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懐古堂奇譚  作者: りり
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第四章

 五月晴れの紺碧の空にぽっかりと浮かんだ白い雲が流れていく。

 河川敷の公園で芝生に寝そべって、堂上(どうがみ)(あきら)はただ漫然と雲を目で追っていた。

 そろそろ正午になろうかという頃である。

 さっきまで散歩を楽しんでいた老人たちや、幼い子どもを連れた母親たちの姿も、半分程に減ったようだ。たぶん昼食に帰宅したのだろう。弁当持参で初夏の空気を楽しみたい向きも木陰のベンチなどへ引っこんだらしく、平らかな芝生付近はやけに静かになった。

 川面から流れる柔らかな風が眠気を誘ってくる。

 今日から三日はまるまる空きだ。久しぶりの休みだと思うと、気怠い気分が体じゅうを包みこむ。何もしたくない、ただこうしてぼんやりしていたい、と思う。

 別に疲れているわけではなかった。自分に立ち戻る時はいつだってこんな気分なのだ。何の責任もなく、何の義務も負っていない―――裏を返せば何でもない自分。彼にとってありのままの自分は別に好きでも嫌いでもない存在だった。

 いつのまにかうとうととしていた。

 洗いっぱなしでセットしていない前髪が、風に煽られてうっとうしく顔にかかる。夢うつつで、誰かの指がそれを優しくかきあげた。

 ―――やっと見つけた。ずっと探してたの‥。

 細い柔らかな声。ああ夢か、と夢の中で玲は思う。

 幼い頃に幾度も見た、とっくに見飽きた夢だ。ばかばかしくて、おかしくて、少しだけ切ない。もう何年も見なかったのに、何を今更―――

「痛っ‥!」

 思い切り前髪を引っぱられて、玲は跳ね起きた。

「良かったぁ‥! 生きておられたのですね‥。なかなか起きてくださらないので、もしや死んでしまわれたかと‥。」

「はあ‥‥?」

 振り分け髪の三つくらいの少女がすぐ隣に寄り添うようにすわって、花祭りの稚児みたいに白く化粧した顔でこちらを覗きこんでいた。うす紅色の袂を口に当て、なぜか今にもこぼれそうな大粒の涙を黒々とした瞳に浮かべている。

