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懐古堂奇譚  作者: りり
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第三章

 真っ暗な闇の中をもぞもぞと蠢いている気配が立ち上ってくる。

 ―――ああ‥。まただ。

 咲乃(さくの)は布団を被って息を殺した。怖くて怖くて、体の震えが止まらない。

 涙がじんわり湧いてきた。

 二十才になったのを機にそれまで育った伯父の家を出て、この春から一人暮らしを始めたばかりだった。ところがその途端、何だかわからないモノにつきまとわれ始めた。

 それらの蠢くモノは日ごとに増え、だんだん大きくなっているようだった。

 ここのところ夜は灯りをつけて寝るようにしているのに、夜中に怪しい気配でふと目覚めると、なぜか真っ暗になっている。彼らが灯りを消すことを覚えたのだと知ると心底ぞっとした。

 昨夜はとうとう大きな影の塊みたいなモノが口をきいた。明日にはおまえを喰らってやる、と言ったのだ。怖くて怖くてどうしたらいいかわからなかった。

 部屋じゅうに息が詰まりそうなほど澱んだ暗闇がたちこめてきた。

 ―――誰か、誰か‥。助けて‥。

 声を殺してすすり泣きながら、咲乃は心の中で助けを求めた。

 けれど誰も来てくれないのだとわかっていた。咲乃には縋れる人など誰も―――誰一人いない。

「迎えに来たよォ、姫。」

 おどろおどろしい声が闇に響く。

「なあんて美味しそうな匂いだろう。四宮(よつみや)の姫を喰らえば、我らももっと大きゅうなれるはず。」

 思わずひいっ、と声が漏れた。生ゴミみたいな腐臭がつんと鼻先に漂う。

「来ないで‥。いや、どこかいっちゃって‥。あたしは姫なんかじゃない‥来ないで、お願い‥‥」

「ふふ‥。震えてるよォ? どこから喰らおうかなァ‥? 足からしゃぶろうか。それとも頭からかぶりつこうかねえ?」

 ぬめっとした黒い触手があちこちから伸びてきて、咲乃の布団を剥いだ。

 ―――ああ‥。もうだめだ‥。

 手足をぎゅっと縮こまらせ、咲乃は目を瞑った。

 その時いきなり黒い手がお化けをむんずと捉まえた。

「ぎゃああっ、痛いよう。誰だよ、おまえ。」

「わあ‥! 黒鬼(こつき)だ、黒鬼だぁ‥! 逃げろ、喰われるぅ‥!」

 回りで蠢いている小さなモノどもがざわざわと騒ぎ出す。

 触手を捩りあげられながら、咲乃を喰らおうとしていたお化けは半泣きの声を出した。

「なぜだ‥? なんで鬼人が邪魔をするんだよォ‥。関係ないじゃんかよォ‥。」

「うるせえ。うじゃうじゃとゴミどもが集まってやがると思えば‥。人食いかよ? 気色悪い奴らだ。」

 咲乃は恐る恐る目を開けて、声の主を探した。

 声は闇から出ていた。

 漆のような(つや)やかな黒いシルエット。人のようだけれど、とても背が高い。

「おまえらはみんな俺の糧になりな。誇り高き鬼人の霊力になるんだ、有難く思え。」

 そう告げると声の主は片手を翳し、お化けたちをすべて消滅させてしまった。いや吸い取ったのかもしれない。

 ぼうっと枕元の灯りが元に戻った。

 ベッドの裾あたりで人影が動いて、その人はなおも震えている咲乃を振り向いた。

 彼は―――つやつや光る漆黒の髪を足下までなびかせ、墨色の肌をしていた。髪の間からは二本の黒曜石のような角が覗き、口元には小さな牙が光っている。黒ずくめの風貌のうち、瞳だけは金色にきらきらと輝いていた。当然だが人ではない。

「おや‥。おまえ‥。」

 黒鬼は音も立てずにすうっと咲乃に近づいて、いきなり顎を指でつまみ、上を向かせた。長い鋭い爪さえもが黒い。

「へえ‥。なるほどね。美味そうな匂いをそこらじゅうに撒き散らしてるわけだ‥。」

 咲乃はぶるぶる震えて涙をこぼした。

「おまえ、また襲われるぞ。自分じゃわかってないんだろ? 妖しどもにとってこのうえないご馳走なんだってこと。」

 ―――あたしが‥‥ご馳走?

