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1月も終わりを迎え、寒さも一層厳しくなってきた。
この日も激しく雪が降っていて、電車通学の同級生達はここぞとばかりに遅刻の連絡を入れて姿を消している。何人かは来るだろうが、やや学級崩壊に近い半数の生徒が不在の教室というのは中々圧巻である。
駅から2つという好立地の義時にはあまり関係無いだけにこんな時ばかりは損をしたような気分にもなるのだが、流石に教師側も生徒の数が少なすぎる為に、急遽日程の殆どが自習へ変更という有様で、むしろ居るだけで出席が取られている辺りは得をしているのかも知れないと思い直した。
自習と言うことになれば、今義時がやる事は1つだけである。大学ノートを取り出して、弁論大会用の文面の整理を続けた。
実際に書き始めてみると論旨としては中々曖昧なものであるだけに、着地点を作るのが難しいというのが義時の印象だった。知識、感情、記憶の結びつきというのは人間が本能よりももっと以前に無意識にやっているものと考えれば、それも当然なのかも知れない。解り切っている事を明文化、言語化するというのは骨が折れた。
更に、大会要綱の制限である。400字詰め原稿用紙で5枚までというのは多いようで少ない。各部のバランスを考えなければいけないというのも、文才の無さを痛感する一員である。
腕を組んで窓の外。ドカ雪と言うのか、狂ったように大粒の白い粉が舞う校庭に、ぱらぱらと男子生徒が出ていて大張り切りで遊んでいる。男はいつまでも子供なのだ、とは伯父の言葉であったか、雪玉を作っては投げする姿を眺めていると実際義時もうずうずするような所はある。
ふとそんな一握りの「子供」を避けるように傘を差して歩く影。遠目からでも、辰巳であると解った。あの長髪と面倒くさそうな歩き方は他人に真似できる物ではない。年始から休校届けを出す形で休み続けていた彼を見るのは随分と久しぶりに感じるが、当人は至って普段どおりで、なんとなく義時はほっとした。
少し待つと教室の扉が開き、やはり辰巳が姿を見せた。室内を見回し、義時と目が合うと、早足に寄ってくる。
「元気か義時! 久しぶり!」
「お前より元気じゃない。何そのテンション」
「ははは」
よく解らないが機嫌の良い辰巳である。肩をばんばんと叩き、自分の席に荷物を置いて、鞄から道中買って来たらしいペットボトルの緑茶を取り出した。2つのうち1つを、義時に押し付けてくる。
「え、優しいなおい」
「そうだろう」
「いいの?」
「勿論だ。カップル殺しイベントをサボった侘びでもある」
「そうか。ていうか本当に機嫌良いな」
ちょっと手を上げて礼を言い、ペットボトルの封を切る。あまり暖かくはなかったが、水を飲むより余程ましだ。
辰巳も同じようにしながら、大きく頷く。
「色々あったんだけど色々解決した」
「何も伝わってこないけど、まあ、幸せそうで何よりだよ」
「そうとも」
「で、テンション上がり過ぎて思わず学校に来ちゃったのか」
「学校行きたくなっちゃうぐらい幸せなんだ」
「休んでた理由はその辺か」
「まあな」
引っ張ってもどんな事があったのかは口にしない辺り、恐らく話すような事ではないのだろうと考えて、義時は追及はしない事にした。理由は知らなくとも友人の機嫌が良いというのは勿論義時にとっても悪い気分ではなく、それだけでいいのである。考えてみれば、昨年の暮れに電話で話した時には意外な程沈んだ声を出していたし、この様変わりは多少鬱陶しいが許してやろう、と変に尊大な気分になりながらも受け入れられた。
「で、義時は何してんの」
「弁論文」
「……やめてくれないかな急に難しい事言うの」
「一気にテンション下げるなよ怖いな。別に難しい事じゃないよ、思った事書いてるだけだし」
「見ても?」
「頭痛薬飲んどけ」
言いながらノートを手渡すと、辰巳は緑茶片手に流し見始めた。が、すぐに眉間に皺が寄り、1ページ目で脱落を披露。むしろ義時にとってみればショックである。
「むり」
「ほう」
「え、お前こんな知識階級の人間だっけ?」
「難しい言葉が並ぶから難解に見えるけどただ所感が書いてあるだけだよ」
「謙虚だなー、憧れちゃうなー」
「それほどでもない」
「で、なんでこんな事してんだ」
「弁論大会出る事になったんだよ。先生に言われて」
「弁論大会とか響きだけで面倒なイベントの匂いがする。お前そういうの出る方だっけ」
いつの間に飲み干したのか空に鳴ったペットボトルをひっくり返しながら、辰巳は不思議そうに言う。確かに義時は元々この手の学校行事に積極的なタイプではないのだが、今回の場合は本当に気紛れであったとしか言えない。或いは、この分野をもって奈子との話が膨らむから、という打算もあったかも知れない。
「なんとなく」
「なんとなくか。で、いつ戦うの」
「来月」
「頑張れ」
「うん」
それで興味を失ったのか、辰巳は道中買ってきたらしい雑誌を拡げて読み耽り始めた。実に気侭な男である。