「必ずお会いできると‥桜はずっと信じておりました、ご主人さま‥!」

「ええと‥?」

 少女はとうとう泣き出した。

 ご主人さまって何の話だろう? というか、この少女は何だ、と疑問符ばかりが脳裏に点滅する。大抵の事象には驚かない自信があったが、今回は困惑するばかりだ。

 少女は袂で涙を拭くと、玲の腕を両手で掴んで立ち上がらせようとした。

「早く早く、ご主人さまぁ‥! あちらに姫さまがおいでなのですよ‥! きっとびっくりなさいますから、さあ、立ってくださいまし。」

 もう十分びっくりしている。何だかわからないが、ともかくその姫さまとやらがもう少し話のわかる人間で、いったい誰と勘違いされているのか教えてくれると有難い。

 引っぱられるままに立ち上がり、玲は桜に腕を引かれて歩き出した。

 ぎょっとしたことに桜は宙に浮いていた。玲の腕を小さな手で一生懸命引っぱりながら、ふわふわと陽光の中を漂っていく。

 まだ夢を見ているのだろうか。

 あたりを見回せば見慣れたいつもの公園だ。川面を水上バスが緩やかに進んでいくのが見える。夢じゃなさそうだ、と再び桜を見遣った。

「桜‥? どこへ行ってたの‥その人は誰?」

 静かで落ち着いた声が聞こえた。

「あ、姫さまぁ‥! ご主人さまです、桜のご主人さまが見つかったのですよ‥!」

 あれが姫さまか、とつくづく見れば桜の姫さまは絵に描いたような古典的美少女だった。

 長いまっすぐな黒髪、透き通るように白い肌、濃い睫毛に覆われた黒目がちの瞳。

 凛とした口元、静かな物腰。

 あんな女が存在するのかと思うと同時に、桜の姫さまならば彼女も人でないモノかもしれないと思い直す。

 美少女はすたすたと近づいてくると、きりりとした眉を微かにひそめ、じっと玲を見つめた。

「ええと‥。あのう‥。この子が見えるんですか?」

「まあ‥見えてるし、こうしてつかまれてるんだけど‥。もしかしたらこの子は、普通見えてはいけないのかな‥?」

 少女は困惑した表情で、ますます眉をひそめた。

「いけないというわけでは‥。あの、つかぬことをお訊きしますけど‥今まで、人ではないモノ、たとえば幽霊とか物の怪とかが見えたなんて経験、ありますか。」

「墓地の隣で育ったけど幽霊に会った経験はないなあ‥。って、君、からかってる?」

 美少女はきっぱりと首を振り、考えこんだ。

「ですから、姫さま。この方は桜のご主人さまなんですってば‥! とてもお懐かしい気配がするんですから。」

「桜‥。ちょっと離れてみて。うん、ちょっとの間だけでいいから。」

 桜はしぶしぶ玲の腕を放し、離れた場所に移動した。

「すみません。今、桜がどこにいるかわかりますか? 指さしてみて欲しいんですけど。」

 そこ、と玲は間髪入れずに指し示した。

 桜が嬉しそうにぱああっと笑う。可愛いな、とつい暢気に微笑い返した。

「なるほど‥。じゃ、わたしの隣にいる人は見えますか。」

「隣って‥? この子以外に誰かいるの?」

 美少女はふんふん、とうなずき、桜にもう一度玲にくっつくよう指示した。

 桜はすぐさま飛んできて胸にしがみついてきたので、手を添えて抱き上げる。振り向くと、驚いたことに美少女の隣にイブニングドレスを着た女が立っていた。

「わっ‥! その人は‥いつのまに? ‥‥髪がずぶ濡れみたいだけど。」

「‥見えるのね?」

 ドレスの女は何だか小さく震えているように見えた。

 美少女はその女の手を握って、何やらうなずいている。それから驚きっぱなしの玲に向き直った。

「あの、突然で申し訳ありませんが‥。差し支えなければこれからわたしの家まで来てもらえませんか‥? お話を伺いたいことがあるので‥。」

「別に構わないけど‥。ついていったらこの子について説明してもらえるんだよね?」

「あ‥。桜ですか。そうですね、たぶんあなたは桜の探していた人なんだと思います。事情は桜が自分で説明するでしょう。」

 美少女はそこではたと気づいた様子で付け加えた。

「申し遅れました。わたしは四宮茉莉花といいます。若輩者ながら『懐古堂』という店の店主をしております。‥あなたのお名前を伺ってもいいですか?」

 玲はほんのわずかだけためらったが、やや苦笑を浮かべ、堂上(どうがみ)(あきら)、と名を告げた。


「桜の本体はこの懐剣なんです。」

 『懐古堂』の座敷で卓袱台の上に出された懐剣をまじまじと見つめ、玲はちょっと言葉を失った。瀟洒な造りで黒漆に桜模様の蒔絵の鞘がついている。

 茉莉花はごくあたりまえな、ありふれた事実を語るみたいに淡々と続けた。

「さる大名家の姫のために造られたそうですが、よほどの名人の手によるとみえて魂が宿ってしまったんです。そのうえ所有者であった姫君にとても可愛がられたおかげで、こんなふうにちゃんとした形のある精霊に育ったんでしょう。」

「はい。姫さまはとても可愛がってくださいました。」

 玲の膝の上にちゃっかりすわっていた桜が身を乗りだし、あとを引き取って話し始めた。

「姫さまには幼い頃より想いあったお方があったのですが、身分が違うので添うことがかないませんでした。やがてお父上のご命令で遠国に嫁がねばならなくなり、姫さまは来世での契りを誓う証しとしてわたしをひそかに恋しいお方に渡したのです。その時からそのお方が桜のご主人さまとなりました。」

 うっとりと夢見るような愛らしい表情を満面に浮かべ、桜は語った。

「ご主人さまは上野のお山へ戦に向かわれる日までずっと、片時も離さず可愛がってくださいました‥。その朝、わたしを菩提寺にお預けになり、命があれば迎えに来ると、もしも武運(つたな)く今生での命を終えたならば、来世で必ず会えるからと‥‥。」

 桜の大きな瞳から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。不思議なことにその涙はちゃんと実体があって、玲の膝をしっとり濡らしている。

「ええと‥‥で、それが俺? ご主人さまの生まれ変わりってこと?」

「はい‥! 姫さまのお伴であの場所へまいりました時、お懐かしい気配をすぐに感じました。普通のお人には桜の姿は見えませんけれど、ご主人さまは桜がお見えになりますし、声も聞き取っていただきました。‥‥桜はもう、嬉しゅうて嬉しゅうて‥。お会いしとうございました、ご主人さま‥。再び目覚めてよりずっとこの日をどれほど待っておりましたことか‥!」

