第十章
堂上玲が目覚めた時には、既に黄昏がすっぽりと部屋を包んでいた。
だるい体を引きずってバスルームへ行く。シャワーを浴びながら、激しい空腹をおぼえた。そう言えば十二時間以上、腹に何も入れていない。
「ご主人さまあ、お目覚めですかぁ? どこですかぁ‥?」
桜の声がする。
ここだよ、と返事をしてバスルームを出ると、桜が嬉しそうな顔で飛んできた。
「桜。どこかへ行ってたの?」
「はい。この提灯を達磨さんにお借りしてきました。」
「提灯‥?」
見ると小振りの懐中電灯を手にしている。『懐古堂』とテプラで印字されたテープが貼ってあった。
「懐中電灯ならうちにもあるのに。」
「いいえ。物の怪街道を照らすのには『懐古堂』の名入りでなければなりません。」
「物の怪街道‥?」
物の怪街道にある知人が営む小料理屋に玲を連れていこうと思うのだ、と桜は答えた。
「お艶さんはお料理が上手で、お酒も美味しいそうです。きっと楽しいですよ!」
にっこり微笑んで懐中電灯を振り回している。
玲は微笑み返した。まったく桜は―――可愛い。
「面白そうだね。‥‥だけど桜。支払いはどうやってするんだ?」
「お任せくださいまし! 桜が先代の姫さま直伝の舞を踊りますゆえ、ご主人さまはなあんにもなさらなくていいのですよ。」
なるほどそういう支払いなのか。妙に納得し、玲は軽い気分で承諾した。
桜とともに出かけた場所は不思議な場所だった。
静寂に包まれた暗闇の奥にたくさんの気配が潜んでいるようで、少々不気味と言えば不気味だが、脅威には感じなかった。敵意よりも好奇心。そんな感じだ。
闇の中にぼうっと浮かぶ店に入ると、和服姿の美女がたたずんでいた。引きこまれそうな妖艶さをたたえ、いらっしゃいまし、と微笑む。
「お艶さん‥! こちらが桜のご主人さまです。麗しいお方でしょう?」
自慢げな桜の紹介に内心苦笑しつつ、玲は今晩はと挨拶を返した。
「確かに、人にしとくにはもったいないようないい男だこと。」
お艶は婀娜っぽい視線を上から下まで廻らせて、こっちへ、と手招きした。
檜の一枚板で造られたカウンターの真ん中の席に、一人の少年がぽつんとすわっていた。
その隣席に案内して、お艶は少年を自分の亭主だと紹介した。少年は市之助と名のり、酒を注いでくれる。
「どうも‥。堂上玲です。」
店の中は暗くてよく見えない。その中でスポットライトが照らし出すように、市之助とお艶の姿だけは鮮やかに浮かびあがる。
気配から察するに、玲の目に映らないモノたちがあたりにはうようよしているみたいだった。不思議と怖くはない。桜のおかげだろうか。
玲が一気に杯を飲みほしたのを見て、市之助はほう、と感心したようににやりとした。
「度胸があるねえ‥。妖しから酒を注がれて迷わず杯を干すとは‥。なかなかできるこっちゃないぜ?」
「桜が連れてきてくれた場所で、警戒する必要なんかないでしょ? 彼女は俺のお守りなんだから。」
出されたお通しに箸をつける前に、今度はこちらから注いだ。
見た目は少年だが、たぶん玲の三倍以上生きてそうだと感じる。
いただくよ、と市之助はすぐに杯を空けた。
「いいねえ。桜を信用してるんだな。‥前世からの絆とやらかい?」
品定めするかのようにこちらをぐっと見据えた瞳は、ぞっとするほど美しい。
「記憶はないけど桜が主人だと言うんならそうなんだろう。‥前世はどうでも、もう関係ないよ。現在の主人は俺なんだから。ね、桜。」
はい、と桜はにこにこしている。小さな手で一生懸命、料理を運んでくれていた。
市之助はははっ、と笑い声を立てた。
「良かったな、桜。いい主人にめぐり逢えたもんだ。なるほど、力も強くなるはずだ。」
はい、と再び桜は返事をした。
市之助は満足そうに酒を口に運ぶ。
