第十五章
四宮瑞穂は朝の庭に立ち竦んで母屋をじっと凝視していた。
広大な屋敷全体を覆いつくす不穏な気配はさっきからどんどん大きくなっている。明らかに異常だった。瑞穂は必死で父母と祖母の気配を探したが、別の甚大な霊力にかき消されて感じ取れない。
瑞穂の背後にはいつのまにか、妹たちや家人が集まってきていた。
「瑞穂‥。あの霊気は何なの‥?」
花穂の声は泣き出しそうに震えていた。
「霊気って言うより霊圧ね。なんて凄まじい‥! ‥咲乃の彼氏と似てる。」
瑞穂は努めて冷静に答えた。
ほんとうは心臓が爆発しそうだった。だが祖母の安否が不明な以上、今ここにいる者たちを守るのは次期当主である瑞穂の役目だ。泣くわけにも逃げ出すわけにもいかない。
瑞穂は振り返って、家令の磯貝に全員を集めて禊ぎ場へ行けと命じた。
家人の中には能力者でない者も多い。だから能力者たちが力を合わせて結界を張り、事情が判明するまで籠もっているように、と。
なまじわずかに霊力がある者たちはさきほどから怖くて仕方がないようで、腰を抜かしかけている者も多かったが、瑞穂の冷静な声に励まされて立ち上がった。気を取り直して、常人の家人たちを急きたて、禊ぎ場へと向かっていく。
瑞穂は妹たちにも行けと命じたが、花穂と早穂は顔を見合わせて首を振った。
「あたしたちだって四宮の女だもん。瑞穂と一緒にいる。それに‥これがほんとうに咲乃の彼氏なの‥?」
瑞穂は花穂の顔を見返してわからない、と答えた。
「似てはいるけど‥あの時はもっと清浄で凛とした感じだった。今感じてるみたいに禍々しくはなかったよ。だけどこんな非常識な気が二つとあるとも信じられないし‥。それにね、中に幽かに咲乃の気を感じるの。咲乃と‥咲乃によく似た強い霊力。」
恐らくこれが四宮紫なのだろうと瑞穂は確信していた。
早穂は今にも泣き出しそうな瞳で無理に笑みを作り、姉に向かって学校は、と訊ねた。
「もう九時になるよ? 今日は学校に行けないか‥。当番なのにな。」
瑞穂は早穂の手を握って頬笑んだ。
「そうだね‥。この霊圧じゃ、門から外へは到底出られないよ。ここの敷地内全体が今のところ異次元状態だからね。」
それも本家の結界が保っている間だけだ、と瑞穂は唇を噛みしめた。
四宮の名にかけて、こんなものを外に出すわけにはいかない。といって成年に達していない瑞穂たち姉妹に何ができる?
瑞穂は決断した。
「母屋に入って‥お祖母さまを探す。」
「お祖母さま‥無事かしら?」
「あの婆さんがそう簡単にやられるはずないよ。だけどいくら四宮泉でも、こんなバカげた巨大な力に一人で対抗できっこない。あたしたちが助けてやるしかないでしょ。で、恩に着せて‥来月からお小遣い倍増。どう?」
瑞穂はかなり無理してにまっと笑った。
花穂と早穂は青ざめたまま、それでも強くうなずいた。
「よし。じゃ、入るわよ。はぐれないよう、気持ちを合わせて。」
三姉妹は顔を見合わせると、轟々と渦巻く霊気の中へ一斉に走りこんでいった。
母屋の中では弱っている亜沙美を抱えて、咲乃が出口を探していた。
だがなぜかどこへ逃げても堂々めぐりで、出てきた穴に戻ってきてしまう。玄関にも勝手口にも、それどころか庭に面した回廊や縁側にさえたどりつけない。
「だめだわ‥。どうしてこんなふうになっちゃったんだろう?」
「誰かが迷路の幻を作っているのよ‥。兄さんの霊力は取り戻してしまったから、別の誰か‥。でも‥四宮の力じゃない。」
きっとあの白い鬼人だ、と咲乃は考えた。
だとすればこの迷路は自分に対する罠かもしれないと思う。ちらりと亜沙美を見遣れば、何度も吐血したせいで口元から胸元まで赤黒い染みが広がっていた。顔色は真っ青だ。
「とにかく‥ちょっと休まなきゃ‥。」
咲乃は客間に入りこんで押入を開け、座布団を引っぱり出すと亜沙美を横たえた。
ここが母屋ならば伯母か祖母がどこかにいるはずだった。けれど咲乃を助けてくれるとは思えない。四宮本家に咲乃の味方はいないのだ。
煌夜、と咲乃は心の中で名を呼んだ。また泣きそうになる。
咲乃は唇をぎゅっと噛んで涙をこらえた。煌夜はきっと生きている。だから咲乃も諦めてはいけないのだ。再び彼に逢うまでは何としても逃げのびなくてはならない。
「そうだ‥。さっき助けてくれた黒猫さん。どこに行っちゃったのかな‥?」
「あの黒い影みたいなモノ‥? あれは猫だったの?」