 嬉しそうに縋りつく小さな手は柔らかくて温かい。

 まあいいか、と玲はにっこりと笑いかけ、小さな精霊をひしと胸に抱きしめた。

「俺も嬉しい‥。全然思い出せないけど、それでいいなら桜のご主人さまになるよ。」

「ご主人さま‥!」

 冷ややかな視線を感じて顔を上げると、茉莉花が胡散臭そうにこちらを見ていた。

「‥‥何だか軽いですね。今まで精霊なんて見たことなかったのでしょ? あっさり信じてもらえるとはちょっと想定外。」

「だって桜は現実にここにいて、見えるし話もできるし体温まで感じられるし‥。俺の常識では信じないなんて選択肢はないなあ。それに‥とても可愛いから何も問題ないよ?」

 にこにこっと笑顔を向けたが、茉莉花の眉間の皺は少しも緩まない。

 大抵の女性には有効な笑顔のつもりだったのに、浮世離れした美少女には通じないようだ。そう悟ると玲は無駄な笑みをさっさと引っこめた。

「それより‥。桜が君のことをずっと『姫さま』って呼んでる方が気になるんだけどね。もしかして、君が前世での俺の恋人なのかな?」

「違います。わたしは桜に限らず、ほとんどの人ではないモノが見える体質なだけ。ほんとの姫さまはあなたがこれから桜と一緒に探してください。‥‥ところで」

 きっぱりと否定した『姫さま』は、なぜかますます冷ややかな表情になって玲を見据えた。

「全然別の話なのだけど、ここに書いた台詞をためしに言ってみてくれませんか?」

 そう言って目の前に文字の書かれた白い紙を差しだす。

「何‥これ? 別れ文句みたいだけど‥。しずって誰?」

「‥‥お願いします。」

「いいけどね‥。俺、結構こういうの得意なんだ。君を相手に言えばいいの?」

「いいえ。こちらの彼女に向かってお願いします。」

 さっきのドレスの女が再びすぐ隣にいた。ちょっと背筋がぞわっとする。

 玲はともかくも彼女の方へ向き直り、桜を膝から降ろした。桜と離れると彼女が見えなくなるので、桜には背中に寄り添っていてもらう。

 深呼吸をして、ひんやり冷たい両手を取る。こっちもちゃんとつかめるから不思議だ。

 じっと目を見つめ、短いその台詞をつぶやく。

「これでさよならだよ。短い縁だったね。‥‥しず。」

 するとその女はじっと彼の目を見返してつうと涙をこぼした。

 更に驚いたことには、朧気だった女の姿がどんどんくっきりし始める。何が起きたのかさっぱりわからなかったが、成りゆきのままに彼女を胸に抱き寄せた。

 『懐古堂』の若き店主は緊張した顔で見守っていたが、玲の胸に顔を埋めてすすり泣く『しず』に小声で訊ねた。

「『しず』さん‥。この人なの?」

 彼女は違うの、とか細い声で答えて、ゆっくりと顔を上げた。

「似ているけど‥少し違う。こんな優しい口調じゃなくて‥もっと、ぶっきらぼうな感じだったと思う。」

 足のあたりが儚い感じなので、恐らく『しず』は幽霊なのだろう。遅まきながらもそう気がつく。しかし玲はハンカチを取り出し、彼女の涙を拭ってやった。

 『しず』はありがとう、と言ってまっすぐ 玲を見て微笑した。

「どういたしまして。で、協力したんだから事情を訊ねる権利くらいあるよね?」

 茉莉花はしぶしぶと言った感じで答える。

「『しず』さんは記憶を失っているの。憶えているのは今の台詞を誰かに言われたってことだけ。それから幽霊になって最初に、さっきあなたがいた河川敷に迷い出たこと。実は彼女があなたの声に聞き覚えがあるって言ったので、確かめるためにここまで来てもらったのよ。あの場所は雑音だらけだったから、彼女が安定しないので‥。」

 ふうん、と玲はもう一度『しず』をつくづく見た。

 ますますくっきりしてきた彼女は胸の大きい、セクシーな美女だ。唇の形に何となく見覚えがあるような気がした。

「ご主人さま‥!『しず』さまは確かに麗しい方ですけど、姫さまの前でそんなにあからさまに見とれるのはいかがなものでしょうか‥!」

 肩によじ登った桜が耳元に囁いてたしなめる。

「違うよ、桜。美人てだけじゃないんだ‥前に会ったことがあると思ってさ‥‥」

「え‥!」

 茉莉花と『しず』が同時に叫んだ。

「ほんと? どこで‥?」

 日本人にしては色素の薄い茶色の瞳をいたずらっぽく煌めかせ、玲は茉莉花をまっすぐ見返し、にやりと微笑った。

「どこでだろうね? ‥手伝ってくれって、君が俺に頭を下げて頼んだなら思い出してもいいんだけど。」

 茉莉花の視線は冷ややかさを通りこし、険悪そのものへと変わった。

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