、デートより嬉しいかも。自慢できるもん。」

「じゃ、結着ってことで。さよなら。」

 玲はそそくさと立ち上がり、茉莉花とリズに出るよ、と告げた。

「ちょっと待って‥。あたしを捜してる人の名前、聞いてない‥。」

 リズの抗議ににこっと微笑し、彼は指に挟んだ名刺をひらひら振った。そして目線を窓の外へと移す。つられてそっちを見ると、店の前に佇む濃紺のジャケットを着た男の姿が見えた。

 茉莉花が丁寧にベティに礼を言って立ち上がる間に、玲は再びリズの手を掴んで歩き出した。

「どこへ‥‥行くの?」

「決まってるよ。彼になぜ君を捜してるのか、訊ねるんだ。お喋りベティには内緒でね。じゃないと‥‥」

 レジの前で足を止め、彼は遅れてついてきた茉莉花を振り向いた。

「危険なんだろ?」

「ええ。とても。」

 茉莉花はにこりともせず、深々とうなずいた。


 鳥島祐一は目の前の喫茶店に入るかどうか迷っていた。

 ベティは一見口が軽くて頭が弱そうに見えるが、なかなかしたたかな女だ。リズを捜してる人が他にもいるから会いに来れば、なんて言葉にうっかり乗っていいものか。

 今朝訪ねたリズの部屋は、以前に見た蒸発した人間の部屋に似ていた。冷蔵庫には飲みかけのジュース、使いかけの生鮮食品が入っていたし、脱いだ服が洗濯籠に無造作に放りだされていた。長期に留守をする気配はなく、ただ予定どおりに出ていき予定どおりに戻れなかった、そんな印象だった。

 スペアの鍵の置き場所が以前と同じだったのが少し切ない。彼女は何も―――用心していなかったのだ。自分が危険だなんてわかっていなかった。そういう無邪気な女だった。

 俺が気をつけてやるべきだったのに、と後悔が胸を苛む。

 しかしよりによってなぜ佐山徹がリズを捜しているのだろう?

 佐山徹―――長谷部遼一のルームメイト。つい先日まで長谷部つながりで探っていた相手だ。よりによってこのタイミングでなぜその名が出てくる?

 佐山は一年前まである有名なホストクラブのナンバーワンだったそうだが、現在はアンジュを通して店または客からの要請により短期間の契約を結ぶ派遣ホストをしている。

 あの業界でそんな渡りみたいな仕事が許されるのか鳥島には謎だが、実際佐山とアンジュはもう一年以上もトラブルなく上手に泳ぎ回っている。

 売上に応じた歩合で報酬を得るのは長谷部の場合と同じだった。また住民登録がなく、納税記録も確認できない点でやはり長谷部と同じだ。こちらも本名ではないのだろう。ちなみにアンジュ自体はちゃんと登録してあるし税金も払っている。