 咲乃は声が出ないまま、彼を見返した。

 金色の瞳がぐっと近づいてきて、囁きかける。

「俺が護ってやろうか‥。どうする?」

「ま‥護ってくれるんですか‥。ほんと‥に‥?」

 涙まじりでか細いながらも、何とか声をしぼり出す。

「その代わり、俺の嫁になれ。そうしたら護ってやる。」

「嫁‥?」

「そうだ。おまえを手に入れれば、俺はもうこんな雑魚どもを喰らわずにすむのさ。」

 黒鬼は咲乃の上にぐんとのしかかり、うんと言え、と促した。

 何だかさっぱり理解できないままに、咲乃は勢いに負けてうなずいた。怖くてたまらなくて、他に答えようがなかった。

 すると黒鬼は咲乃の頭を大きな手でがしっと掴み、いきなり口づけをした。

 伽羅のような香りが濃密に漂い、強く唇を吸われて、咲乃はくらくらと目眩がしてきた。まるで魂を吸われているようだと感じる。このままもしや―――喰われるのでは?

 やっと解放されたと思い、目を開けると、黒鬼は少し背の高い普通の男に変わっていた。

 漆黒の髪は肩くらいまでに短くなり、肌の色は蝋のように真っ白で瞳は夜のように黒い。

「約束したぞ。今夜から数えて七晩通ってくる。七晩目までにおまえの気持ちが変わらなければ誓いは成立だ。いいな?」

 成立するとどうなるの―――咲乃はそう訊ねたかったが声が出なかった。

 黒鬼はにやっと微笑うと、すっと窓の外の夜陰に消えた。


 四宮(よつみや)咲乃(さくの)は両親の顔を知らない。

 育ったのは重要文化財にでも指定されていそうな古い屋敷で、だだ広い敷地の北隅にある離れが物心つく前から咲乃の部屋だった。

 母屋には屋敷の主人である伯父夫婦と祖母がいて、従妹にあたる三人の姉妹はそれぞれ独立した別棟に住んでいる。咲乃の母は伯父の妹で出産後まもなく死んだそうだけれど、父はただいないとだけ聞かされた。

 四宮家は妖し祓いを代々生業(なりわい)とする霊能力者の家系だった。だから従妹たちは当然のように幼い頃から厳しい修業を積んでいる。けれど咲乃には霊力などかけらもなかったので修業せよとは言われなかった。

 伯父は常々、亡くなった咲乃の母と約束したから二十才までは面倒を見てやる、その後はどこへなりとも出ていけ、と咲乃に言っていた。あの家では咲乃は余計者で必要以上には誰とも口をきいてもらえなかったし、無視されていた。

 今年の春、二十になった咲乃は預金通帳一つ持たされて本家を出された。何があっても頼ってくるな、二度と敷居は跨ぐな―――事実上の縁切りだ。

 けれどそれは別に悲しいことではなく、むしろ弾むような気分だったのだ。

 口座には大学を卒業するまで女の子一人が暮らしてゆくには十分な金額の残高があったし、その後はちゃんと就職して普通に生きてゆけるはずで―――自分の家庭だっていつかは持てると考えていた。

 それなのに。

 なぜ急に見えるようになったのだろう、と咲乃は溜息をついた。

 街を歩けば人にあらざるモノがうようよしていた。

 四宮の家で育ったのでなければたぶん、頭がおかしくなったと思って精神科を受診していたに違いない。伯父に相談すれば護符一枚程度で片づく話かもしれないのだけれど、二度と顔を見せるなと言われているため訪ねるのは憚られた。