「お母さんの猫だったのでしょう‥。憶えてない? 二十年前墨染鼠になって、あたしをずっと見守ってきたと言ってた。でもこの間、鼠さんは殺されてしまって‥仔猫に戻っちゃったの。とっても力が弱くて煌夜の霊圧で消えちゃいそうだったから、『懐古堂』さんに引き取ってもらったんだけど‥。お母さんに会いに来たのかなあ?」
「‥‥そう言えば昔、仔猫が迷いこんできて‥内緒で飼っていたのだけど‥。わたしの近くにいたせいで、妖力がついてきてしまって‥。四宮の敷地内では物の怪はすべて祓われてしまうから、嫌だったけど使役印をつけなきゃならなかったのを憶えてる。‥その仔なのかしら‥?」
たぶん、と咲乃は答えた。
彼女は何とか猫の名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。紫の記憶はひどく曖昧で、ところどころ亜沙美と混じっていたりもするらしい。
咲乃は亜沙美の背中をそっとさすりながら、思いつきを口にした。
「黒猫さん、もしかして『懐古堂』さんに知らせてくれたかもしれない。うまく逃げていたらだけど‥。そしたら助けを呼んできてくれるかも。」
咲乃にも白鬼を何とかできる人間などいないとわかっていたけれど、茉莉花なら何か方策を持っているのではないかと思った。それに彼女は―――味方になってくれる人だ。
その時。やっと浮かんだ淡い希望を打ち砕くように、目の前の壁がぐらぐらと歪んだ。鋭い笛の音が響き渡って、天井が音を立てて崩れてくる。
咲乃は亜沙美に覆い被さるように抱き合って、目を閉じた。
四宮泉は目の前の息子の変わりように愕然としていた。
この一年、何かに取り憑かれているのではと感じることがなかったわけではない。だが気のせいだと信じたかった。
泉にはついぞ持てなかった普通の人間の感覚を備え、いつも平静さを失わない。ある意味で泉にとっての常識の基準とも言える自慢の息子。それが四宮史だ。なのに彼が心にこれほど深い闇を抱えているとは―――今の今まで気づかなかった。
史は人にあらざるモノの妖力を自分の身に憑依させたらしく、髪は真っ白で口元に牙が覗いていた。目は血走って、時折金色に光る。
救える可能性を探して先ほどよりずっと観察しているのだが、既に魂は半分以上喰われてしまっていた。今日の今日、喰われ始めたわけではないらしい。仮に浸食している妖力を剥がせたとしても、彼の命は保ってひと月というところか。下手をすればその場で死ぬ。
泉は深い吐息をついた。
哀れだが自分の手で送ってやるしかない。紫の時も思ったが、自分がこの世に生みだしたのだからせめて最期も自分の手で始末をつけてやるのだ。それが母としての責任だ。
懐から家宝の龍笛を取り出す。
龍笛は四宮本家に代々伝わる術具の一つである。他には箏と鼓がある。いずれも霊力を音の波動に変えて、時に闘いの武器となし、時に守護の結界とするための道具だ。
泉が受け継ぐ前は同じ笛でも篳篥だった。その前には笙の形をしていた時代もあるという。能力者の個性に合わせて変化する術具なのだ、と母は教えた。
龍笛を目にして、史はにやりと笑った。
「なんと。わたしを封じるおつもりか‥。なぜです、お母さん。わたしが強大な力を手に入れたのを喜んではくれないのですか? 今のわたしならば夜鴉一族を東京の夜から一掃するのもたやすいというのに‥。それがあなたの望みだったのでしょう?」
「史‥。おまえ、初穂をどうしたの? 自分の妻を殺したのか‥。」
泉は龍笛を低音で鳴らし、身の回りに結界を築きつつ訊ねた。
「殺しはしません。眠っているだけですよ。いつ目が覚めるかはわかりませんが‥。あれには四宮の力はほとんどありませんからね、すぐには必要ではないのです。わたしの欲しいのは紫と咲乃の力だったのですが、紫はだいぶ消耗してしまっているので‥。お母さんがわたしに敵対すると仰るなら、紫の代わりにお母さんの力をいただきましょうか。」
「哀れな‥。おまえがそれほど四宮の霊力を持ちたがっていたとは‥わたしはまるで知らなかった。」
龍笛の音が次第に高くなって、小さな渦をいくつも作り始める。
史はまったく警戒していなかった。ただ泉を見遣って、蔑みの目を向けただけだ。
「あなたに今更見くだされる筋合いなどない。四宮はとうに力では夜鴉に太刀打ちできなくなっていたのに、あなたはずっと現実から目を背けてきた。‥それでもわたしはあなたに従ってきました。なぜかわかりますか? ご自分しか見えないあなたが哀れだったからですよ。わたしが支えてあげなければ四宮など砂上の楼閣に過ぎないと、誰よりわたしが知っていたからです。」