 その佐山がなぜリズを―――いや、話を聞けばわかる単純な話かもしれない。

 思い直して鳥島は、喫茶店のドアに手を掛けた。

 ともかくもリズに関する情報が欲しい。彼女が消えて三週間。もしも生きているならば何としても助けたい。鳥島は腹の底からしぼりだすように想った。


 ドアは反対側から開いた。

 出てきた若い女を避けて脇にずれると、彼女は鳥島の目の前で立ち止まった。

「あの‥私立探偵の鳥島さんですか。『メルサ』に勤めていたリズさんの行方を探しているという‥?」

 彼女の背後には佐山が立っていた。

 鳥島は佐山に向かって訊ねた。

「俺を知ってるんだな。同居人に聞いたわけか。」

 佐山は肩を竦めた。

「そりゃ、やたらと回りをうろうろされればね、気になりますんで。誰なのかな、と‥。言っときますけど鳥島さん、営業妨害ですよ。」

 あの、と女が口を挟んだ。

「あのう‥。とにかく場所を変えて情報交換しませんか? わたしは少々訳があって、リズさんの知人を捜しているんです。」

 あらためて目を遣ると、女は一種独特の雰囲気を纏っていた。長い黒髪、真っ黒な瞳。はっとするほどの美人だが、色気よりどこか畏怖を感じる。

「‥‥いいよ。こっちも手詰まりなんだ。」

「良かった。できればあなたがリズさんの交際相手をご存じだといいんですけど。」

 女はほんのり微笑した。意外に幼げな顔になる。

 不意に佐山が緊張した顔になって、鳥島と女を交互に見た。何かを彼女に耳打ちする。

 彼女も佐山の方を向き、やはり緊張した様子で幾度もうなずき返した。やがておもむろに、面食らっている鳥島に向かって名刺を差しだした。

「申し遅れましたけれど『懐古堂』の店主、四宮茉莉花と申します。お手数ですが、わたしの店までご同行願えませんか?」

「‥‥この住所だとそれほど遠くはないが‥。内緒の話なのかい?」

「いいえ‥。リズさんに会ってほしいんです。」

「リズ‥? リズがあんたの家にいるのか?」

「ええ‥。一応、わたしが保護しているんですけど‥記憶がないんです。」

「そうか‥。」

 無事なのか。鳥島はほっと安心の吐息をついて、同時に腕のあたりにひんやりした空気を感じた。


 鳥島の声を聞いて、リズは全身がぶるぶると激しく震え始めた。

 どうしたの、とそっと玲が小声で囁きかける。

「この人‥。この声だわ、間違いないの‥。」

 え、と彼はリズの手をつかみ返した。鳥島の方を再びまじまじと見る。

 リズは腰が抜けた感じになって、玲の腕にしがみついた。涙がぽろぽろこぼれてくる。肩の震えが止められない。

「‥‥もしかして。怖いの? この人に殺されたんじゃ‥?」

 支えてくれながら玲が囁く。リズは激しく首を振った。

「違う‥。違うの‥。あたし、逢いたかったんだわ‥。死ぬのは仕方ないけど‥死んじゃう前にもう一度逢いたかったのよ。」

「逢いたかった‥?」

 リズは茉莉花に必死に訴えた。

「お願い‥。この人と話ができないかな? 何だかよくわからないけど、無性に話したいの。何か‥伝えなきゃいけない気が、たまらなくするの。」

 茉莉花は真剣な表情でうなずき、店に戻りましょう、とリズと玲に告げた。

「達磨のおじさんならきっと、いい方法を知ってる。心配しないで、大丈夫。」


 黒達磨は話を聞くと、『壱ノ蔵』から白い裲襠(うちかけ)を取り出してきてリズに羽織らせた。

「これは花嫁人形の道具でやんす。人形が実体化して人間の男を誑かすのに遣ってたんですがね、先代の彦市っちゃんが人形と裲襠(うちかけ)を別々に引き離して、悪さができないようにした時にここに残ったもんでやすよ。あんたさんには‥ちょうどいいやね。」

 裲襠(うちかけ)はリズの体にしなやかに纏わりついて、すうっと消えた。

 するとリズの姿が次第にくっきりと見え始め、肌のきめまでしっかり質感のある人の形になった。

 待たせておいた座敷の襖を開けるなり、鳥島は振り返ってほっと表情を緩めた。

「リズ‥。無事だったんだな、よかった‥!」

 リズは彼の顔を凝視したまま、また涙をぽろぽろこぼし始めた。その場にするすると腰を下ろし、膝に手を置いてうつむく。

「‥‥ごめんなさい。」

「ん?」

「あたし‥あたしね‥。わざとやったの、嘘をついたのよ‥。瞞したの‥。」

 鳥島は苦笑いを浮かべて、ああ、と答えた。

「うん。いいよ。こっちも利用してたんだ。見抜けなかった俺が間抜けだっただけだ。」

 リズは首を激しく振り、両手で顔をおおってすすり泣いた。

「ごめん‥。助けてくれるって言ったのに‥。あたし、信じられなかったの。坂上が‥刑事なんて信じてどうするんだって言うから‥。今更、何も知りませんでしたで通用するかよって‥。それよりあなたに嘘の情報流せば、一生遊んで暮らせるお金が手に入るから、二人で高飛びしようって‥。」

 鳥島は身じろぎもせず、黙って目の前の女を見下ろしている。

 驚いて見守る茉莉花の腕を玲がそっと引いた。振り返ると黒達磨が隣室から手招きしている。遠慮しろとの合図らしい。

 忍び足で部屋を出て、あらためて襖を薄く開き、二人の様子を窺った。

 リズのすすり泣きは続く。

「‥‥坂上はあんたを裏切ったのか‥?」

 静かな声で鳥島は訊ねた。

「わからない‥けどたぶん、そうね。今の今まで、あたし、何も思い出せなくって‥。憶えていたのは最後に別れる時のあなたの言葉だけで‥短い縁だったって言ったでしょう、あれが忘れられなかったの。あそこであなたと縁を切っちゃったからこんなに怖ろしい目に遭うんだなって‥あの瞬間に戻ってやり直したらどうだったんだろうって‥。ああ、そうだ‥‥。あたし、たまらなく後悔して‥ひと言謝らなきゃ死ぬに死ねないって思ったんだっけ‥。」

