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懐古堂奇譚  作者: りり
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序章

 「これでさよならだよ。短い縁だったね。‥‥しず。」

 低くくぐもった声が耳元で囁いた。

 あ、と思ったのは一瞬のことで、それから先の記憶はない。

 気がついたら真っ暗な中に一人、立ち竦んでいた。髪や肩が雨に降られたみたいにしっとりと濡れている。

 暗いのは夜なんだろうか。見回しても誰もいない。通りかかる気配もない。やけに静まっていて、人家の灯りすら見えない。

 ―――ここはどこ‥? あたしは何でここにいるの‥?

 ぽたん、と髪から雫がこぼれた。

 ぼうっと浮かびあがった細い道を自転車が一台、ゆっくりと近づいてくる。

 顔を上げて、学生らしい人影に声をかけた。

「あのう、すみませんけど。ここはどこですか?」

 しかし学生は振り向きもせず、走り抜けて行ってしまった。

「なんだろ。ずいぶんねえ。」

 独り言を言いながら、はたと気づいた。さっきより薄明るい。

 夜が明けたのか、と思えばそうではなくて、どうやらここは夕暮れ時の土手道だ。見下ろす河川敷には犬の散歩やら買い物帰りの主婦やらと、多くはないが何人もの人々が動いている。川向こうの高層マンションの背後で、暮れなずむ空が赤く輝いている。子どものはしゃぐ声が響く。

 しかし見覚えはない景色だった。

「あの、ちょっと‥。」

 横を通りがかった散歩中の老夫婦に、再び声をかける。

 けれど彼らもやはり無視して通り過ぎた。

 すっかり頭にきて、向こうから走ってくる幼児の前に立ち塞がり、乱暴に抱きとめようとした瞬間、子どもはするりと体を通り抜けた。

 子どもはびっくりした顔で立ち止まり、背中をぶるぶるっと震わせた。そして彼女の体ごしに後ろから来る母親に向かって、なんか寒かった、と叫んだ。

 彼女は愕然として自分の濡れた両腕を見下ろした。さわればちゃんと感覚がある。皮膚もつまめる。だが目の前にいる親子には―――いやこの土手にいる人々には、どうやら自分は見えないうえにさわれないらしい。

 何が起きたのだろう?

 夢を見ているのだろうか。それとも―――死んじゃったのかもしれない。

「あたし‥。死んじゃったの‥?」

 誰にともなく声に出すと、あたりは再び闇に包まれた。人は誰もいない、しんと静まりかえった暗闇の中。

 うずくまって膝を抱えた。どうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。

 涙がぽろぽろこぼれてくる。

 ―――誰か‥。誰か、助けて。

 心細くて悲しくて、自分のすすり泣く声に尚更悲しくなってくる。

 たった一人の闇にたたずみ、彼女はわんわん泣きじゃくった。


 泣き疲れて声も嗄れた頃、ぼうっと遠くに灯がともった。

 頭を膝の間にもたせかけたまま、そちらを見るともなく見ていると、だんだんと鈍い光が近づいてくる。規則正しく地面を擦る微かな音も聞こえる。忍びやかな足音みたいだ。

 足音と光はやがて彼女のすぐ傍で立ち止まった。

「おや。人がいる。」

 低い、男の声がした。

「女か‥。あんた、名前は何て言うのかね? 何だってこんなところに来ちまった?」

 灯りがぐっと近寄り、彼女の顔を照らし出した。

「あたしが‥見えるの?」

「まあ‥。見えてしまったな。」

 声の主は意外にもまだうら若い少年だった。十六、七といったところか。目元の涼やかな、色の白い、今まで見たことがないくらいの美少年だ。

 だが少年の風体は少々奇妙だった。まず手にしている灯りは古ぼけた提灯だし、縞の着物に黒っぽい羽織を着ている。やけにひたひたと聞こえていた足音は草履履きのせいだ。オールバックに撫でつけた髪は後ろで一つに結んであった。

