黒い風
錯乱するサムライブレードは怯えた犬のように叫び、愛する人に捨てられた女のようにさめざめと泣き、ときどき意味不明なことを口走った。
HUD上のサムライブレードのヴォリュームレベルは天井と底を行ったり来たり。
『虫』と『棒』にはどうすることも出来ない。
ただ彼をミュートする他なにもできることはなかった。
子供が気まぐれにジグザグを描くように、乱れに乱れた彼の心電図と脳波グラフの上下の振れ幅が一刻も早くフラットラインになることを、誰もが力なく見守っていた。
――かのようにみえた。
後方よりショッキングピンクの髪の少女が気だるそうに『虫』たちの間に歩み出てきた。
するとポケットから出したプラスチックケースをあおり、中身の錠剤をバリバリと噛み砕いた。
所々が破れた縞模様のタイツ、バッジを散りばめた合皮のジャケット、ジャラジャラといくつもの銀のピアスが耳を貫いていた――『薬』の少女だ。
『薬』は電脳化はもとより指一本のサイボーグ化さえもを拒み、100パーセントナチュラルボディを保持することを誇りとする者たちだ。ボディピアスをしたりタトゥーを入れたりはするものの美男・美女に整形する人々を嫌った。
彼らは身体の機械化ムーヴメントの反動たる存在であることを貫き通した結果、いつしかサイコキネシスやテレキネシスといった念動力に目覚めた。そして些細な義体化さえ目覚めたパワーを殺すと考え、より一層機械を敵視し、徹底的に忌み嫌った。
独自のネットワークを介する長年の交流の結果、念動力の発現および強化にはドラッグが最適であることの結論に達した彼らは、違法・合法を問わずドラッグを服用することから『薬』と呼ばれ見下された。
ショッキングピンクのパンク娘の脳内でドラッグ成分が化学反応をおこして弾けた。
それは爆竹のように乾ききっており刹那のものであったが、七色では足りないカラフルさに富み、多幸感に溢れたものだった。
それを誰かにもおすそ分けしたい――その一心がパンク娘の表情に現れた。
白目をむいて気味悪く微笑む彼女のネイビブルーの口紅に、一筋の鼻血が垂れて混じり、紫色になった。
その瞬間、額よりほどばしるサイキックパワーがサムライブレードの呪縛を打ち破り、宙に浮いていたその身体をドサリと音をたてて床に落とした。
それに驚いた異形は歯ぎしりを強めた。
あばた顔に緑色に濁った汗が流れた。
黒いヴァイブする煙が蛇のように襲いかかった。
が、『薬』のサイキックパワーが障壁となって『呪い』の黒い奔流を押しとどめた。
彼女の周囲で小石や壊れた家電製品の部品などが宙に浮いていた。
合皮の革ジャンがゆらゆらと浮かんで揺れ、ジッパーの金具がチキチキと鳴いている。
脚は内股、両腕は力なくだらりと下げ、顔は横にむけて白目で微笑む彼女は、完全にイッていた。
へたり込んでいた『虫』たちは立ち上がり体勢を整えようとする中、スカイブルーマントの『棒』はジリジリと這い進み、いつ自分に矛先が向くか解らない恐怖に怯えながらもサムライブレードのコンバットジャケットを掴み引きずった。
『薬』の力の行使に異形を上手く引きつけるていたために、スカイブルーマントは『虫』たちの後方までたどり着くことができた。
そしてぐったりとしたサムライブレードを預けると、いつでも反撃に転じれるようサイキック障壁近くまでにじり寄った。
《これ以上は不可能だ、撤退するぞ!》
統合火器管制プログラムの指令役たる『虫』の一人がネットワーク内にメッセージを放ち、そそくさと小走りに後方へと向かったが、
「内耳のジャイロがイカれたのかしら? 敵は逆方向よ」
『薬』のスキンヘッドの女と『棒』の黒人の青年が立ち塞がった。
ロングコートを羽織り、オートマチックのハンドキャノンを握る彼女の人差し指は欠けており、右耳もなかった。
頬骨が張っているものの、サファイア色の眼をもつロシア系の美人だった。
黒人の青年は幅の広いサングラスをかけており、これみよがしに刀の鍔を親指で押し、いつでも抜けることはアピールした。
「契約は破棄させてもらう。ここまで来たんだ、充分だろうが!」
「だめよ。あと二階層で目的地なの、お解り?」
「冗談は時と場合を選べよ、糞ジャンキー。こっちは二人も損失を出してる。一人は再起不能に違いないが、一人はいま退けば助かる」