 襖の陰で聞いていた茉莉花は思わず手に力が入った。

 リズは思い出し始めているのだ。残酷な話だけれどどうやら、殺される瞬間の記憶から思い出しているらしい。胸がきん、と痛くなった。

「バ‥バカだったんだから‥死ぬのは仕方ないけど‥。せめて謝りたくて‥あなたの人生、台無しにしちゃったこと、謝りたくてね‥。それで‥‥」

「もういい、リズ。謝る必要なんてないんだ。‥‥知ってたよ、全部。虚偽の情報だと直前で気づいたんだ。だけどあんたと坂上の命が助かるならいいと思った。二人で幸せになってくれるなら‥‥俺が刑事辞めるくらい何でもなかったんだ。」

 鳥島は低い穏やかな声でそう言って、ためらいがちにリズの肩に触れた。

「ちぇっ、じれったいな。あそこはぐっと抱き寄せる場面だろうに‥。ねえ?」

 耳元で玲が囁いた。黙って、と指を立てて合図する。

 リズはおずおずと顔を上げ、鳥島を切なげに見た。

「あたしを‥恨んでない?」

 黙って彼は首を振った。

 その胸に彼女はいきなり飛びこんで、両手を頸にしっかり巻きつけ、頬を寄せた。

「‥‥あたし、あなたが好きだったの。でも言えなかった‥。仕事だから会いに来てくれるだけって一生懸命言い聞かせてた。一度でいいから‥こんなふうに腕に抱かれたかったんだよ‥。」

 涙が彼女の両眼に再びどっと溢れ出す。

 鳥島は黙ったまま彼女の頬に手を当て、指で雫を拭いながら、ほんのわずかだけ唇を合わせた。そして大切そうに彼女の頭を抱えこんだ。

 幸せな笑みを浮かべたリズの背中が、次第にきらきらと輝き始めた。仄かに体が透き通っていく。

 異変に気づいた鳥島は、うろたえた様子でいっそう強くかき抱いた。

「何が起きてるんだ‥? これは何だ‥。」

「ごめんね‥。ほんとうはあたし、もう死んじゃったみたい‥。」

 彼の腕の中で、リズはにっこりと微笑んだ。

「死んじゃったって‥。どういうことだよ、リズ‥リズ‥! だめだ、消えるな‥頼む、消えないでくれ‥‥!」

 最後に光の靄がひとすじすうっと立ち上り、リズの姿は跡形なく消えてしまった。

 取り残された人形の裲襠(うちかけ)を茫然と見つめ、鳥島は押し殺した低い声でそっと、俺も好きだったんだよ―――とつぶやいた。

 襖の陰から見守っていた茉莉花と玲はしばらく無言でじっとしていた。

 やがて茉莉花はふうっと息をついて立ち上がり、ポケットから取り出した金の鈴を振り上げてリーン、と鳴らした。曖昧になった境界を仕切り直すためだ。

 その音に鳥島は振り向いた。

「そこにいるなら、説明してくれ。リズは‥あんたが保護してくれたんじゃなかったのか? 今いったい、何が起こったんだ?」

 ゆっくりと茉莉花は襖を開け、畏まって正座し、頭を下げた。

「わたしが保護していたのはリズさんの魂です。彼女はなぜさまよっているかさえわからずに、物の怪になってしまうところでした。どうやらさまよっていた理由を思い出せたようで、たった今、無事に成仏できました。」

 茉莉花は言葉を選んで、『懐古堂』の生業とリズを保護していた経緯を説明した。

「どうしてもあなたに逢って想いを伝えたいという彼女の強い心残りが、魂をさまよわせていたんだと思います。だから心残りがなくなった瞬間、無事成仏できたのでしょう。」

「‥‥やっぱり殺されていたのか。」

 ええ、とうなずいて茉莉花は眉間に皺を寄せた。

「誰の仕業かわかりませんが‥。尋常ではない力で魂を剥がされ、封じられかけたところを、あなたへの未練で何とか一部だけ抜け出すことができた。でも一部だったから記憶を失っていたんです。物の怪街道に迷いこんだということは、封印した術者が人のものではない力を遣ったからでしょうね。‥‥あのう、わたしの話、信じられませんか?」

