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white note  作者: camel
 
9/25

 下書きは完了した。

 参考書の内容を多く含むようになってはしまったが、それも全て自分の言葉で弁論という形に即した内容へ書き換えてあるので問題無いだろう。義時に弁論大会の話を持って来た教師に草案を提出してみると、小難しいが面白い、という感想が返ってきた。そんな判断の仕方で良いのかと思わなくもない。

 内容についてもう少し詰めておきたい箇所がいくつかあり、義時は奈子に連絡を取った。単純に彼女に会いたいだけでもあるが、こういう理由があると誘い易いと素直に思う。

 変わり映えもせず駅前の喫茶店で合流。雲も分厚い土曜日の昼下がり、前日より冷え込んだ所為か店内は多くの客が暖を取りに居座っていたが、どうにか横並びの席を確保出来た。義時が到着して間も無く奈子も姿を見せ、並んで腰掛ける。

「寒いですね」

「何度だっけ」

「出てくる前に見た時は3度でした」

「さむっ」

「また雪になりそうですね」

 窓越しに空を見上げて言いながら、奈子は手袋を不器用そうに外した。手袋をはめていても寒いのか、盛んに指先を擦り合わせる。

「下書き、出来たそうで」

「そうそう。色々意見とか聞きたいんで見てもらおうと思って」

「いいんですか見ても?」

「ある意味井波さん発案でもあるし」

「そんなこと。麻績くんが書いたものですから」

 言いながら、奈子は義時の取り出した原稿用紙を受け取って眺め始めた。意外と緊張するな、と思いながら、奈子が読み終わるのをコーヒーに口をつけながら待つ。

 時間にして5分程度して、奈子は長い息を吐きながら原稿用紙の四隅を整えた。

「どうだった?」

「面白いです、凄く」

「そりゃ良かった」

「なんだか、凄く勉強されたんじゃありませんか?」

「参考書っぽいものは1冊買ってみたんだけどね」

「記憶のメカニズムに触れながら、気持ちよく収まってると思います。これ、凄くいいんじゃないでしょうか」

「そんなに?」

「はい。私の知ってる事なんかも、沢山入ってます。驚きました」

 奈子の評価は高いらしく、しきりにどこが面白かったとかを語るのを見て、成功らしいと義時は思った。実際問題、大会での評価がどうであれ、奈子発端のこのイベントにおいては彼女の満足を得られるかの方が義時にとってはウェイトが高い。

「で、なんか付け足した方がいいとか、あるかね」

「えっと、そうですね」

 再び原稿を眺め、整え、カップを傾けてから奈子が口を開く。

「内容については、凄く面白いと思います。敢えて意見させてもらうと、この」

 言いながら奈子が指差した箇所を覗き込む。中盤、記憶を長期記憶へ昇華させる為の手続きの難しさと煩雑さ、加えてそれを要求してしまう現代教育について触れている部分である。

「長期記憶、という言い方だと、少し齟齬があるんじゃないかと」

「齟齬というと、用語として少しおかしい?」

「そうですね」

「やっちまったか、良かったよ見せておいて」

 笑いながら奈子は頷き、続ける。

「長期記憶というのは、少し大きな概念ですから。その中に意味記憶、陳述記憶、エピソード記憶なんてものがあります。学生時代の勉強内容を覚えてる人が殆ど居ないのは長期記憶における意味記憶に達していないからです」

「成る程」

「言葉の意味としては捉えやすいんですけどね。聞く人間に、曖昧な事は言えませんから」

「確かにそうだ。知ったかぶりが一番格好悪い」

「でも、この短期間で凄いと思います」

「実際に学んでみると面白いことが沢山あるね。という事を喋ってるのも、意味記憶に当たるのかな?」

「はい、分けるならそういう分別に」

「自転車に乗ったりっていうのは手続き記憶か」

「以前麻績くんが私に言ってくれた、ペットボトルを思わず受け取ってしまったような事も、敢えて言うならそれに当たりますね。まあ、学問ですからとりあえず名前をつけようという所はあると思いますけど」

 こと記憶に関する話においては、奈子は饒舌だ。世界五分前仮説においては消極的な所も見せてきたが、最近ではそういう翳りも鳴りを潜めている。むしろ、何故ここまで、と思うほどにこの分野について詳しい。

「興味本位なんだけど」

 話の合間に、義時は何気なく切り出してみた。大きな瞳を瞬かせて、奈子は義時を見る。

「はい?」

「うん、なんで記憶とかの分野に詳しいのかなと思って」

「そうですね」

 ちょっと迷うような表情を浮かべて、奈子は何故か、自虐的に喋りだす。

「やっぱり世界五分前仮説なんかが、気に入らなかったというのがあるんじゃないでしょうか」

 そして自分の事であるにも関わらず、奈子は伝聞でそう答えた。曖昧な内心を吐露したというよりは、随分と投げやりな印象を義時は受ける。ここ暫く奈子の表情をよく見てきた義時には、それが本心ではないと感覚的に理解できたが、それを問いただす方法も言葉も思いつかなかった。

