験かつぎ
横倒しになっている冷蔵庫は扉が開け放たれたまま、中にはなにも入っていない。
側面に墨汁をぶちまけたような跡を残し、弱い天井の照明のうけ、暗がりに白物家電のすべらかな肌がぼんやりと浮かび上がっていた。
薄暮のような暗さの中、『虫』たちの声が遠くから、割れた窓から吹きこむ風にまじって聞こえてくる。
上下をつなぐ階段方面ではなく窓際へと向かうのは、バケモノが徘徊するここセントラルタワーから脱出するのに、そこが一番の近道だからだ。
エレベーターは使えない。
カゴの中の操作盤をいじって手動にしており、また未だかつて誰もシステムのハックに成功していないからだ。
エレベーターシャフトを登ろうにも、扉は貝のように固く閉じられびくともしない。
性犯罪者のように、無理やりにでも扉の継ぎ目にバールを突っ込もうものならば、そいつらにしか聞こえない無音の警報が鳴り響き、緑色のスモークとともにバケモノが現れ襲われる。
そんな小洒落た仕掛けがあるために、だれもが修行僧のように階段を登る――。
弾造は耳をそちらへ傾ける一方で、両の目をフロアの奥へと差し向けながら独り言のように呟いた。
「怒らないのか?」
[んー。人助けならばやむを得ないかな、と]
弾造の左肩にちょこんと腰掛けるさちが答えた。
「……その割に歯ぎしりらしきものが聞こえるが?」
[気のせいです……グギギ。い、いくつ買えたか愛しのわがモナカ……]
「未練たらたらじゃないか」
[ナンカキ、キタ……]ひぃが嬉しそうに声をあげた。
確かに何者かが近づく音がする。
床に散らばる干からびたパンフレットや割れたプラスチックの破片を踏み潰し蹴飛ばす大胆なそれを、幅広の背中はじっと聞いていた。
が、その騒々しい音にまじる足音はやけに軽い。
そしてチャリチャリと鳴る音は、『虫』のものにしては重厚感が足りない。
そしてニオイも違う、明らかに。
風上から流れてくる湿った冷気には金属臭の代わりに、ツンとくる化学物質が大半を占めていた。
弾造は警戒しながら振り返ると、そこにいた人物は、やわらかく微笑むパンク娘だった。
「え、えーと……」
「フェアリィ……」
何をしにきたのか検討もつかない、言いよどみ口ごもる弾造など眼中にはなく、はにかみながらも濃いアイシャドウの下のパンク娘の両の目は、肩先のさちを、しっかりと捉えていた。
[やあ]
さちが手を上げて挨拶すると、パンク娘はやたら嬉しそうにほほ笑んで身体をよじり、遠慮がちに小さく手を振った。
見た目の毒々しさからは遠くかけ離れた、少女然とした身振りであった。
「もしかして見えてるのか?」
どうあっても声が聞こえてしまう距離にあったが、かといってこの状況をどうしてよいものか分からない弾造は、極力唇を動かさないようにしながらもぐもぐと小声でたずねた。
[ぽいねー]
さちが右へ左へと身体を揺らして踊ると、パンク娘も同じように身体を揺すった。
「俺達、いや俺は先を急ぐから――」
困り顔の弾造がステップを踏むパンク娘に声をかけると、
「……これで、元気だして」
娘は合皮の革ジャンのポケットをゴソゴソと探り、ポケットの中身を差し出した。
――辛気臭い顔の弾造のために、てっきり巷で若者に人気の疲れによく効くビタミンカプセルでも寄越すのかと思いきや、
[らいおねすこーひーきゃんでー!]