「市之助さんは、人みたいに見えるけど‥‥人ではないんだよね?」
今は違う、と答えて市之助は振り向いた。
「昔は人だったがね。人としての生をまっとうした後、お艶との約束を果たすためにここへ来たんだよ。このなりはお艶の望みだ。」
「へえ‥。ロマンチックななりゆきだけど‥ずいぶんと思い切ったもんだなあ。人に未練はないの?」
「そうだねえ‥。今の自分も結構気に入ってるぜ。ま、若いあんたにゃピンとこないだろうがね。」
ふふっと微笑してまた酒を注いでくれる。
酒も料理もとても美味しかった。口当たりがいい分、ぐんぐん進む。他愛ない話をしている少しの間に、玲はすっかりハイな気分になってしまった。
一方隣の市之助はまったく酔う気配がない。
「何だかね‥。自慢じゃないけど、俺は顔と酒には自信があったのに、どっちもあんたには負けてる気がする。‥‥夜鴉の若さまといい、人じゃない人の綺麗さって規則違反的だよね。普通の人間レベルじゃあかなわないな。」
「そんなことはありません。ご主人さまがいちばんですよ、桜はそう思います。」
桜が頭を撫でて慰めてくれる。
市之助はほう、と意外そうな眼を向けた。
「‥夜鴉の若頭領に会ったのかい?」
「直接会ったわけじゃないけど‥。たまたま『懐古堂』に遊びに行っててニアミスして、襖の陰から見ただけだよ。」
「そりゃあ‥。難儀だったな。若頭領は人間の男には容赦ないお方だ。見つかってたら危なかったよ。」
お艶が口を挟んだ。
「夜鴉の若さまは綺麗な女に弱いからねえ。おおかた『懐古堂』の嬢ちゃんの噂を聞いて、わざわざ御輿を上げたんでしょうよ。そこに旦那みたいな若い、いい男がいたら‥ま、ただじゃすみませんわねえ。命拾いなすったんですよ。」
「お艶さん、市之助さま。桜がついておりますから、大丈夫ですよ。それにいくら若さまでも『懐古堂』の中でお客人に無礼な真似はできませぬ。姫さまが許しませんから。」
桜がぷんとふくれる。
確かにあの時、墨染鼠でさえも庇っていたのだから、玲のことも護ってくれるだろうけれど―――いや、実際に護ってくれたのだろう。
玲は手の中で杯を弄びながら、溜息をついた。
どうも茉莉花は苦手だ。あの黒い瞳でじっと見透かされると、自分がぶくぶくと泡のように消えてゆく気がする。彼女には自分はどう映っているのだろう―――ちゃんと人に見えるのだろうか?
「‥‥どうしたんだい? あんたにゃ溜息なんざ似合わねェよ。」
ほんと、と玲は苦笑した。
「『懐古堂』の姫さまとはどうも相性が悪いんだ。女性に気後れするなんて初めてなもんで、思い出すとちょっと気が滅入るよ。‥いったい俺の何が気に喰わないのかな?」
市之助はちょっと呆れ気味にくくっ、と笑った。
お艶も袖で口元をおおって笑いだす。
「何を言ってるんですよ、旦那。『懐古堂』は境界の場所。いくら桜がついてるといっても用もないのに入れてもらえる人間なんて、旦那だけでしょうに。それで相性が悪いもないもんだ。」
「境界の場所‥?」
「そ。人の世と物の怪の闇との境。黄昏時の場所なんですよ。用があるモノしか寄りつかないし寄りつけない。気軽に遊びになんぞ、普通は行けませんよ。」
お艶は匂うような色気をふりまいて、酒を注いでくれた。
「だけど‥。店主は人間だろう?」
「そりゃ人には違いないけれど。‥あの嬢ちゃんも黄昏みたいなお人さ。人ってのはほとんどあたしらには気づかないで生を終えるもんでしょ? 物心つく前から人と人でないモノとが同じに感じられるんだから、難儀な話じゃないですか?」
「‥そうかな? 自分以外の存在が人だろうが物の怪だろうが、関係ないじゃないか?」
「ふふふ‥。そりゃ、人の理屈ですよ、旦那。目が合っただけで縁ができちまう場合もあるんですから。」
「縁、ねえ‥。」
縁ができたらどうだというのだろう?