 鳥島は淡々と話す茉莉花をぼうっと凝視していた。うっすら額に汗がにじんでいる。

 そこへすっと襖が開いた。

「とりあえずお茶にしなせいやし。まずは落ち着くのが肝心でやんしょう?」

 お茶とお菓子を盆に載せて入ってきた黒達磨は、いちばん先に茶碗に手を伸ばした玲を見遣って、ほほう、と笑った。

「さすがに桜の(あるじ)どのですなァ。平然としていんなさる。」

 玲はふふっと屈託なく笑い返した。

「そうでもないよ‥。実は腰が抜けそうなんだ。‥お茶、美味しいね。鳥島さんもお茶飲んでひと息ついたらどうです?」

 湯飲みを受け取り、鳥島は静かにすすった。

「‥あんたはなんで絡んでるんだ?」

「ほんの偶然。声が鳥島さんに似てたらしいんだけど‥。似てませんよね? 俺、あなたみたいに無愛想じゃないし。」

「彼のおかげで『メルサ』のリズさんだとわかったんです。」

 茉莉花は慌てて口を挟んだ。どうやら玲と鳥島はお互いにあまり好感情を抱いていないようだ。

「おかげでわたしの仕事は終了しました。今まで協力いただいてどうもありがとう。」

「えっ? 終了って‥これで終わり?」

 玲は驚いた顔で茉莉花を振り返った。

「リズさんは無事に成仏できたんですもの‥。対価は貰いそこねちゃったけど、うちの商売としてはここまで。後は警察の仕事。」

「体も見つかってないのに警察が動くわけないじゃん。今のところ、彼女が酷い目に遭って殺されちゃったって知ってるのは、犯人以外では俺たちだけなんだよ? せめて体だけでも捜してあげようよ。」

 勢いに面食らって、茉莉花は口ごもった。

「無理‥。それに彼女の体には別の魂が入っているかもしれないの。とても危険よ。」

 どういうことだ、と鳥島が身を乗りだした。

「さっきあんたが言ってた、魂を剥がされたとかいう話と関係あるのか?」

「‥‥信じてくれるんですか、わたしの話?」

「信じるしかないだろう。今目にした光景に他に説明がつかない以上はね。」

 茉莉花はうっすらと冷笑を返した。

「正直なところ、自分の目で見ても信じてくれる人は少ないんです。」

「‥‥そうかもな。でも聞きたい‥。他に知っていることがあるなら教えてくれ。」

 茉莉花はうなずいた。

「さきほど『メルサ』を訪ねた時に、リズさんに向けた術がかかっているのを感じたんです。蜘蛛の巣みたいなもので、彼女があそこに来れば引っかかって封印の場へ連れ戻されてしまうようになってました。一部が抜け出たことに気づかれてたんですね。幸い桜がいたのですぐに気づいて、リズさんの回りに結界を張ってさっさと出てきたんですが‥。それで逆に彼女が魂封じの術で殺されたんだとわかったわけです。」

「桜というのは‥?」

「あ。この子です。‥‥桜、ちょっとの間、人形の裲襠(うちかけ)を羽織ってみて。」

 玲の肩に乗った振り分け髪の童女の姿が、ぽわっと浮かんだ。

 鳥島は絶句している。

「懐剣の精霊で‥。今は彼に仕えています。」

 そういうわけ、と玲は鳥島ににっと微笑った。

「わたしの感じたところでは霊能力者とか陰陽師とかの術ではないと思います。もっと単純で力任せな感じ。物の怪の仕業だけど、たぶん使役している人間がいる。物の怪は基本的に人間の魂を封じたりせず、喰らうだけなんですから。」

 息を継いで、再び続ける。

「『メルサ』に残っていた力の気配は、とても強くて危険な感じがしました。殺すためだけにわざわざ魂を剥がすとは思えないので‥想像ですが、リズさんの体には別の何ものかが入ったのではないかと考えられます。」