半分鬼に変貌した顔で、四宮史はからからと笑った。
その笑顔に向かって不意に霊力の刃が無数に、雨のように降り注ぐ。舞い狂うような激しい笛の音が鳴り響き続ける。だが乾いた笑い声は途切れなかった。
「‥‥無駄ですよ。所詮人の霊力など、人外の力には遠く及ばぬ。あなたの悲願はわたしが叶えてあげます。素直にその力を手放しなさい‥お母さん。」
荒い息の泉が見たのは、攻撃をすべて吸収してますます化け物に近づいている史の姿だった。
胸にかかった二連の数珠の真ん中で、ひときわ大きい水晶珠が輝いている。
どうやらあの珠に霊力を喰わせているらしい、と悟った時には遅かった。たった今自分が繰りだした刃が返ってきて、泉を襲った。
防御の結界は既に張りめぐらせていたとはいえ、まったくの無傷ではいられず、泉は自分の霊力のかなりの部分を削り取られてしまったのを感じた。
何が霊力を吸収しているのか―――あの水晶珠が直接吸い取っているのか?
低い、微かな音を鳴らして火花程度に霊力を飛ばしてみる。火花は一瞬きらめいて、すぐに見えない壁に当たって消えた。どうやらこの空間自体が既に封印術の中のようだ。
術を破るにはこの空間を切り裂くか、術者を斃すしかない。
泉は即座に覚悟を決めた。
龍笛がうなり始め、霊力が渦を巻いて泉の回りを包みこむ。
「四宮泉ともあろう人が、無駄だというのがわからないとは‥。わたしにはあなたの攻撃はきかないのですよ。」
「この屋敷全体を禍々しい牢屋にしたのだろう? 愚かな‥。おまえは自分が利用されていることにすら気づかないのか。」
そう言うと泉は、同時に四隅の柱と床柱に霊力で作った斧を撃ちこんだ。
二箇所は幻影だったらしく空を切ったが、床柱を含む三箇所には斧がめりめりとのめりこむ手応えを感じた。
そのまま泉は攻撃の手を緩めずに龍笛を鳴らし続ける。音色に合わせて斧は次々に、屋敷じゅうの柱という柱を破壊し始めた。
「屋敷を壊してしまえば牢屋は消滅する。簡単な道理だ。」
「気が狂ったのですか‥? 母屋は五百年もの間、四宮本家を守ってきた‥‥国から重文指定を受けているほどの建物ですよ?」
泉は苦笑いを浮かべた。
息子は―――目の前の半妖の中にまだ残っている。
「史‥。ならば四宮五百年の結界を逆手に取って、物の怪の巣に造りかえてしまった責任は誰にあるの? この屋敷とともにたとえ四宮が滅びようと、おぞましい物の怪なんぞにこの先力を利用され続けるよりは、ずっとましだとわたしは思うよ。」
龍笛のうなりが鳴りやまぬ中で、天井ががらがらと音を立てて崩れ始めた。
重たくのしかかっていた霊圧が少しだけ揺らいで、泉はようやく屋敷の中に自分と史以外の気配があるのを感知した。
すぐ近くに二つ。一つはかなり弱まっているけれど紫に違いない。
紫は―――霊力を取り戻したようだ。だがあの体では時間の問題だと泉は思った。何の罪もない無関係な女性を犠牲にして、葛城が紫を生き返らせたと聞いた時には激怒したけれど、今から思えばそれも史の背後にいるモノの仕業か。
紫を庇っているのは咲乃なのか? 考えていたより遙かに強い、清浄な霊力だ。
咲乃を跡継ぎとして修業させておけば―――四宮泉は生まれて初めて後悔という感情を噛みしめた。
更に離れた場所に三つ。こちらへ向かって移動中だ。奇しくも四宮の霊力がすべて、崩壊しつつある屋敷内に集まってきていることになる。なんと皮肉な縁なのだろう。
泉は再び苦笑した。
今しがた自分の思い浮かべた言葉から、縁という言葉を口癖にしていた男を思い出したからだ。彼は人間としてただ一人、泉を凌駕する霊力を持っていた人だが、その力は闘うのにも守るのにも向いていなかった。ただ―――縁を結ぶためだけに在る力だった。
七つ年上のその男が分家から泉の婿候補として本家に呼ばれたのは、泉が十三の時だ。
身に纏う霊力のせいか人間離れした美貌を備えていて、いつも遠くを見はるかすまなざしは冷たく、寡黙で他人を寄せつけなかった。なのにほんの時たま浮かべる微笑に惹きつけられてしまう、そんな不思議な雰囲気の男だった。
彼はほんの半年程度いただけで、ある日冷めた目で泉を見据え、本家の遣り方は気に入らねェ、と言い放ってそれきり姿を消してしまった。後になって破門されたと人づてに聞いたけれど、彼自身からの説明はひと言もなかった。許嫁のつもりでいたのは自分だけだったかと思えば無性に腹が立って、以来噂を聞いても無視し続けてきた。
