第二章
鳥島祐一は向かいにすわっている女を、もう一度つくづくと眺めた。
「では‥そのう‥。長谷部遼一という男の浮気調査を依頼したいと仰るわけですね? ご主人ではなくて?」
「主人は浮気しているに決まってますもの。今更お金をかける必要もありませんわ。」
贅沢な服に包みこまれた小太りの体を軽く揺すって、依頼者である夫人は微笑んだ。
笑う要素など何もない話だったが、彼女は言葉を発する時には微笑むものと躾けられたらしく、先刻から常に微笑んでいる。四十五という年齢より確実に十は老けて見えるのも、やけに古くさい髪型と服装のせいだった。まあ、良家の奥方であるのは間違いなさそうだ。
ちらりと夫の職業を確かめると不動産業と書いてある。
「で‥。長谷部という男と奥さまの関係はどのような‥?」
「関係だなんて‥。時々買い物につき合ってもらったり、お茶を飲んだりするだけです。やましい間柄ではありません。」
夫人はきっぱりと言った。
「はあ‥。ですが浮気調査と言われるからには、長谷部に奥さま以外の女性関係があるかどうかを調査せよというお話なのでしょう?」
「そうですの。体の‥そのう‥か、体の関係がなくても恋人は恋人ですわねえ? 忙しいのはわかりますけど‥。最近、何だか疎遠な感じで‥。」
ぽおっと小娘のように頬を赤らめて、夫人はまたもや微笑んだ。
「それで他に女ができたのではないかと、そういうことですか‥。なるほど。」
一応客なのだからあまり失礼になってはいけないと頭ではわかっているが、実のところうんざりし始めている。
ここは『アスカ探偵事務所』というちっぽけな探偵社の応接室である。
鳥島は半年前までは所轄の刑事だった。昨年の暮れに大きなヤマをふみはずして署にいづらくなったため、警察を辞めて『アスカ探偵事務所』の探偵に鞍替えした。それ以来、浮気調査専門でばりばり―――まあ精力的に仕事をこなしている。
別にやさぐれているわけではないし、浮気調査だって人の役に立つ場合もあるからやりがいが全然ないわけでもない。三十を過ぎてなお独り身の鳥島にはよく理解できない話も多いが、所詮は他人事だった。そういう意味で至って淡々とこなしてきたのだが―――今までは。
長谷部遼一は絵画や美術品のセールスマンだそうだ。
美術商なのかと問えばどうやらそうではなく、販売会社と契約しているフリーのセールスマンだという。
夫人の話によれば、有名絵画や骨董品のレプリカをレンタルで会社のロビーや自宅に飾るというビジネスが存在していて、レンタル会社は年に二回、何年か使用した商品を特価で販売するイベントを開くのだそうだ。
鳥島は知らなかったがきちんと造られたレプリカというのは、本物じゃないのに何百万もするものがざらにあるという。それが数十万単位で買えるのだから、と客の方も結構喜んで参加する。ところが出品されるのは必ずしも誰もが知っているというような品ばかりとは限らず、無名の作家の小品なども混じっていた。
長谷部はなかなか買手のつかないそういった品々まですべて捌くプロらしかった。
夫人も長谷部に勧められて、数十万の小品を五点購入している。
彼は夫人の着ていた服の色から、あなたの居間にはこういう品がとってもお似合いですよ、と言ったそうだ。そんな程度なら鳥島でも言えそうだと思うのだが、夫人はうっとりとした顔で完全否定した。
「わたしの部屋など見てもいないはずなのに、あの人の言葉を聞いていると誂えたかのようにしっくり思えてくるのです。それでね、言われたとおりに家に帰って飾ってみましたら、まあ‥! ほんとうに素敵になったの。」
電話がかかってきたのはその後だそうだ。上品な笑顔が忘れられなくて、と口説かれたと夫人は再び頬を染めて語った。
詐欺師の典型的な手口だろうに、と思う。なぜひっかかるのかと内心苛立たしい気分だが―――わからなくもない。この夫人は十中八九、恋愛の一つもしないままに親の勧める相手と結婚したのだ。品がいいのはほんとうだが、有り体に言えば彼女には他に取り柄はない。頭も大して良くなさそうだし、悪い人ではないのだろうが格別にいい人ともみえない。お金だけは持っていそうだが、他人に施すタイプでもない。
長谷部は彼女が今まで出会った中でとびきり魅力的な男だったのだろう。案外と彼女のほうも金で買えると踏んだのかもしれない。
「それで‥。参考までにお訊きしますが、おつき合いを始めてから長谷部から何か購入しましたか? あるいはプレゼントなさったとか‥。」