ぐったりとしたサムライブレードを二人の『虫』担ぎ、頭だけとなった『虫』を一人が小脇に抱えているのを指した。
別の一人はパンク娘の近くでしゃがみ、異形に銃をむけたまま待機していた。
『虫』の後頭部や首には、仲間のバックパックから伸ばした何本ものコードやチューブが繋がっていた。
「このまま戦えばこの先にあるのは全滅だけだ。契約どおりに前金だけはもらっておく。あんたらが無事戻ってこれたとしても経費その他損害金を請求するつもりはない」
「……評判を落とすわよ」
「命を落とすよりマシだ」
異形と『虫』たちを結ぶ中間点では絶えず青白い放電現象が目に見えぬ平面を走り、そこにサイキックパワーの障壁が立ちはだかり『呪い』を押しとどめてくれていることを辛うじて認識できるが、それがいつまでも保つとは思えなかった。
『虫』たちに所属していない『棒』だけが一人、泰然と長剣を構え異形を睨んでいた。
スパークが鳴り響くたびにスカイブルーのマントが揺れた。
「どけよビッチ。あのデブとヤりたいならば、あんたが身体を張ればいい。だからウチのヤク漬け娘のトリップはここで終了だ、いいな?」
ぴしり。
氷の張った湖面に春の訪れを知らせるような音が、はかなくも決定的な綻びが、サイキックパワーの障壁に亀裂となって現れた。
何もない――放電現象だけが見える――中空に、確かに黒いひび割れがおきていた。
「まずい――」
スキンヘッドの女はロングコートのポケットから金属製のシガレットケースを取り出した。
が、それと同時に糸が切れた人形のようにパンク娘は力なく床に両膝をつくと、正座するように脚を折った状態でそのまま後ろへ仰向けに倒れた。
ひびの入った障壁が内側にむけて割れ、砕け、サイキックパワーは帯電する氷雪片となってきらきらと輝きながら溶けて消えていった。
そして腐臭をともなった質量のある、汚れた黒い風がその場にいる全員を包み込んだ。
先頭に立つ『棒』は長剣を床に突き立て吠えた。
物理的にどうにかなるわけではなかろうが、それが正しい行為に思え、剣の柄に両手を重ねて吠えていた。
音声ボリューム機能は役に立たない。
脳と下腹の共鳴からなら振動、肉体の奥底から発せられる原初の雄叫びこそが、眼前の異形のような邪悪な存在に打ち克つことができると古典は謳っていた――。
が、特殊合金でコーティングされた脳と人工臓器では共鳴し合うことはなく、最先端技術・素材の結晶たる『棒』の肉体からは、黒い風に怯えるメカニカルな作動音が軋むのみだった。
千切れてしまいそうなほどスカイブルーのマントはたなびき、気づけば床と平行だった。
死は時間の問題だった。
床に這いつくばるスキンヘッドの女は、吐き気に耐えていた。
胃がポンプのように激しく動き、口内は酸っぱい唾液で満たされていながらもシガレットケースを開き、ジェリービーンズのような色とりどりの経口ドラッグに震える指を伸ばした。
「目薬はだめ……カ、カリフォルニアのオレンジ――」
即効性で脳に効く、目薬タイプのドラッグはこの状況では使用することができない。
悠長に甘露なしずくを両眼に落としている余裕などありはしないのだ。
黒字で『C』という印字のある橙と白のツートンカラーのカプセルをなんとか摘むものの、シガレットケースごと床に落としてしまった。
「ささサささっさとやれよ、クソジャ、ジャジャ、ン、ンンKぃ――」
『虫』の一人が壊れたオモチャのように切れ切れにしゃべり、身体を折ったり曲げたりする動作を何度も繰り返していた。
他の者たちもほぼ同様に床に倒れこみ、泡を吹くなり、頭を打ちつけるなり、銃口をかじったりしていた。
それぞれ思い思いの絶望を表現していた。
「仲間割れするぐらいならハナから組むなよ」
ボソリと太い声が呟かれ、異形となぶられる一団の最後尾に、ぬらり太い腕が突き出された。
間髪入れず、その大きな手に握るリヴォルバー式のハンドキャノンの咆哮が谺した。
二、三、四、五、六――七、八、九発以上撃っても息をつくことなく、次々に弾丸が発射され、高速回転するモーター音のような奇怪な音とともにシリンダーは回転し続けた。
[ゥイイイイィィィィィィイィィィィィィィイイイイイイィィィィイ!]