あれから既に六十余年。三年前にはこの世の人でなくなったと聞いた。
四宮の崩壊する轟音の中で、今更あの男を思い出すなんて。
史がすうっとどこかへ消えたのを横目で見ながら、泉は動かなかった。
あの男の口癖を真似て言えば、腹を痛めた我が子たちとさえ縁を結べなかったということになるのだろう―――この手で始末するのを許されないほど、薄い縁。
泉は防御結界に使っていた霊力をも、屋敷の破壊へと回した。
倒壊は更に加速されて、無数の瓦礫が立ち竦んだ体の上にばらばらと降り注いだ。痛みを感じる暇もなく、意識が暗闇へと落ちていく。遠くで微かに鈴の音が鳴った。
咲乃は自分と亜沙美の周囲だけよけて落ちる瓦礫や板を眺め、頭の中が混乱していた。
てっきり紫がまた結界を張ってくれたのだと思っていたのに、気がつくと彼女はほとんど意識がない。
「な‥なんで‥?」
思わず独り言がこぼれた。結界を張っているのは―――どうやら自分らしい。
鈴の音が聞こえた気がした。
咲乃は亜沙美をしっかり抱え直し、呆けている場合じゃないと気を引き締めた。
何が起きているのかはわからないが、迷路の幻は消えかかっているようだった。聞き間違いではない、あの鈴の音は確かに茉莉花のものだ。彼女の気配がゆっくりと近づいてくるのが感じ取れる。
―――煌夜。あたし、気配を感じ取れるようになったよ。だから‥早く来て。
心の中でつぶやき、ぎゅっと唇を引き結ぶ。体に力を入れていないとまた泣いてしまうからだ。
「泣きたいんだろう? 泣いちゃえばいいのに。」
不意に耳元で声がした。
恐怖で体がぶるぶる震えた。忘れたくても忘れられない、この感じは―――白鬼だ。
「こっちにもうすぐ史が来る。咲乃ちゃんの霊力が欲しいらしいよ。婆さんのを半分しか奪えなかったから、ちょっと腹を立ててるねえ‥。」
「お‥祖母さまの‥?」
思わず振り向くと、白鬼は人の姿でうん、とにっこり頬笑んだ。
姿だけ見れば、白いTシャツにジーンズを履いた二十代後半くらいのごく普通の男だ。だが気配が怖い。七月だというのに、氷室にいるような底冷えを感じる。
「あの婆さん、なかなか潔いよね。せっかく俺がこの屋敷を臥籠に造りかえてさ、雛鳥ちゃんたちを誘いこんだのに‥。迷わずぶっ壊しちゃったよ。まあ俺は構わないけど。」
では祖母は伯父の凶行に荷担していたわけではなかったのだ、と咲乃は少しだけほっとした。
「ね。一生懸命庇ってるけどさ、その女はもうだめだよ。霊力が失われちゃったから体も限界だし、魂の方も消滅寸前だ。もし俺がこの距離で本来の姿になったら、それだけでかき消えちゃうだろうね。」
「やめて‥! お願い、そんなことしないで‥。」
咲乃は怖さも忘れて懇願した。
白鬼はにやりと笑った。そして咲乃の顔を両手で挟み、耳元に囁く。
「咲乃ちゃんが俺の願いを聞いてくれるなら、助けてやってもいいよ?」
「ね‥願い?」
「そう。俺のものになれよ。そうしたら史を止めてやる。この場所に城を築いてさ、四宮や夜鴉どもの代わりに世の中を支配するんだ。考えただけでわくわくするだろ?」
「いえ‥全然‥。」
白鬼は訝しげに眉を顰めた。
「嘘つくなよ。四宮の連中にも世間の人間どもにも、あんた、ずいぶんと苛められてたじゃないか。見返してやったらいい気分だと思うだろ?」
「あ‥あたしは‥。別に不幸じゃなかったから‥。」
「じゃ、なんで泣きそうな顔してたんだ? 史に捕まりたくないからじゃないのかよ?」
咲乃はうつむいて唇を噛んだ。
―――あたしはただ‥煌夜にずっと傍にいてほしかっただけ。
そうだ。煌夜がいてくれれば他には何も要らなかった。なのに彼はこの男に―――胸に憎悪の火がともる。暗い、悲しい炎が瞬く間に燃え上がる。
白鬼はふふっと微笑して、咲乃の顎をつかみ、上向かせた。
「いいねエ‥その眼。俺が憎いだろう? もっともっと憎めよ。黒鬼は俺が殺した。どこにもいないんだぜ? ほら、体じゅうで憎みなよ。殺ったのは俺で、命じたのが史だ。」
いけない、と亜沙美が朧な声で咲乃を引き留めた。
しかし咲乃の胸から溢れだす憎悪の黒い炎は、咲乃自身の心を呑みこんでしまう。
―――煌夜が‥‥どこにもいない。ほんとうは知っていた。
その時、鈴の音が凛と響いた。
歪んだ空間の隅々にまで清冽な気がしみわたって、心の内に茉莉花の声がよみがえる。
―――迷ったら黒鬼さんを信じなさい。あなたの選んだ人を。できますね?