「いいえ。プライベートのおつき合いですから。それにあの人はお金には困っていませんのよ。高額商品のトップセールスマンですもの、収入は相当にございますわ。プレゼントなら、わたしの方がしていただいたの。‥‥お金目当てなんかじゃないんです。」
見栄を張って嘘をついているのかと窺い見たが、どうやら本気で言っているようだ。
鵜呑みにするならば―――まさしく恋人の浮気調査なのだが。聞けば聞くほど阿呆らしく思えるし、違和感が拭えなくなる。
夫人には追って連絡するからと丁重に断って引き取らせた後、もう一度考えてみる。
たとえば夫人の夫が離婚したくて雇ったのならば、最低でも貢がせるだろう。もしかしたら肉体関係がないというのは嘘かもしれない。彼女は保身を気にするタイプだし、こちらに全部真実を話すとは限らないだろうから。
「依頼されたことだけやってりゃいいんだが‥。」
仕方がない、これも性分というやつだ。鳥島は溜息をついた。
件のレンタル会社での長谷部遼一の評判は悪くなかった。
鳥島は化粧品の販売会社より調査を依頼されたとのふれこみで話を聞いたのだが、予想に反して担当者は手放しで褒めた。
「一年前から都合三回お願いしているのですが、おかげで常に完売です。後で返品になるようなトラブルも一度もないですね。ビジュアル的に女性のお客さまに人気なのはもちろんですけど、専門知識も豊富なので年配の男性にもたいへん評判が良いのです。」
連絡先を教えてもらえるかどうか訊ねたところ、彼はあっさりと名刺をコピーしてくれた。
そこには人材派遣会社アンジュ、長谷部遼一と記されている。
「彼は他にも宝石とか毛皮とか単価の高い商品ばかり、それもイベント中心で請け負っているみたいですからね。そちらさまの依頼者は化粧品会社でしたよね? 請けてくれるかどうかは微妙なところじゃないですか? ‥あ、報酬は売上高に応じた歩合制で、アンジュに入金するんです。一ヶ月以内に返品があった場合は損金を負担するというのですから、相当な自信でしょ? でも今まで一度もないんです。」
さすがに歩合の率までは教えてくれなかったけれど、担当者は長谷部遼一に対して非常に好感を持っているようで進んでいろいろと話してくれる。
やがて十分情報を得たと判断した鳥島は慇懃な態度で礼を言い、美術品レンタル会社を辞した。
どうもちぐはぐな感じだ。描いていたイメージと担当者の話す人物像とがまったく重ならない。写真でもあればもう少し理解できるのかもしれないが、あいにくなかった。浮気調査の場合、写真は通常依頼者が用意してくれるものだが、あの夫人はそこまで気が回らなかったらしい。もしかしたら持っていないのかもしれなかった。
名刺には事務所の住所はなく、メールアドレスと電話番号だけしか載っていない。
電話番号は携帯ではなかったので、早速かけてみると人材派遣会社アンジュの番号らしかった。留守電になっていて、名前と電話番号を録音すれば後で連絡すると丁寧な口調でメッセージが流れる。仕方なく鳥島は本名を名のり、さる化粧品会社の代理人として長谷部遼一と面会したい旨を録音した。
アンジュのマネージャーを名のる男から連絡があったのは翌日だ。
彼はマネージャー一人で切り盛りしている小さな会社なので連絡が遅くなったと詫びを言い、名刺に住所がないのも事務所を構えているわけではなく、主にメールと電話でやりとりをしているためだと素人っぽい口調で説明する。
更に長谷部に会いたいと言えば、すんなり許可が出た。
「ただいまのところスケジュールの都合がつくのは明後日の夕方になりますが‥。」
「結構です。ご多忙のところ無理を言いまして恐縮です。」
電話口の男は耳に心地よい柔らかな声で、いえいえ、と答え、時間と場所を指定してきた。時間は午後六時、場所はオリエンタル東京のロビーだ。
「長谷部はそこで五時までジュエリーの会員販売に携わっております。多少遅れるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。」
承知しました、と言いおいて電話を切った。
今のところ怪しい気配はなかった。胸にわだかまる疑念はいったいどこから湧いてくるのか。鳥島は何となく、溜息をついた。
翌日鳥島は例の宝石の会員販売とやらの会場を終日見張っていた。長谷部遼一の行動をチェックするためだ。