市之助が冷めた視線を向ける。
「人じゃないモノが人の世に存在するには、縁が必要なんだよ。弱いモノほど強い存在に縁を求めるもんだし、縁そのものが細かろうが太かろうがお構いなしに縋りついてくる。やっかいな連中さ。」
なるほどね、と玲は納得した。
誰彼構わず縋りついてこられたら、それはやっかいだし迷惑だろう。もしやそういう連中と同じに扱われているのか、と思えばよけい気分が滅入ってくる。
「旦那は‥ちょいと見たところ」
お艶は自分も杯をぐいっと空けた。
「人にしちゃあ、はぐれ者だねえ‥。桜や『懐古堂』との縁ほどに濃い縁が、人との間に結べていないように見えるよ。気配はごくまっとうなただ人だのにねえ?」
「うん‥。そうかもね。家族は桜だけだし‥。特に親しい友人もいないなあ。そういう意味では誰とも縁を結んでいないんだろうね。」
「おや。そのお年で、もうふた親とも亡くしているのかえ?」
「初めからいないんだ。俺は貧乏寺の本堂に置き去りにされてたのを、住職に拾われたんだって。親が誰だかわからないうえに、名前も住職が適当につけたものだから‥人の世に根がないのかもしれないよ。」
本堂の上で拾ったから名字は堂上。名前の玲は、アル中気味の住職が当時通い詰めてたホステスの名前を男読みに変えただけだ。
寺の隣がたまたま養護施設で、玲はそこで中学卒業まで育った。時折顔を出す住職がまるで面白い冗談かのように彼の名前の由来を語ったので、施設ではよくからかわれたものだ。もっとも玲は益のない喧嘩はしない主義なので、相手にしなかったけれど。
「根がないわりには、あんたの気は強いぜ。さっきから眩しすぎて、他の常連どもは近寄れもしねえんだから。‥興味は津々のようだがね。」
市之助はふっと瞳を和ませて笑った。
「縁はいずれできるんだろうよ。そうすりゃ、自ずと行く道も定まる。どう転んだって、あんたのようなお人は道を違えたりはしねえのさ。桜がいりゃ、尚更だ。」
そうだろうか。何の根拠もないけれど、市之助が言うと真実らしく聞こえてくるから不思議だ。玲は杯を傾けて、にこっと微笑んだ
それから桜が舞い始めて、盛大に宴会が始まった。
夢なのか幻想なのか、はたまた酔っぱらいの錯覚か。店には市之助とお艶の他にもまっ黒い影みたいな連中が蠢いていて、ざわざわと楽しげに騒いでいた。
どれくらい時間を過ごしたのかわからなくなって、桜に引っぱってもらってやっと立ち上がった。こんなに羽目を外したのは初めてだ。
店を出て、来た時同様に暗い土手道を歩く。
「ねえ、桜‥。浦島太郎みたいに、家に戻ったらもう何年も経っていたなんてことにはならないだろうね?」
もちろんです、と桜は生真面目に答えた。
「そうか、よかった。‥でも何だか酔いすぎたな。喋りすぎだし‥。今夜は全然俺らしくないよ。」
「‥‥楽しくなかったですか?」
心配そうに覗きこむ桜に、玲は心からの笑みを向けた。
「すごく楽しかったよ。時にはバカになるのもいいよね。」
途端に桜は満面の笑みを浮かべた。
「それは良かったです。ご主人さまは‥‥今日は何だか、とてもお寂しそうに見えました。少しでもお気が晴れたなら、ほんとに良かったです。」
不意を突かれて、玲はちょっと言葉を失った。
寂しく感じるような何かがあっただろうか? 昨夜遅かったから今日はほとんど寝ていたはずなのに。寂しかったのは桜なのでは?