咲乃の目に透明な涙があふれた。
煌夜は生きている。咲乃が信じれば、必ずまた逢える。憎しみに惑わされてはいけないのだ。咲乃は強く心に言い聞かせた。
「ちぇっ‥。もう少しだったのに。」
白鬼の凍るような声が聞こえた。
鈴の音がだんだんと近づいてくる。茉莉花の気配も、近づいてくる。
咲乃が茉莉花の名を呼ぼうとした瞬間、白鬼は咲乃の目を覗きこんだ。薄い色の瞳が目を通して頭の中にまで入りこんでくる。
「いや‥やめて‥。」
くらくらと目眩を感じたと思うとすべてが遠くなり、咲乃は何もわからなくなった。
鈴の音が高く強くリーンと鳴り響き、あたりの空気がぶるぶると震えた。水面にさざ波が立つように空間がたわみ、音がゆっくりと浸透していく。
歩いていても足の下が床なのかどうかさえわからない。茉莉花はぽっくりの鼻緒についた鈴を小刻みに鳴らして、三つの鈴で一歩一歩道を造りながら進んだ。
咲乃の気配は揺れているが清浄で強い。対照的に亜沙美―――紫の気配はひどく弱い。おまけに危険な霊気が二人のすぐ近くに在る。
茉莉花は半歩後ろを歩く鳥島をちらりと見遣り、足を速めた。
手に持った金の鈴を緞子の帯にぎゅっと挟みこんで、長い髪を一つに束ねると、袂から襷を取り出す。
「近いのか?」
小走りでついてくる鳥島にうなずき返し、振袖を襷で括り上げた。
肩に乗った黒い仔猫が、突然背中の毛を逆立てた。勢いよく飛び下りると目の前の白い闇に向かって走りこんでいく。
茉莉花と鳥島も続いた。
茉莉花の鳴らす高音の鈴の音の波紋が、白い闇を切り裂いてその向こうのうずくまっている亜沙美と傍らに立つ猫を映し出した。
「‥‥リズ!」
鳥島が急ぎ走り寄った。
亜沙美を抱き起こして腕にしっかりと抱え、黒猫の視線の先を睨みつける。
そこには半分鬼に変貌した白髪の男が立っていた。
「これが‥鬼人か?」
鳥島の問いに黒猫がいいえ、と首を振った。
「‥‥四宮史。鬼に心を喰わせた男のなれの果て‥。」
猫の言葉が聞こえたのか、やけに乾いた高笑いが白い空間に虚しく響いた。
茉莉花は亜沙美の体を抱きしめている鳥島を、四宮史の視線から隠す位置に立って、すっくと真正面から対峙した。
黒猫は影に戻り、茉莉花の背後にすうっと下がる。
鳥島が必死に声をかけているのだが、紫の意識はとても薄い。ただ彼が亜沙美の知り合いだと理解したらしく、血を吐きながらしきりにごめんなさい、と繰り返していた。
「‥あんたのせいじゃない、大丈夫、わかってる。しっかりするんだ。何とかして病院に連れていってやるから‥。」
紫―――亜沙美は微かに笑みを浮かべながら首を振った。
「わたしはいいの‥。お願い、娘を‥咲乃を助けて‥。兄さんをあんな鬼にしてしまったのは‥わたし‥。兄さんはわたしを憎んでて‥だから‥咲乃のことも‥。」
紫―――亜沙美は再び血を吐き、腹部を押さえて顔を苦しげに歪めた。
「‥あなたをよく知っている‥気がする‥の。だから‥お願い‥。咲乃を‥助けて。咲乃には‥何の罪もない‥。」
すっぽりと抱えられた紫―――亜沙美は、血だらけの指を鳥島の手に絡めて縋りついた。鳥島は深くうなずいて、手を握り返した。
「ああ。そのためにここに来た。もういいんだよ。眠っていいんだ‥。だけどあんたのお迎えは俺じゃなくて、こっちの人だ。ほら、ここに立ってる‥‥見えるか?」
閉じかけた目蓋をもう一度開け、ぼうっと浮かぶ袈裟姿の男の影を見とめて、紫は驚きに喘いだ。
「葛城さん‥なの‥?」
「鬼人に殺された後も、必死に咲乃さんを守っていたんだよ。あんたに申し訳ないと‥ずっと後悔していたんだそうだ。」
葛城の姿は弱々しくて今にも消えそうだった。ゆらゆらと手を紫の方へ差しだす。
紫―――亜沙美の瞳に涙があふれ、その手を取った。