販売が終了したのは午後八時。長谷部が出てきた時は既に午後九時を回っていた。
それから彼はホテルの前から銀座まで十五分ほど歩いて地下鉄に乗りこんだ。
ドア付近に立ってただぼんやりと窓硝子を見ている様子を、隣の車両から窺いつつ、鳥島はじっくり長谷部遼一という男を観察してみた。
真っ黒な髪をきちんと整えて細身の上質なスーツを身につけ、端正な顔立ちによく似合うブランドものの眼鏡をかけている。セールスマンと聞いて漠然とイメージしていた印象とはかなり違い、どちらかと言うと育ちの良い良家の子息という感じだ。
昼間も何度か客を送ってロビーまで出てきていた姿を目にしたが、セールスマンが上客を送ってきたふうな腰の低さは微塵も感じなかった。まるで父母の友人をエスコートしているお坊ちゃんみたいな鷹揚さが、話し方にも物腰にも漂っていた。鳥島には意外で不思議な感覚だ。あれで一日何千万と売り上げるのかと思えば余計にそう感じる。
だが何より意外だったのは彼が非常に若い点だった。
やっと二十五を過ぎたかどうか、というくらいだろう。依頼者の夫人の話をを聞いていた時に想像していたのは三十半ばくらいの渋い二枚目だ。まさかこんな坊やみたいな男だとは思わなかった。
会社帰りらしい数人の女性たちが、長谷部を見て何か囁き合っている。しかしそんな視線には慣れているとみえ、まったく微動だにせず窓硝子を向いたままだ。
月島で降車すると彼は五分ほど歩いて、真新しいマンションに入った。
ここまで携帯を出す素振りさえなかったので恐らく自宅なのだろうと思われるが、念のためにもっともらしい理由を拵えて、今入っていった男はここの住人かと管理人に尋ねてみた。すると気の良さそうな初老の管理人はあっさりとそうだと答えた。
「ここって家賃はかなり高いでしょう? あんな若い人もいるんですね。」
「あの人はご友人と三人でルームシェアってのをなさってるんですよ。それにお家がいいらしいから、大したことないんでしょう。」
「ふうん‥。」
実はね、と鳥島はそこで身分証を出して見せ、縁談の調査なんだがと断って女性の出入りはどうかと訊ねた。
「あるわけないでしょうが。一人で住んでるわけじゃないんだからね。」
管理人は呆れたと言わんばかりに答えた。
「なるほど‥。そうでしたよね。」
常時複数の女性関係があるとすれば、自宅は明かさないのが当然だろう。夫人だって長谷部がどこに住んでいるのか知らないと言っていた。
今のところ彼の浮気―――といって妥当ならば―――の気配はない。女が放っておかないタイプではあろうが、がつがつした生臭い感じは微塵も窺えない。むしろ清潔な感じだ。
だとすればやはり夫人の夫の依頼だろうか。
もちろん財政事情は調べてみなければわからないものではある。だが一日で数千万稼ぐ男がそんな下らぬ仕事に手を出すだろうか?
地下鉄の駅まで戻る途中、川からの風にあおられてふと立ち止まった。
女はいなかった、ただひどく多忙なだけだ―――適当に書類を作ってそう報告してしまおうか、と心底思う。
だいたい彼女は長谷部に女がいたらどうするというのだ? お茶を飲む程度の交際相手に深い関係の相手がいたら真の恋人はそっちの女だ。世間の常識ではそうなるのだから突き詰めない方があなたのためですよ、と言ってやるべきかもしれない。
再び歩き出しながら、鳥島は首を振った。
依頼者はうんざりするような女だが、彼女が遅く訪れた淡い恋情をとても大切に思っていることだけは事実だ。
色っぽい話とは無縁で過ごしてきた鳥島にも、一度だけそんな気分に浸った時期があった。その女には結局ひと言も、仄めかすことさえできずに終わったが、今から思えばあれは恋だったのだろう。
お茶を飲む程度だから体の関係のある相手より想いが劣るとは限らない。
面倒くさがらずちゃんと調べてやろう、と鳥島は思い直した。
しかし調査を進めると鳥島の長谷部に対する印象は少し変わった。
長谷部遼一は住民登録をしていなかった。納税記録も見つからない。マンションの管理会社に問い合わせてみたところ、部屋はアンジュの名義で契約されている。同居人はやはりアンジュの社員で佐山徹という国籍不明の男だ。
夫人が彼から聞いたという出身大学にも長谷部遼一の記録はなかった。
偽名かそれとも仕事上の名前なのか。会ってみてからもう一度調べてみようと考えて、鳥島はオリエンタル東京のロビーへ向かった。