その真っ白な手の平にあったのは、カサカサと鳴る赤銅色の包み紙にくるまれた、三つの飴玉だった。
さちの目がキラキラと輝いたのは、説明するまでもないことだ。
ヒップホルスターの中身の、ひぃが、匂いを嗅ぎつけ無理にシリンダーを回転させて身をよじる不快感に、弾造は顔を曇らせた。
気味の悪い声が腰元から漏れ聞こえていたからだ。
[これはこれはご丁寧にどうも。ほら、弾造も頭を下げる]
「え? じゃあ、せっかくだから、あの、いただきます」
弾造は戸惑いながらも頭を下げつつ、水をすくうように両手を差し出し飴玉を受け取った。
するとパンク娘は人差し指をその肩にむけておずおずと差し出した。
「フェアリィ……」
「さちと申します!」
さちはその人差し指をそっと小さな両手で握った。
破れた縞模様のタイツ、いくつものバッジのついた合皮のジャケット、五センチはあろうかという厚底の黒いブーツ。
ショッキングピンクに染めた髪、濃いアイシャドウ、舌を貫くピアス。
そんな外見ながらも『薬』の少女は、某夢の国でげっ歯類タイプの妖精に出会った子供のように、目をうるませ頬を興奮に染めていた。
「さっちゃん! ……トモコです」
[トモちゃんね、覚えたよ]
――なんじゃこりゃ。
弾造は、二人の間に挟まれながらも自身の存在が徹底的に無視されていることに言いようのない苛立ちを覚えた。
しかしその一方で、パンク娘に名前を問われたらどうしようかとやきもきもしていた。
クスリの効果で意識だけはシーだかランドだかに跳躍しているかもしれない、目の焦点がイマイチあっていない未成年者とのコミュニケーションは、なかなかにレベルが高い。
[フェアリーニハサダレモワレナイ]
ひぃは珍しくどもることなく、抑揚のない単調なリズムで言葉を並べた。
しかしながら内容は意味不明。
もうひとつの不思議存在である喋る銃は、その存在に言及が一切ないことにどうやら不満のようだ。
[ばいばい]
感動的な未知との遭遇は笑顔で幕引きとなった。
さちは、度々後ろを振り返るパンク娘に手を振り見送った。
羽を休めにきた蝶が人差し指にとまったのを見つめる幼子のように、パンク娘は目を輝かせながらその人差し指を高く掲げて去っていった。
「さち、ちょっと前に食ったばかりなのに姿を見られてるじゃないか。もう腹減ったのか、燃費の悪いやつめ」
弾造は、中毒者らしい変拍子のスキップを見つめながら、妙に疲れた顔をして言った。
[失礼な。ときどきいるの、あーいう風に見える人が。それより飴ちゃん食べようよ]
「へいへい」
弾造がキャンディーをのせた左手を胸元まで持ち上げると、さちは肩から飛び降りいそいそと包み紙を開き始めた。
弾造がヒップホルスターからハンドキャノンを抜くと、シリンダーは勝手にスイングアウトして開いた。
[いくよー]
[イイィィィヤッハァァァアアアァ!]
さちが両手で支えていた飴玉が臼のような空洞に落ちると、弾造がなにもしなくとも、勝手に閉まってシリンダーは高速回転を始めた。
[ン……ギギギ……]
はじめこそ飴玉が砕けて細かな粒がシャリシャリと小気味良く鳴っていたが、興奮の熱で溶けた飴がどこかにひっかかったのか、シリンダーを左右交互にぎこちなく回転させながら、ひぃは溶けた飴玉と格闘していた。
[あまにがーい]
一方のさちと言えば、錠剤のような形をした焦げ茶色の飴玉を一息で口にいれ、リスのようにふくらませた頬を幸せそうにさすっていた。
弾造はそれを横目で見ながらゆったりと息をついた。
しかしすぐに表情は厳しいものとなり静かな足取りで、パンク娘達とは反対方向へ、フロアの暗がりが濃くなる方向へと歩み始めた。
だんだんと漂う空気に不穏なものが混じるにつれて、太い眉と眉の中間に、深い皺が刻まれていった。
だが、悪い気分ではなかった。
甘ったるいながらも目の覚めるようなコーヒーの香りが、肩口からただようそれが、腐臭や穢れた空気に蝕まれていく身を清めてくれるような気がしたからだ。
[ねー、これからどうすんの?]
「もちろんタカシの仇を討つさ、仕事だからな。もう手許から消えちまったが、たいして働きもせずあんな高価なモンを貰っといて何もしないってのは……やっぱり気が引ける。だがあの女の態度が気に食わんな。結局なにを隠しているのかさっぱり見当もつかないが、なにかを企んでいて、こちらを利用しようとしていることは確かだ」
[それでもいくの?]
「いくさ。なにかしら決定打をもっているんならそれに期待しよう。それに――」
[それに?]