鳥島の腕の中の体から、繋いだ手を伝ってすうっと白い光が流れ出始めた。光はうっすらと髪の長い少女の姿形へと変わっていく。
袈裟姿の男は両腕で大切そうに少女をかき抱いた。
がくん、と亜沙美の首が落ちた。
鳥島は亜沙美の紅く染まった口元に頬を寄せて、震える指で血を拭った。リズ、と囁いてためらいがちに唇を合わせる。切なげに閉じた目蓋から一条の涙がこぼれ落ちた。
茉莉花は背中で密やかなすすり泣きの声を聞いた。
言いしれぬほどの怒りが胸の奥からこみあげてくる。
「‥‥咲乃さんはどこです?」
高笑いを止めた四宮史は、空虚な瞳でじっと茉莉花を見返した。
「おまえは‥誰だ? 見たような気がするが‥。」
「『懐古堂』と申します。四宮咲乃さんと尾崎亜沙美さんの身柄を引き受けに参りました。依頼者はここにいる咲乃さんのご両親並びに亜沙美さんの‥知人です。」
「交渉屋か‥。そうだ‥おまえが鼠の印を消したせいで、段取りが狂ったんだ‥。やれやれ‥厄介者めが‥。‥誰が本家に立ち入る許可を与えたのだ?」
茉莉花はそれには答えず、三つの鈴をそれぞれの音色で同時に鳴らした。
低い音は二つの輪を描いて亜沙美と鳥島を包んで結界を形成し、いちばん高い音の波動はうねりを上げて白い男へと向かう。
男は両腕を上げてよけようとしたが、茉莉花は時間をおかずに次から次へと鈴を鳴らし続けた。
ついに男の全身を茉莉花の波紋が取りまいて縛りあげた。鈴の音の余韻が彼の体ごと周辺の空気をぶるぶると激しく震わせる。
男はたまらずに悲鳴を上げてうずくまり、頭を抱えてのたうち回った。
「乱暴で申し訳ありませんが‥。四宮のご当主にはまず、人としてあるべき姿に立ち戻っていただきます。」
やがて男の背から白い人影が剥がれ落ちて、塵となって消えた。鈴の音が少しずつおさまっていって、あたりの空気が静けさを取り戻し始めた。
乱れた呼吸の音だけが、やけに耳に大きく聞こえる。
茉莉花は冷たい怒りを胸にしまいこんで、静かに問いかけた。
「‥‥四宮史さんですね? 咲乃さんと亜沙美さんを返していただきます。」
四宮史は傲然と顔を上げた。怒りに顔が赤らんでいる。
「その女の死骸は勝手に持っていくがいい。だが咲乃は四宮の女だ。交渉屋などが口を挟む筋合いではない。」
「咲乃さんは二十才の誕生日に、四宮本家との縁を切ったはずです。そうでなくとも彼女の意志に反してここに拘留する権利はあなたにはありません。わたしは彼女を保護すると、彼女の両親に約束しました。‥‥咲乃さんはどこです?」
知らない、と史は顔を背けた。
「一足違いで白田が攫っていったのだ。なぜかはわからぬ。」
「白田とは‥白鬼ですね? 白鬼はどうして人間界に来たのです?」
「それも知らぬ。葛城が呼んだのではないのか? わたしはただ、葛城より先に紫を生き返らせて四宮のために働かせようと考えただけだ。」
茉莉花は鈴をリンと鳴らした。
「今更そんな言い逃れを‥。あなたが葛城さんになりすまして行った殺人には目撃者がいます。遅かれ早かれ警察が動くでしょう。たぶん夜鴉一族に裁かれるよりは、刑務所に入る方がずっとましだと思いますが?」
そこへばたばたと足音がして、三人の少女が現れた。
先頭にいるのは先日、咲乃の大学構内にいた少女だ。彼女たちが咲乃の従妹たちか、と茉莉花は思った。
「お父さま‥! ご無事でしたか。お祖母さまとお母さまはどこですか‥?」
「瑞穂。花穂、早穂。ちょうどよかった。さあ、こっちへおいで。」
史は相好を崩して娘たちを迎えた。
ほっとした顔で父の元へ向かおうとした妹たちを瑞穂が制するのとほぼ同時に、茉莉花はいけない、と叫んだ。
瑞穂はゆっくりと茉莉花を振り向いた。
「お父さま‥。この方は誰です?」
「瑞穂も聞いたことがあるだろう。『懐古堂』という、分家の裔だそうだ。」