「そうなのか」

「ほら、あんまりな話でしょう、あれ?」

「確かにね」

「その、記憶という分野には展望的記憶、回想的記憶という言葉もあるんですがご存知ですか?」

「ああ、ちょっと見たかも」

 展望的記憶とは、「未来に関する記憶」の事である。未来の記憶と呼べば聊か語感がおかしくも感じるが、要するに明日や来週、来月の予定を記憶しているか否かという点だ。回想的記憶はその逆で、何月何日に何を行ったかというエピソード記憶と重複する部分もある概念である。

「もし、麻績くん」

「うん」

「回想的記憶……いえ、もう思い出と呼んだ方がいいんですけど。これを失うとしたらどうですか?」

「記憶喪失とか、そういう事?」

「はい」

 ただの例え話にしては深刻そうに、奈子はじっと義時を見詰めて返事を待っている。

 記憶を失う、という経験はあまり多くの人間がしているものでもないだろう。例えば頭部への強力な衝撃や、傷病からくる脳への異常等から記憶を司る部位へ何らかのダメージが行き、憶えていた何かを失う。

 無論の事、義時もそんな経験は無い。無い故に、想像だけをするならばこんなに恐ろしい事は無い。例えば友人、辰巳らと無茶をした時の記憶は今思い出しても面白いが、それも失われる事になる。大切な家族や何よりも偉大だった祖父の存在、希恵、目の前に居る奈子、そうした自分の周りの人間の存在そのものが自分の意思の範疇から消え去る事と同義だ。

 そこまで考えて、奈子の事故に頭が回った。ひょっとしたら彼女は、事故で何か記憶を失ったのかも知れない。だからこんな顔をするのか。

「怖いな」

「……」

「うん、想像しか出来ないけど、相当怖いと思うよ」

 奈子は何も言わない。ただ、真っ直ぐに義時を見詰めるだけである。それは何か感情の篭ったものではなく、ただ次を待っている、或いは何かを求めている、そういう目。

「なるほど、考えたことも無かったよ。記憶喪失か。要するにそれって、知ってる人が居なくなるのと変わらないよね」

「そうですね」

「井波さんがなんでそんな事を聞くのか解らないけど……出来るなら憶えてたいよね、なんでも。ずっと」

「気持ちだけでどうにかなるものでしょうか」

「手続き記憶ってのは簡単に消えるものじゃないんだよね?」

「統計的には、ですけど」

 不意に語調を変えた義時を、奈子はふっと表情を緩めて見る。

「そんな感じでさ。俺じいちゃん子だったんだけど、今でも頭撫でてくれた感触とか、抱き上げてくれた時の事とか、忘れてないと思うんだよ。そういうエピソードと一緒に思い出してるのかも知れないし、触れられた場所が憶えてるのかも知れないけど、そういう感じで忘れないように、っていうのは」

「……」

「やっぱ無理だよなあ」

「いえ」

「うん?」

「麻績くんらしいと思います、凄く」

「リアクションの取り辛い評価だなあ」

「麻績くんは解らないかも知れませんけど、私はこれでも麻績くんに救われた事が沢山あります。言葉であったり、態度であったり」

「そうなのか。そりゃ良かった」

「だから、私も麻績くんに何かしてあげられないかと思うんですけどね。中々」

「論文の推敲だけでも十分助かってるよ」

 本心から義時はそう言ったのだが、奈子は少し寂しそうに笑うだけだった。

 記憶に纏わる何か。

 恐らく、奈子には抱えているものがあるのだろう。事故に遭い、そのまま学校をやめてしまうというのは、考えてみても不自然ではある。辞めなくとも、奈子程の人間ならば学業という一面を見ても追いつくのは容易な筈だし、例えそれを苦としても、別の方法、或いは通信教育であったりという手段を彼女なら取るに違いないのだ。

 それでも、現状はそういう義時の予想の反対を行っている。奈子に記憶喪失があるのだとして、それが何なのか、想像もつかない。彼女と出会って、まだ半年も経っていないのだ。これ以上を知るには、もっと彼女の方へ踏み込まないといけないし、彼女にそれを許容してもらわなければならない。

「俺は個人的には井波さんをいい友達だと思ってるんだけど」

「……?」

「俺の周りは基本的にバカばっかりだしね。いい意味で」

「はあ」

「だから、何か困ってるなら相談して欲しいと思うし、勿論それに明確な返答なんて出来るか解らないけど。それでもまあ、愚痴ぐらいは聞いてみたいと思うわけさ」

「……」

「カッコ良すぎる?」

「いえ」

 義時の物言いにちょっと吹き出して、奈子は小さく首を振る。

「凄く、嬉しいです」

 そう奈子は呟くように言って、目元を拭った。思わず狼狽する義時。

「ご、ごめんね? なんか適当な事言ったね俺?」

「そうじゃないです、嬉しいです、本当に」

 無理矢理に笑顔を作ろうとして、それでも涙が止まらない様子の奈子が落ち着くまで、義時はあれこれと言葉を出し続ける事しか出来なかった。

 周りの視線が、痛いと言えば痛い。

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