「さち、俺があの女達を捨て駒扱いしたら?」
[旅に出ます。もう会うことはないでしょう]
「逆に捨て駒扱いされたら?」
[んー、一髪千鈞からの一発逆転で奇跡の生還! 燃えるシチュだね]
「奇遇だな、俺もだ」
[イ、イチャコラ……ウラヤマシ……]
[泣かないで。ひぃちゃんも一緒だよ。ピンチはね、三人一緒でないと抜けだせないんだから]
「闖入者が入る余地はない、邪魔なワレモノはくれてやった、上の階ではすでに盛り上がってるはずだ――このダダ漏れの瘴気、逃げるなら今のうちだがどうするかね?」
[ヒヒヒ……オン、オンキセテ、オレイザックザク……]
[ズバーンとやっつけて美味しいもの食べよう!]
「それじゃあ恩売って、バケモンぶった斬って、お仕事完了といこうか」
一歩進むごとに濃くなる瘴気は濃霧のようにからみつき、商業フロアの乏しい明かりの下で、闇は生き物のように蠢き一寸先をも覆い隠してしまう。
しかし弾造はまるで導かれているかのように、余裕綽々、肩で闇を切って着実に歩みを重ねた。
蠢く闇は軟体動物のようにして目・耳・鼻・口から入りこみ、侵入者を蝕もうとするが、
「かァッ!」
一喝、弾造はそれを弾き飛ばし霧散させるも、商売乞食のように執拗にまとわりついてきた。
[はいはい験をかつぎましょ。らいおねすこーひーきゃんでー!]
「俺はいいから、ひぃに食わせてやりな」
[モ、モトホシイ]
「……ほらな?」
[一人一個づつー! お食事できるようになったんでしょ? だったら食べなきゃ]
口にそれを押し込もうとするが、弾造は唇を固く引き結んでそれを食べようとはしなかった。
さちは諦めない。
拒否されているのを無視し、肩から落ちそうになりながらも、作り物のかたい唇をおもいきりひっぱり、歯を食いしばる弾造の口の中になんとか飴をねじこんだ。
[あ、ちょ、こら! 噛まない、飴は噛んじゃだめー!]
さちが頬をペチペチと叩くのを無視し、弾造はバリバリとキャンディーを噛み砕いた。
[ヒィーン、ヒィーン……]
噛むんじゃなかった――セラミック製の歯のギザギザに、飴がへばりついて取れやしない。
「泣くな泣く――」
硬い表情から険がとれ、和やかな雰囲気を楽しむのも束の間、再び弾造の眉間に深い峰が隆起した。
[どったの?]
階段だ。
ドライアイスのように意思をもった煤煙のようなものが、ゆらゆらと階段を一段一段這い降りてくるのが見える。
上階からかすかに――いや、ぼんやりとくぐもってはいるがそれが聞こえる。
確かな戦闘の息遣いを。
どろりとしたシロップのような濃密な闇と瘴気が、空気の振動さえも遮り、あらゆる伝導を阻害しているようだ。
おかっぱ頭のさちから幼子の表情は消え、弾造と同じ、破邪の徒たる峻烈さが瞬間走った。
ひぃは狭いホルスターの中で左右にシリンダーを回し、敵に風穴を開ける悦びに、ほくそ笑んでいた。
弾造は震えていた。
無意識が、サイボーグの機械の身体に、武者震いを起こさせていたのだった。
それを再現できるまでに選りすぐったボディパーツ。
馴染むまでに徹底的にいじめ抜いた金属製の人工筋肉・神経伝達光ファイバー・脳波受容体。
左右非対称ながらも感度の良いボディは、闇と瘴気に不具合のひとつも起こさせず、思い通りにどろどろとぬめる階段を昇ることを可能にさせた。
胸の中心であるはずのない心臓が幻肢痛のように疼き、押し出された血流のように程良い緊張が全身に広がり、深く浸透していった。
金属音の衝撃と地を蹴る複数のステップ。
合間に響く叫喚と銃声。
戦闘音が近づいてくる。
ぺろり。
さちは桃色の唇を舐めた。いつの間にどこか楽しげな顔つきに変わっていた。
ひぃはいつものように気味の悪い笑い声を漏らす。
弾造はフンと短く鼻を鳴らしてみた。
飴を噛んだのは失敗だったかもしれない――。
すこし後悔した。
鼻腔の奥で、ノイズの混じった香りがかすかに広がった。
甘いコーヒーの香りが。