さながら小型のガトリング砲のようだった。
しかし空薬莢が排出されるわけでもなく、弾帯が吸いこまれることも、弾倉を交換することもなく、絶え間なく弾丸が発射され続けていた。
弾丸は歪む空気を切り裂き襲いかかり、行く手を阻む百足のような淀んだ煙を貫き、無数の触手の悉くを弾き、削り、風穴を開けた。
そして異形の躰に次々と食い込み、おぞましい苦痛の声を上げさせた。
船舶の汽笛の太い音に、小さな竹笛のカン高い音が混じるような悲鳴にむけ、不思議なハンドキャノンの主たる影が飛び出した。
『薬』の生の眼も、『虫』と『棒』の機械式の生体光学機器も、それを見た。
男――黒装束の巨躯を。
短い針金のような黒髪は風に抵抗するすすきのように、後方へ倒れるのを良しとせずに逆立ち、色褪せたシリコンスキンの顔には無数の細かい傷、眉毛は濃く厚く、顎は太い。
サイボーグ特有の機械の擦過音。
黒と見えたそれは馬のような濃い焦げ茶色、腕と脚にはそれぞれ非金属製のプロテクターをつけ、足先が二股にわかれる裏がラバー素材の地下足袋のようなものを履いていた。
腰には『虫』たちもベルトに付けているポーチをいくつも下げていた。
男がハンドキャノンをヒップホルスターに戻してはじめて気付いた。
左の腰には太刀を佩いていた。
古めかしいながらも朱塗りの鮮やかな鞘には螺鈿がきらめき、柄は鮫肌のように無数の粒が浮き、輝く兜金からは涼やかに手貫緒が揺れるも、佇まいは豪壮――男の巨躯によく合っていた。
誰もが吐き気や腐臭を忘れ、ポカンと口を開けて宙を駆ける男の姿を眺めていた。
しかし唯一人だけ、仰向けに倒れている『薬』のパンク娘は、上下さかさまの世界の中で、別のものを見ていた。
無限に弾が出るかと思われる不思議なハンドキャノンではなく、古めかしくも見事な拵えの太刀でもなく、目つきこそ厳しいものの余裕たっぷりの不敵な男の笑みでもない。
「フェアリィ……」
垂れる鼻血が目に入り片側だけが赤に染まる視界の中、
[ごー、ごー、ごー、ごー!]
男の肩で、華やかな着物をまとう雛人形のようなものが、おかっぱ頭を揺らし拳を突き上げ叫んでいるのを目にしていた。
大きく目を見開き、口もポカンと開くそのパンク娘の顔は、まばたきをしなければ死んでいるようにも見えた。
あっという間に距離を縮める男は、迎えうつ触手の波状攻撃を避けつつ、その大きな手に手貫緒をからめ太刀を抜き、吠えた。
「雄雄雄雄雄雄々々ォォ!」
[おおおおおおぉぉぉぉ!]
肩の雛人形も吠えていた。
聞く者の腹の底に響く、野太い重低音。
彼ら『虫』『棒』『薬』の戦いはなんだったのであろうか――。
肥満のあばた顔がうかぶ糞山のような異形を、
男の振り下ろした太刀が一刀両断。
きれいに二分割されたそれは、爆散。
どろどろと濁る脂肪や肉片をそこら中にまき散らした。
――が、飛んでいく汚物は中空で突如停止。
それは肉片の旋風となって、宙を回転し始めた。
やがて排水口に吸いこまれる汚水のように、中心点にむかい凝縮しながら回転する速度をぐんぐんと上げていき、吐き気をもよおすような緑色の煙に姿を変え、消えた。
その異形がいた場所には、雅な絵付けの入った茶壺だけが残されていた。
悪い夢のように異形はかき消え、太刀を佩いた男も消えていた。
「ニン……ジャ……?」
色の濃いサングラスを額の上にずらした『棒』の黒人青年は、スキンヘッドの女の横でポカンとした表情で呟いた。
『薬』以外の電脳化した者たちは、補助脳が記録した先ほどの光景を共有し合い、繰り返し繰り返し観ていた。