「つまり‥。リズは化け物に乗っ取られたかもしれないと?」

「あくまでも推測ですけど。」

 鳥島はぐっと唇を噛みしめて、うつむいた。

 彼とリズの間に何があったのだろう。少し気になるけれど、詮索するのは控えた。他人が好奇心でほじくり返していいものではない。

 しばらくして顔を上げた鳥島は悲痛な声で訊ねた。

「‥リズの魂は全部成仏できたわけじゃないんだな? 閉じこめられてる部分が残ってるんだろう?」

「いえ、さっき彼女が全部持っていきました。一部じゃ成仏できないんです。」

「そうか‥。よかった。そのう、彼女が世話になった分の対価とやらは俺が払おう。」

 茉莉花は慌てて手を振った。

「そうはいかないんです。代わりに払ってもらうのは困るので‥。」

「だけどあんた、ただ働きになっちゃうんだろう?」

「まあ、金銭的にはそうですけど‥。」

 ちょっと吐息をのみこむ。経済状況はなかなか厳しいところだった。

「でもだめなんです。決まりごとですから。」

 きっぱりと断る。

 鳥島は少しだけ微笑んで、変わってるな、とつぶやき、ゆっくりと腰を上げた。

「お世話になりました。‥佐山さんもどうも。」

 彼は軽く頭を下げると、店を出ていった。


 鳥島を店先まで見送って座敷に戻ると、玲が黒達磨とお煎餅をかじりながら談笑していた。ちゃっかりなじんでいるようだ。

「嬢ちゃん。お茶のお代わりはいかがですかい?」

「ありがと、おじさん。いただきます。」

 茉莉花は静かに腰を下ろすと、ポケットから取り出したものを玲に差しだした。

「はい、これ。」

 それはさっきベティに渡したはずの彼のピアスだった。

「これって‥何? どうしたの?」

「桜に頼んで回収してもらったの。わたしには弁償できない高価なものだし、それにあの人の手にあればあの人もあなたも危険だから。」

「‥‥どういう意味?」

「あの人にも蜘蛛の巣がかかっていたの。きっと彼女は、あなたがリズさんについて調べていたと誰かに報告する。このピアス、佐山さんになってる時には必ず身につけてたんでしょ? 宝石には気が溜まりやすいというから、念のために回収しておいた方がいいと思って‥。」

「ふうん‥。」

  玲は指でピアスをつまみ上げ、ふてくされた表情でじろじろと見た。

「もしかしてさ。俺の身を案じてくれたと思っていいのかな? ‥‥鳥島よりも?」

「桜のご主人に何かあれば、桜が悲しむでしょうからね。」

 はい、と桜が真顔で答えた。

「あの女の人は邪気に囲まれておりました。ご主人さまのなさることに口出ししたくはありませんけれど‥。あのようなお方と近しくするのはあまり賛成できません‥。」

 今にも泣き出しそうな桜に、玲はうってかわった柔らかい微笑を向けた。

「近しくなんかしてないから安心しなよ。‥‥わかった、桜に心配かけないようにしばらく佐山徹はオフにしちゃおう。問題を解決するまでね。」

 ぎょっとして茉莉花は振り返った。

「問題を解決するって‥。まだ関わるつもり?」

「鳥島はきっと弔い合戦をする気だよ。いいの? 放っておいて。」

「あの人はもうどっぷり彼女との縁に浸かってしまっているから‥。きっと進まずにはいられないでしょうね。『懐古堂』も同じ、縁ができてしまった。たぶん、別の方面から関連する依頼がやってくるでしょう。物の怪絡みの場合はどうしてもそうなるの。」

 玲はにこにこっと微笑んだ。

「じゃ、俺も同じだよ。」

「危険なのに、わざわざ‥? ほんとうは何が目的なの?」

「なんでそんなに疑うかな‥? 君を心配してるんじゃないか。」

「う‥‥」

「だいたいさ、鳥島に対する態度はずいぶんとしおらしげなのに、なんで俺だけ邪慳に扱うのかなぁ? どこが違うって言うんだよ。あいつだって結構胡散臭いじゃないか。」

「それは‥‥」

 リズが満足そうに成仏していった光景が再び脳裏に浮かんでくる。

 ―――俺も、好きだったんだよ。

 あの時、鳥島のやるせない気持ちがじんじん伝わってきて、茉莉花は柄にもなく泣きたくなった。

「‥‥全然違うじゃない。」

 思わず小声でつぶやく。

 湯気の立ったお盆を手に入ってきた黒達磨は、茶碗を取り替えながら二人の間に入って、いいじゃありやせんか、ととりなした。

「嬢ちゃん。桜の主どのはこの店に縁ができたんでやす。それだけのこってすよ。」

 まあ―――そうかもしれない。茉莉花はしぶしぶうなずいた。

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