とりあえず何か言葉を、と口を開けかけた時、桜が土手の中腹あたりを指さして叫んだ。
「ご主人さま‥! あそこ、誰か倒れています。」
「誰か倒れてるって‥。」
「人ですよ。けれどどうしてこんな場所に人がいるのでしょう?」
「人‥?」
懐中電灯の光の先には、男が一人横たわっていた。ぐったりとして意識がなさそうだ。
近づいて手首を触ってみた。
脈はある。体温もある。眠っているのか、と頬を軽く叩いてみた。だが目を覚まさない。
「ご主人さま‥この人、何だかヘンですよ‥。」
「うん‥ヘンだってのはわかってる。この情況を見ればね。どうかしてるよ。」
「そうではなくてですね‥。魂が入ってないみたいなんですけど‥。」
桜の言葉を聞いて、玲は急激に酔いがふっとんだ。
「魂が‥‥入ってない?」
あらためて目の前の体をまじまじと見る。
まだ若い男のようだ。無精髭が伸びて、あちこち擦り切れた作務衣を着ている。
「もしかして‥リズと同じ目にあったのかな? そう言えばリズも、この土手で市之助さんに拾われたって言ってたね。」
つい先ほどお艶に聞かされたばかりだ。
ともかく物の怪じゃなくて人ならば、『懐古堂』に連れていくべきなのだろう。それくらいの道理は既に理解している。しかし迷子の魂ならついてこいと言えばすむが、空っぽの体では担いでいかなければならない。
「まず『懐古堂』に知らせて達磨さんにでも手伝ってもらおうか? ああ‥達磨さんは店から離れられないんだったっけ。物の怪たちには手伝ってもらえないだろうし‥。」
うっかり物の怪に頼みごとをすれば、縁ができてしまって後々やっかいな具合になると、それも今夜理解した。
どうすればいい?
「俺が担いでいくしかないのか‥‥。まいったな。子どもか女ならまだいいのにな。‥だいたい俺は肉体労働には向いてないんだよ。」
ぶつぶつ文句を言いつつ、まず男の上体を起こして、腹の下に自分の背を差しこんだ。
背負い投げをするように腕を抱えて腰に乗せ、背負い上げる。
ぐにゃぐにゃしていて背負いにくいが思ったよりは軽かった。魂がないせいか、痩せているためか。何でもいいが少しほっとする。
「‥‥桜。『懐古堂』へ最短ルートで案内頼む。俺がつぶれないうちにね。」
はい、と桜は懐中電灯をまっすぐ前方に向けた。
『参ノ蔵』の扉ががたがた揺れていると黒達磨に言われて、茉莉花は鈴を手に立ち上がった。
気配は物の怪のようではない。
「誰‥?」
姫さまあ、と幽かな声が聞こえた。
「桜なの? なぜここから‥‥」
ともかくも急いで扉を開けると、どさどさっと人が倒れかかってきた。
「な、何ごと‥?」
尻餅をついた茉莉花の上に、見知らぬ男が抱きつくように倒れている。その腹の下から、玲がずるずると這い出てきた。
「もう‥‥限界。死にそう。達磨さん、悪いけど、水くれないかな‥。」
「‥‥いったい何やってるの? この人は誰?」
「‥水を飲まなきゃ‥喋れない。」
喋ってるじゃないの、と思いつつ、茉莉花は立ち上がって、黒達磨が持ってきたコップを倒れている玲に渡してやった。
「お酒の匂いが‥‥。ずいぶん酔ってるのね。桜、どこに行ってたの?」
「お艶さんのお店です。市之助さまが桜のご主人さまに会いたいと仰ったので、参りました。とっても楽しかったですよぉ、姫さま‥!」