 今もこうして歩くキャンパス内のそこかしこに、形もないもやもやしたモノが蠢いていて、咲乃を見つけるとざわざわと騒ぎ始める。

 日当たりの良い庭のベンチに腰を下ろし、今朝作ったサンドウィッチの包みを取り出した。膝に広げて、また溜息をつく。

「人間は変なものを喰うんだな。」

 不意に声がして振り向くと、いつのまにか隣に黒鬼がすわっていた。

「それに日に何度も喰ってるし。おまえみたいに温和しげな女でも結構貪欲だ。」

 人懐こくにやっとした顔に、咲乃は思わず赤くなった。

 助けられた夜から昨夜で六晩が過ぎた。

 彼は毎晩宵の口にちらりと顔を出し、約束を確認すると、最初の晩みたいに目眩がするような口づけをして立ち去る。それだけだ。

 こんなふうに昼間に姿を現すなんて初めてだったし、気安く話しかけられるのも初めてだったので、咲乃はどぎまぎして返事ができなかった。

 しかし彼の気配が咲乃の回りに残るせいなのか、あれから蠢くモノどもは遠巻きにして近寄ってこない。怯えている様子がびんびん伝わってくる。

 昼間に堂々と人間に化生できることといい、黒鬼はよほど力の強い妖しなのだろう。

「あの‥。食べますか‥?」

 恐る恐るサンドウィッチを一切れ差しだすと、黒鬼は眉をしかめた。

「いらねえよ。そんな変なもん、喰うわけないだろう。俺は悪食(あくじき)じゃない。」

「ご‥ごめんなさい‥。」

 ならば何を食べるのだろう? 人の魂とかだったらどうしよう、と思えば怖くなる。

 すっかり食欲が失せた咲乃はお茶だけを飲み、サンドウィッチを包み直してバッグにしまった。

 気まずい沈黙が続いた。

 だがこっそり隣を窺いみれば、気まずいのは咲乃だけのようで、彼はいたって暢気に空を見上げていた。日光が苦手ではないらしい。

 横顔をじっと眺めているうちに、咲乃はだんだん何もかもどうでもよくなってきた。

 今夜はいよいよ七晩めだ。いったい何が起きるのだろう? 黒鬼の嫁になるとはどういう意味なのか未だにわかっていないけれど、咲乃は彼にならばたとえ喰われても構わない気がしてきた。どうしてかと言えば―――どうしてだろう?

「おい。」

 不意に振り向かれて、咲乃は跳びあがりそうになった。

「そんなにびくつくなよ。俺はおまえを護ってやってるんだぜ? なんで怖がるんだ。」

「いえ‥そのう‥。怖いわけでは‥。」

 ほんとは怖い。でもなぜかとても惹かれる。たまらないほど惹かれてしまう。怖いのに、怖いから―――抱きしめて欲しい? 咲乃は自分の感情に混乱した。

「ま、いいや。とにかく‥今夜は七晩めだ。約束は憶えてるよな?」

「あ‥はい。」

「よし。じゃあ、月がいちばん高く上った時に誓いの儀式をするから、腹は(から)にして禊ぎをすませておけ。くれぐれも変なもん、喰うなよ。俺が腹をこわす。」

 ああやっぱり喰われるのか、としみじみ思った。

 しかしこちらを凝視する漆黒の瞳に魅入られたかのように、咲乃は陶酔感に酔いしれてうっとりと見つめ返し、うなずいた。よくはわからないけれどこの人の役に立つなら、生まれてきた甲斐がやっとあったというものだ。

 黒鬼は咲乃の頬に軽く触れると、なぜか苦笑を浮かべた。そしてふっと消えた。


 半分に欠けた月が空高く上った。

 言われたように夕食を摂らず、入浴をすませて咲乃は黒鬼を待った。

 禊ぎの意味がよくわからず、自信がなかったので、申し訳程度に水を浴びて白地の浴衣を着てみる。本家で従妹たちが修業する時に身につけていた巫女装束でもあればよかったかと思うが、ないものは仕方がない。

 突然背中がぞくぞくっと粟立った。

 暗闇が―――(つや)やかで美しい漆黒の闇が咲乃の部屋じゅうに立ちこめてくる。

 頬の産毛まで総毛立つほどの圧倒的な霊力。強烈な畏怖と憧憬が咲乃の胸をいっぱいに満たしていく。

 黒鬼は初めての晩と同様に、夜の化身みたいな姿で咲乃の前に現れた。

 咲乃の体は知らず知らず小刻みに震える。

 金色の燃えるような瞳がぐっと近づいて、咲乃を見据えた。

「この姿が真実の俺だ‥‥怖いか?」

 首を横に振るのがやっとで、口がきけそうもなかった。

「震えているくせに‥。まあ、いい。目を瞑っていろ。すぐにすむ。」

 小さな牙が目の前に迫って、咲乃は目を閉じた。訳のわからぬ感情が破裂しそうに高まって、なぜか涙がつうとこぼれた。

「泣くな‥。やりにくい。」

 苦り切った声が耳元で聞こえた。

「め‥目を瞑ってるから‥。お願いだから、あんまり苦しくないように‥。一口で片づけてよ‥。」

 すっかり血の上った頭で、すすり泣きながら咲乃は訴えた。

「‥一口?」

「あたしを‥食べるんでしょ? あたし‥あなたになら食べられても‥‥」

 構わないの、と続けようとした時、黒鬼の気配がすうっと離れた。

「喰う‥? おまえ、ずっとそう思ってたのか。」

 怒りに満ちた冷ややかな声に、思わず顔を上げ、彼を探した。だが黒鬼の姿は闇に紛れて見えなかった。

「俺は物の怪じゃない。人など喰らうものか、見下げるな。おまえの霊力が人にしてはずば抜けて高いから、契りを結んで傍におこうとしただけだ。‥‥まったく人というものは浅はかで‥無知で愚かで、つくづく嫌になる。」

「待って‥怒らないで、お願い‥。」

 咲乃は暗闇に手を差しのべて、必死になって彼を探した。しかし気配は次第に薄くなる。

「もういい。わかっていなかったのなら約束は無効だ。」

 その言葉を最後に(つや)やかな暗闇はかき消えた。

 後には暗い窓硝子に、茫然とたたずむ自分だけが映って見えた。


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