上から下まで眺め下ろして、瑞穂は高飛車な口調で問い質した。
「『懐古堂』は失礼ながら先代より破門された分家。四宮本家への立ち入りを禁じられているはず。誰の許可を受けてここまで通りました? まずそれを伺いましょう。」
茉莉花はにこりともせず、瑞穂を見据えた。
「先に掟を破ったのは四宮本家です。わたしは依頼人になり代わって、この場に囚われていた二人の女性を引き取りに参りました。」
「‥‥囚われていた?」
「ええ。一人はここにいる尾崎亜沙美さん。もう一人は四宮咲乃さんです。尾崎さんはたった今亡くなりました。急がなければ咲乃さんの命も危ない。」
まっすぐ三姉妹を向いた切れ長の瞳は、非常な怒りをたたえていた。
やや気圧された様子ながら、瑞穂は低い声で問い返してくる。
「‥掟を破ったとは?」
冷たい光を放って茉莉花の視線は瑞穂の全身を射すくめた。
「四宮本家は鬼人を使役し、夜鴉一族の者をいわれもなく多く殺めました。更に‥‥守るべき罪のない人々の命を、少なくとも三人以上奪った疑いがあります。」
「そんなばかな‥!」
「事実です。先ほど起きた屋敷の倒壊で、本家の結界も消失しました。まもなく夜鴉一族がここを包囲するでしょう。」
瑞穂は震える声で父親を振り返った。
「お父さま‥。お祖母さまはどこです? さきほど気配が失せましたが‥亡くなられたのですか?」
「そうだ、だが、瑞穂‥‥」
「母屋が倒壊している間じゅう、龍笛の音が聞こえていました。倒壊させたのはお祖母さまですね?」
史はああ、とうなずいた。
「ではなぜ‥常人のお父さまが無傷なのです?」
青ざめた姉の顔を見て、花穂と早穂はその背中に隠れた。
瑞穂は視線を父から茉莉花へと戻した。
「人を殺めたのは‥父、それとも祖母?」
「‥証言によれば四宮史さんです。本家としての行為であったかは泉さんが亡くなってしまったので、定かではありません。」
瑞穂はたまりかねたように叫んだ。
「冗談じゃない! 四宮の次期当主として断言するけど、人殺しを本家として行うなんて何があってもありえない‥!」
茉莉花は次期当主の少女にますます冷たい視線を向けた。怒りがどうしようもないほど膨らんでいく。
「本家の意図など今更どうでもいいのです。確かなのは今この時にも、咲乃さんの命が危険にさらされているという事実。何より大切なのは彼女の命を救うこと。」
いきなり四宮史が笑い出した。
おかしくてたまらない様子で、体を二つ折りに曲げて哄笑している。どう見ても常軌を逸していた。
「なぜ咲乃の命などで騒いでいるのだ? 咲乃は本来生まれてくるべきではなかった。速やかに黒鬼の後を追わせてやったほうが、あの娘も嬉しいだろうに‥。」
「‥‥それはあんたが決めることじゃない。」
鳥島が低く呻るような声で、四宮史を遮った。
「妹の霊力を使って、いったい何人の命を弄んだ? どれ一つ取っても、あんたには何の権利もなかったのに‥!」
史は茉莉花の背後を覗きこみ、おや、と目を瞠った。
「おまえは‥あの時の‥。生きていたのか? そうか、目撃者とはおまえか。」
「俺だけじゃない。他にもいるよ。この人と夜鴉の若さまに保護してもらった。」
「ははっ。これは皮肉な話だ。物の怪に命を助けてもらった人間がいるとは‥。母が聞いたら何と言ったろうね、瑞穂?」
「お父さま‥。」
瑞穂の絶望的な怒りが伝わってくる。
史の血走った目が茉莉花を捉えた。
「なるほどずいぶんと人離れした霊力と美しさだ‥。『懐古堂』の先代もそうだった。霊力を全開するとぐっと若い姿になって‥。どう考えても物の怪の部類に入るとわたしは常々思っていたよ。‥咲乃や紫もそうだ。人の身にそぐわない力を持った者が、人として生きようなどと考えるのがそもそもおかしいのだ。そうじゃないか、瑞穂。」