「‥‥あなたという人は。」
茉莉花は呆れ返って、床にすわりこんで水を飲んでいる玲を見下ろす。
玲はごくごくと音を立てて飲みほすと、空のコップを差しだしてにこっと笑った。
「楽しかったよ。途中からどんどん人数が増えてさ‥。河童みたいのとか、やたらでっかい岩みたいなのとか‥。あ、でっかいのが君によろしくって。」
「そんな場所でどうして、泥酔するほどお酒を飲むの? 用心する気はないの。」
茉莉花の叱責など耳に入る様子もなく、彼は隣で伸びている男を指さした。
「それより、これ。土手で拾った。」
「拾った‥?」
「うん。市之助さんがリズを拾ったのと同じあたりで。桜が言うには、魂が抜けてるんだってさ。‥‥担いで来たんだよ、頑張ったと思わないか?」
茉莉花は膝をついて屈みこんだ。黒達磨と顔を見合わせる。
「嬢ちゃん。これは‥。」
「魂が‥抜けてる体。もしかして‥。」
そこへ座敷から、どうかしたのか、と声がした。
「‥リズの名前が聞こえた気がして。」
振り返って鳥島の姿を見とめた玲は、へえ、と薄い笑みを浮かべた。
「‥‥邪魔しちゃったか。悪かったよ。いいところだったの?」
「ふざけないで。」
冷ややかに答えると、茉莉花は鳥島の方へ顔を向けた。
「鳥島さん‥。吉見さんの体が見つかったみたいなの。吉見さんを連れてこちらへ来てもらえませんか?」
うなずいていったん座敷に入った鳥島を横目で見ながら、玲はなおも囁く。
「彼が気になってるくせに‥。言っとくけどバレバレだからね。素直になれば?」
思わず頬が熱くなる。
「いいから、どこで拾ったのかもう一度説明して。」
玲はムッとした顔で、嫌だよ、と答えた。
「嫌‥? わたしに任せるためにここへ運んできたのでしょう?」
「そうだけど‥。心あたりがあるってことは君だってこいつを探してたんだろう? 辛どい思いして担いできたってのにさ、叱言の前に言うことがあるんじゃないの?」
言い返そうとして止めた。
彼はいつもながら茉莉花を怒らせたいだけなのだ。拗ねた表情も本気ではないだろう。まったく面倒臭い人だと吐息を呑みこみ、素知らぬふりをする。
そこへ観音像を手にした鳥島が近づいてきた。
観音像はがたがたと振動し始め、くぐもった声が興奮気味に叫んだ。
「あ‥! ほんとにぼくの体だ。‥まさか死んでるんじゃないですよね‥?」
大丈夫、と茉莉花は観音像をぐったりと倒れている吉見の手に握らせた。
みなが黙って見守るなか、やがて吉見の体が呻いた。
「戻れたのか‥?」
鳥島の問いに顔を上げた吉見はかろうじてうなずいたけれど、体を起こすのが辛そうに見える。
「全身が痛くて‥。でも嬉しいです、痛いって生きてる証拠ですもんね‥。」
立ち上がろうと膝をついたが、すぐにすわりこんだ。どうやら左足首を捻挫しているらしい。見ると肘や頬にも擦り傷がたくさんある。
ちらりと茉莉花が玲を見ると、彼は視線に気づいて皮肉な笑みを浮かべ、肩を竦めた。声を出さずに俺のせいじゃないよ、と言う。
茉莉花は苦笑した。
「見つけてくれてありがとうと言いたかっただけ。」
「そうだ。あなたが見つけてくれたんですよね、ありがとうございます。おかげで生き返れました。」