そんな調子でまともな授業を一こま挟みつつ、昼休み。午前中をサボりきった生徒もちらほらと登校し始め昼休みの喧騒に紛れ込んできた所為か、いつも以上に食堂はごった返していた。なんとか確保できた丸テーブルに、椅子を2つ寄せて義時は辰巳と共に昼食。辰巳は所謂「イケメン」に該当する印象とは少し外れる大食漢で、定食に握り飯を2つという大ボリュームを抱えている。パンだけで済ませてしまおう、という義時とは大違いだった。
「何おにぎりそれ」
「わさびまぐろ」
「渋いなうちの学食。そんなの出してるのか」
「あれ、乾先輩じゃね」
「ん? ああ、本当だ」
不意に視線を脇へ投げた辰巳と同じ方向を見ると、トレイを片手に食堂内を見回す希恵の姿。もう登校しなくても良い時期な筈だが、生真面目な彼女はそういう曖昧な事をしたがらない。
「辰巳、希恵ちゃん呼んでいい?」
「勿論」
こういう時に比嘉辰巳は気兼ねしない男である。
座席の確保に苦慮しているらしい希恵に向かって手を振ると、間を置いてすぐに彼女は義時に気付いた。ちょっと口元を緩めて、テーブルの間を抜けてくる。
「珍しいね学食。まあ座りなよ」
「あ、いいの?」
「いいっすよ、どうぞどうぞ」
気軽に立ち上がって辰巳が引っ張ってきた椅子に、希恵は頭を下げてから腰掛ける。3人で囲むには聊か手狭なテーブルだが、辰巳は殆ど食べ終わっているし、義時はパンなので希恵のスペースは十分に確保できた。
「ごめんね」
「いいって」
「比嘉君も有難う」
「いやいや」
希恵と辰巳は、義時を介して何度か面識があった。どんな相手にも角を立てずに喋れる辰巳を、希恵も嫌ってはいないらしく、その点は義時としても嬉しい所である。
「弁当じゃないんだ今日は」
「朝からこの雪だったでしょ。間に合う電車乗るのに早く出なきゃならなくて、作ってる暇なかったんだよね」
「先輩弁当自作なんすか」
「うん、殆ど残り物詰めてくるだけだけどね」
「それでも十分尊敬出来るよ」
「そういや先輩、もう学校来なくてもいいんじゃないすか? 義時から大学受かったって聞きましたけど」
「まあ、別に来ても本当はやる事なんて何も無いんだけどね。家に居ても特にやる事無いし、図書館代わりに遊びに来てるというか」
「住む世界が違いますな」
「勉強家め」
「無趣味なだけよ」
「あー、じゃあ乾先輩もあれやればいいじゃないですかね。弁論大会」
「あ、もうそんな時期だね。何、比嘉君出るの?」
「まさか。義時っすよ」
「嘘」
「あれあれ何その反応。傷付くよ?」
「へえ、弁論大会。そういうの興味無いタイプだと思ってた」
「君らにとっての俺の印象がどんなものか大体理解した」
目を丸くする希恵に半眼で返しながら、溜息混じりにパックのジュースを啜る。そんなにイメージと違うだろうか、と半ば本気で悩みそうだった。
「論旨は?」
「学問と記憶と知識の関連性。学生的視点で」
「学問と知識は解るけど記憶?」
「記憶と知識の紐付け、知識を発揮する記憶、知識に対する感情的な反証、そんな所かな。まだまとまってない」
「面白そうだね。下書きとかは?」
「少し」
「結論は?」
「思った事が正義?」
「あはは」
「……急激に偏差値の上がった会話の所為で、今のがどんな笑い所なのか理解出来ないっす俺」
辰巳のぼやきに再度希恵は噴出した。
「要するに、どんな小難しい事言ってみた所で、思ったとおりにしか出来ないって事じゃない? 義時君にはもう少し含む所あるのかも知れないけど」
「いいまとめだ」
「感動的だな」
「感動的?」
「……だが無意味だ」
「みっともないから拾い直すな辰巳」
義時と辰巳のやり取りに、今度は希恵が困惑顔になった。
昼食も終わり午後の授業を流し、下校時刻。帰り際に、希恵がよく使っている本屋へ寄って、脳や記憶に関する優しい書籍を探してみたが、どれも一級品の難解な学術書ばかりである。本当に大学生や、それこそ現役の研究者等が利用する物ばかりらしく、何よりも値段が異常に高く設定されていて手が出なかった。希恵はこんなものを買って何を学んでいるのかと想像すると空恐ろしい気分になる。
そういう中から、なんとか義時にも理解出来そうなものを見つけた。記憶と人格について書かれた、どちらかというと雑学を扱うような装丁の本だったが、自分にはこれが似合いだろうと判断して購入。それでも、普段は精々1500円程度の単行本ぐらいが関の山な義時にとって、2000円を超える参考書の購入は既に初体験の域に達している。
帰宅し、早速とばかりに参考書を眺め始めた。少なくともラッセル集に比べれば、理路整然と、言わば「AだからB」の形で書かれる内容は理解に苦しむ点は少ない。人間の人格を形成するのは経験である、という前提から語られる内容には、成る程と思わせるような所もあり、むしろ楽しんで読める程だ。
いくつかのヒントを得て、また大学ノートに向かい、蓄積される知識に充実し始めている自分を見つけて、義時は言葉も無く嬉しくなった。