 苦笑いを浮かべて、少年は彼女にもう一度名前を尋ねた。

「あたしは‥あたしの名前は‥。」

 答えようとしたが、名前が出てこなかった。名前だけではなく、年齢も住んでいた場所も何もかも思い出せない。

 混乱して今にも叫び出しそうになった彼女を見下ろして、少年は溜息をついた。

「記憶もねェのか。こりゃやっかいな迷子だぜ。」

 ちっ、と舌打ちして冷めた目で見遣る。

「だが‥‥ほっとけねェやな。」

 少年は懐から長い煙管きせるを取り出すと、彼女の方へ向かって差しだした。

「ほら、これにつかまんなよ。」

「これに‥?」

「手は繋いでやれねェんだよ。仔細があってな。ここにずっといたいわけじゃなかろ?」

 うなずいて彼女は、そろそろと立ち上がった。煙管にそっと触れてみる。ちゃんとつかむことができた。

「しっかりついてくるんだぜ。なあに、心配しなくてもいい。落ち着けば行くべきところがわかるだろうよ。」

 少年の後に続いて歩き出しながら、今度はほっと安心したせいで涙が出てきた。

「これから‥どこへ行くの?」

「この先に俺の連れ合いの店がある。とりあえずそこであんたの問題を考えよう。」

「連れ合いって‥。あなた、いくつなのよ? 高校生じゃないの?」

 少年は振り向かずに笑った。

「見た目どおりとは限らんさ。あんただって二十そこそこの姿をしてるが‥。実際はもう少し上だろう?」

「な、なんでよ?」

「何となくわかるもんさ。話はあとだ、今はこの暗がりから無事抜けたいとだけ考えなよ。さもなきゃ、永遠に迷っちまうぜ?」

 彼女はぞっとして、煙管を両手で掴んだ。

「そうだ。それでいい。」

 少年は振り向いて、優しく微笑んだ。


 ぼうっと前方が明るくなって、土手の景色がうっすらと浮かびあがった。

 川の瀬音が聞こえ始め、素足に土や草が触れて冷たい。

 灯りは道沿いにある小料理屋の軒行灯から漏れてくるものだった。入口近くに柳の木があって、風もないのにさやさやと葉を揺らしている。

 からからと戸を開けて、少年は店の奥へ向かっておうい、と声をかけた。

 すると奥から粋な着物姿の女将らしい美女が転がるように出てきて、満面に笑みをたたえて出迎えた。

「お帰りなさいまし。ずいぶんと遅かったねえ。」

 それから背後のずぶ濡れの彼女に目を遣ると、途端に笑みが引っこんで頬が引き攣った。

「ちょっと、市さん。後ろの女は何さ? ま‥下着姿じゃないかえ?」

 そう言われて彼女は、自分が淡いピンク色の肩をむき出したドレス一枚でいることに気づいた。裸足で手袋もなく、濡れてよれよれになった格好は確かに下着姿と思われても不思議ではない。

「ああ‥。土手で拾った。迷子らしいが、何も覚えちゃないのさ。」

 少年は相変わらずの冷めた目で女将を見遣った。

「ど‥土手で拾ったァ? あんた、そりゃ‥。あたしという女房がありながら、どういうことなのさ。」

「頭冷やしな。迷子だって言ってるだろが。色っぽい話じゃねェんだよ。」

 そう言い捨てて少年は手近な襖を開け、さっさと座敷に上がりこんだ。そして彼女を手招きする。

「こっちに入りな。‥お艶、触るんじゃねェよ。縁ができちまったら可哀想だ。」

 お艶と呼ばれた女将ははっとしたふうに彼女をじろじろと見ていたが、急に得心顔とくしんがおでうなずいた。

「そうか‥。迷子って、あんた‥。仏さんだね? まだ新しいねえ‥初七日は過ぎてないとみえる。」

 ―――仏‥? 初七日って‥。じゃああたしはやっぱり‥。

 不意に目眩を覚えて、彼女はその場にへたりこんだ。


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