鳥島に肩を借りて立ち上がった吉見は、首だけ玲に向けて礼を言う。
鳥島も振り返った。
「俺からも礼を言うよ、どうもありがとう。彼がこんな目にあったのは俺の責任みたいなもんだし‥しかも大事な証人だから、生きていてくれてほっとした。よかったら、あんたの名前を教えてもらえないかな? 実はどこかで会ったような気がしているんだが。」
玲はにこっと笑ってゆっくり立ち上がった。
「髪と眼の色が違うとわからないかな? 鳥島さん、佐山ですよ。」
「佐山‥? 佐山徹か。驚いたな‥。長谷部からあんたが姿を変えているとは聞いていたが‥。」
「こっちの方が驚きですよ。行方不明と聞いていたあなたが『懐古堂』でピンピンしていて、おまけに長谷部にも会ったなんて。いつ、会ったんです?」
「昨夜だよ。助けてもらった。」
「とにかく座敷に入って、吉見さんの手当をしながら話をしましょう。‥佐山さんもこちらへどうぞ。」
茉莉花は急いで口を挟んだ。
だが吉見を抱えた鳥島が襖の向こうへ消えるのを待って、玲は背を向けた。
「俺は邪魔だろうから帰るよ。‥桜、帰ろう。」
「待って。」
思わず手首をぎゅっとつかんで引き留める。
玲は、訝しげに見返した。
「店の周囲は夜鴉一族の闇で覆われていて、人には危険な状態なの。朝まで外に出ない方がいいと思う。‥二階に三人分、布団を敷くから。」
「冗談だろ? 桜がいるのに彼らと一緒には寝られないよ。」
「桜はわたしと寝ればいいじゃない。‥いい、今外に出たら桜だって危ないのよ。若頭領は配下の者を人間に何人も殺されていて、とても気が立っているの。」
茉莉花は真剣な顔で、事情を手早く説明した。
「‥‥それに。今しがた鳥島さんとあなたの会話をさえぎったのは、あなたを邪魔にしたんじゃない。この店の内部の、特に蔵の前では嘘をつくのは危険だからよ。」
ふふん、と玲は冷笑を浮かべた。
「嘘なんかついた憶えはないけど?」
「嘘ではなくても事実でもない。そうでしょ? ‥‥とにかくあなたは怖いもの知らずで無謀に見えるから‥心配なの。」
どちらかと言えば心配なのは桜の身なのだけれど、そうとは言葉にしなかった。
だが茉莉花の胸中はお見通しのようで、玲は皮肉な表情を崩さず肩を竦めた。それでも一応納得はしたらしく、奥へ向かったのでほっと安心する。
茉莉花が後に続こうとすると、桜がすいっと戻ってきて店の隅の暗がりを指さした。
「姫さま‥。あそこに誰かいますけど‥新しいお客さんですか?」
目を凝らして桜の指さす方向をじっと見た。黒い毛玉のようなものがふるふると震えている。仔猫のようだ。
はっと気づいて、茉莉花は近づいた。
「あなた‥。墨染鼠の一部じゃない? もともとの、紫さんの飼い猫だった部分ね?」
窒息死した体は化け鼠のもので、黒猫はどうやら逃げ出せたらしい。
猫は必死に眼を丸くして何か訴えていた。しかし力が不足しているらしく、ミャアミャアとしか聞き取れない。
「心配しないで‥。とにかくこっちへいらっしゃい。生きててくれてよかった。」
茉莉花はそっと腕にかいこんで、背中を撫でてやった。
「‥‥君ってほんと、俺以外には実に優しいね。」
玲の冷ややかな声が耳に響いて、茉莉花は遅まきながら自分が微笑んでいるのにやっと気づいた。