「お‥お父さまは間違っています‥! 血の繋がった姪を‥孫を、物の怪に喰わせようと考えるほうが人にあらざる行為じゃないですか‥!」
「おや‥。なぜおまえがそれを知っている? 母屋で盗み聞きしたのか‥困った娘だ。」
史はじろりと三人の娘たちを睨めつけた。
瑞穂は背中に花穂と早穂を庇い、わずかに茉莉花の方へ寄った。
「わたしが怖いのか‥。実の父だというのに‥。やれやれ、情けない。」
「‥‥実の妹と母を葬った人なのですから、娘さん方が用心するのは当然でしょう。」
茉莉花は代わりに答えた。
苦笑いを浮かべて四宮史は振り向いた。
「確かに‥。四宮の女どもは手に負えない。母も妹もいつもわたしをバカにしていた。娘たちでさえ父親を低く見ているのだから。‥だがお仕置きは、奪われた力を取り戻してからにしようか。」
そう言うと史は、茉莉花に向かって数珠を振った。水晶珠がきらりと光る。
茉莉花はいち早く三つの鈴を鳴らし、波動で大きな結界を築いてはね返した。
訝しげに史は眉を顰める。なぜ弾かれたものか、さっぱりわからないという表情だ。
次の瞬間、真っ白な稲妻が真上から降りてきて、四宮史の体を二つに切り裂いた。
いくつもの悲鳴が轟く。
真っ二つに裂けた体は炎に包まれ、あっという間に炭と化して跡形なく崩れ落ちてしまった。
「ごめん‥史。あんた、弱すぎるよ。せっかく俺の力を少し分けてあげたのに、簡単に剥がされちゃうしね。もう要らなくなっちゃった。」
茉莉花は茫然として、上を見上げた。
天井の折れ曲がった梁に腰掛けて、にやにやと見下ろしている白髪の男がいた。あれが白鬼か―――茉莉花は背中が冷たくなった。
白鬼はまるで蜘蛛のように頭を下にしてすうっと降りてくると、空中でくるりと反転して音もなく床に立った。
不意に凄まじい霊圧が重たくのしかかってくる。
白鬼は自在に霊気を調節できるらしかった。
それにしてもまだ人の姿をしているのに凄まじい霊力だ。白い闇がまわりに漂い始め、場は再び白鬼の領域になりつつある。
茉莉花は懐に納めた夜鴉の羽に念をこめ、そっととばした。
夜鴉一族はそろそろ包囲を完了したはずだった。完全な異次元空間に変わらないうちに、若頭領が通路を開いてくれることを期待する。
にやにやしながら白鬼はこちらを見ていた。
「四宮の女が勢揃いってかい? ねえ‥そこの鈴の女。まだ名前を聞いてないよ?」
茉莉花は無視して問い返した。
「咲乃さんは‥‥どこです?」
「内緒だよ。ここにはいないとだけ、教えておこうかな?」
茉莉花は三つの鈴を同時に高らかに鳴らし、波紋を広げて防御の結界でそこにいる全員を包みこんだ。
可愛いねえ、と白鬼はくすくす笑う。
そして史の持っていた数珠を拾い上げ、一振りする。
強烈な力が茉莉花の築いた結界に激しくぶつかった。押されて必死に霊力を振りしぼるけれど、巨大な力の勢いに鈴の音はかき消されそうになってゆく。
これでも白鬼には瞬き一つ分くらいにしかならないのだろう、と圧倒的な力の差を感じながら、茉莉花は退路を開くにはどうしたらよいか、一生懸命考えを廻らせた。
急に鈴の音が大きくなった。
戸惑いつつ、瑞穂を振り返る。
瑞穂だけではなく、花穂と早穂も必死に茉莉花の繰りだす霊力に波長を合わせていた。
思い思いの仕種で集中していたけれど、三人とも一様に泣きたいのを我慢している顔だった。目の前で父親が塵となったのだから無理もないが、それでも気を取り直して目前の敵に立ち向かっている気丈さを、茉莉花は切なく思った。
この子たちも咲乃も、何とかして助けたい。
強く願って霊力を大きく上げた。
その時ばさばさっと大きな羽音が頭上から降ってきて、巨大な黒い翼が白鬼の体をぽーん、と弾きとばした。