時間どおりに現れた長谷部は昨日と違って眼鏡をかけていなかった。近くで見ればやけに瞳が黒い。彼はにこやかに挨拶してきたが、その漆黒の瞳は笑ってはいないようだった。
「ぼくに何か訊ねたいことがあるそうですね。何でしょう?」
化粧品会社うんぬんという言い訳を持ち出すと、彼は鷹揚な微笑を浮かべた。
「契約条件とかはマネージャーと交渉してください。スケジュールもね。ぼくは言われた場所に行って言われた仕事をするだけですから。」
「なるほど‥。長谷部さんの実績は素晴らしいですけど、商品などによっては得手不得手もあるでしょう? そのあたりは注文をつけたりしないんですか?」
「正直なところ、どんな商品でもある程度売る自信がありますよ。ただ‥説明が必要な商品で、クローズした空間の方がより得意ですね。クライアントの方もよくわかってくださっていて、そういう場合に呼んでいただく機会が多いです。」
うなずきながら、鳥島は商品知識はどのようにして得ているのかと訊ねる。
長谷部は再びおっとりと微笑した。
「もちろん基本はクライアントさんからいただくのですよ。事前に勉強する場合もありますけど。打ち合わせの時に期待されている数字なり内容なりを把握できれば、必要な下準備は十分行います。ご安心いただきたいと依頼主には仰ってください。」
ええ、と答えてメモを取り、更に二、三のあたりさわりのない質問をした。あくまでも化粧品会社の代理人としてである。
「ちなみに今日の売上額など伺ってもよろしいですかね?」
「ぼくの口からはちょっと‥。クライアントさんの許可がないとね。」
微笑いながら答えて、長谷部は腕時計をちらりと見た。
「このあとお約束でも? デートですか。長谷部さんは女性にもてそうだから、大変でしょうね。」
「そうでもないんです。おかげさまで仕事のスケジュールがびっしりなもので、逆にプライベートの時間が取れなくて‥。うまくいきかけては振られちゃうんです。仕事を優先する男はだめみたいですね。」
苦笑した顔には、わざとらしい感じはない。仕事の話をしている時と違って大学生みたいな初々しさが漂う。
鳥島はにっこりと笑いかけた。
「じゃ、今日の相手に振られないように早く切り上げましょう。最後の質問ですけど‥。長谷部遼一さん。あなたの本名は何ですか?」
長谷部は微笑を引っこめもせず、動じることなく鳥島を見返した。
「それもクライアントさんからの質問ですか? まあ‥企業秘密ということでお願いしますよ、鳥島さん。」
そして彼は約束があるからと立ち上がり、優雅な物腰で会釈を残して立ち去った。
二日後、長谷部遼一に関する調査は打ち切りとなった。
夫人がキャンセルしてきたのである。恐らくそうなるだろうと予想していたので驚かなかった。
長谷部との会談後、鳥島は当然ながら彼のデートの相手を確かめるべく尾行した。その結果待ち合わせのバーで待っていたのは何と当の夫人だったのだ。
夫人は見ている方が恥ずかしくなるほどあからさまに嬉しそうな顔で彼を迎えた。だが何より鳥島を驚かせたのは長谷部が彼女に向けた表情だった。
―――本気なのか?
深夜事務所に戻ってきてからも軽いカルチャーショックが抜けなかった。
あれほど幸せそうな優しい表情が、男の顔に浮かんだところなんて初めて見たと思った。
少なくとも鳥島はもちろん、鳥島の知人友人を見回しても見た記憶がない。
演技ならば稀代の名役者だろう。物陰から様子を窺いつつ、あの夫人にももしかしたらすごく可愛いところがあるのかもしれないと真剣に考えてみたくらいだ。
すっかり毒気を抜かれた形で鳥島はばかばかしくなった。
仕事だから仕方なく二人が別れるまでずっと見張っていたのだが、中学生の初デートだってもう少しくっつくんじゃないかと思うほど礼儀正しいデートだった。最後に手を繋ぐのが精一杯で、それだけで夫人は卒中でも起こしかねないほど赤くなっていた。
―――幸せなんだな。
今思い返しても、感想はただそれだけだ。だからキャンセルしてきたのは当然に感じた。会えなくて不安に思っていただけなのだろう。ばかばかしい、と再度思って力が抜けた。
だが逆に長谷部遼一という男に猛烈には興味が湧いた。
ただの熟女フェチの変わり者なのだろうか。そうじゃないだろう、と勘としか言い様のない想いが胸の奥でちくちくする。
冷めたコーヒーをすすって、ふと鳥島は一人の女の面影を思い浮かべた。