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white note  作者: camel
 
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 暇に飽かせて買ったゲームソフトも微妙に外れで、持て余した時間を友人らに連絡して潰そうと思うも全滅。人生には往々にしてこういうタイミングが存在する。ならばと開いた課題の類も希恵のお陰で殆どが済んでしまっており、最早居るだけの存在となり始めている自分を発見。

 ふと、読みかけだったラッセル集の存在を思い出し、開いてみる。やはり難解な禅問答めいたものが多いが、所々に興味を引かれるものはあった。例えば、世界五分前仮説である。

 世界は、或いは五分前に誕生したのではないか、とする懐疑主義的な哲学論の1つで、馬鹿馬鹿しくなるような詭弁の羅列に見えなくはないのだが、確かに思わず納得せざるを得ない論ではあった。そしてこれを見て、奈子に連絡を取ってみようか、という気になる。時間は午前11時を回ろうかという頃で、電話をしても問題は無いだろうと判断。コールからいくつも待たず、奈子は受話口に出てくれた。

「あ、今大丈夫?」

「はい、おはようございます。どうされましたか」

「いやあ、こういう言い方はどうかと思うんだけど、暇でね。普段つるんでる連中も全滅」

「あはは、成る程。でも……そうですね、私これから犬の散歩に行くんですけど、良かったらどうですか」

「犬の散歩。俺も一緒でいいの?」

「はい」

 いつもは喫茶店でこじんまりと話し込む程度であるだけに、こういうものも悪くはない、とすぐに結論が出た。2つ返事である。

「じゃあ、お邪魔しようかな。場所は?」

「大きな公園ありますよね、駅から少し離れた、河川敷沿いに」

「そうか、井波さんちはそっちの方だったね」

「ええ、普段の散歩コースなんです。そこでいいですか?」

「何時頃に?」

「そろそろ出ようかなと思ってた所です」

「なら15分後くらいに。俺の家からならそのぐらいだ」

「解りました、正門でお待ちしてますね」

 弾んだ声で言う奈子との通話を終えて、身支度。気温こそ高くないものの、太陽が出ている事もあって外を散歩するにはいい日だろう。家を飛び出し、すぐに目的地へ向かう。

 地元では春になれば桜が、夏になれば噴水で水遊びをする子供達が、秋になればイチョウ並木が、冬になれば白く染まった木々の雪景色がと四季折々の表情を見せる事でちょっとした有名スポットとなっている大規模な公園である。南北に伸びる大川を挟みながら広く設けられた敷地面積を誇るそこは、駅側の西部と対岸の東部、北端部に南端部と入り口が設けられており、奈子の言った正門は西側に当たる。

 義時が到着すると、そこには既に奈子の姿。それに寄り添うように、犬。どこかで見た犬種ではあるが、ちょっと名前は出てこない、そんな珍しいものである。垂れた耳と目とマズル、というよりも全体的に顔の造形は惚けたように垂れ下がっており、手足は短い。如何にも鈍そうなのだが、茶色と白の入り混じったカラーリングの背筋はぴしりと伸びていて、猟犬のようですらある。

「麻績くん」

「や、待たせたようで」

「いいえ、私も今来たばかりです」

「この犬が井波家の」

「はい、ロンドンです」

「ロンドン?」

「ロンドンという名前です。私が小学校の三年生に上がる頃、うちへ来ました」

 珍妙な名前ながら、それが我が名であると主張するように、ロンドンは垂れた耳をゆるく持ち上げて奈子を見上げた。

「犬種は?」

「バセット・ハウンドというんですけど、知ってますか?」

「ああ、映画でモデルになってるのを見た事が。そうかこいつか」

 しゃがみ込んで視線を合わせると、ロンドンは顔を突き出して義時の正体を掴むべく臭いを嗅ぎ始める。負けじと正面から見据えると、ロンドンは納得したように義時の目の前で伏せて見せた。友情が生まれた瞬間である。

「好かれたみたいですね」

「そうみたいだ」

「もう9歳ですから、そろそろお爺ちゃんなんですけど、散歩になるといつも元気で」

「いい事だ」

「じゃ、行きましょうか、そんなに長い距離でもありませんけど」

「うん」

 奈子が足を公園に向けると、ロンドンは素早く立ち上がって真横についた。信頼関係のしっかりしている証拠である。他にも犬を散歩させている客は居て、それら飼い犬はロンドンの姿を見て駆け寄りそうになるのを飼い主が抑える、という光景なのだが、当のロンドンは一瞥するだけで主人の傍を決して離れない。数歩後ろから奈子と並んで歩いている姿を見ると、何ともなしに絵になる、と思わせるような微笑ましさがあった。

 芝生の合間を抜ける真っ直ぐに伸びた遊歩道。芝生は特段立ち入り禁止という事もなく、所々でサッカーボールを蹴り合う親子の姿や、木陰に設けられているベンチで読書に耽る老人などの姿も見受けられる。暫く道成りに進めば人工池と、丁寧に手の入った椿の囲いが見え、冬の水鳥が漂う姿も眼に入る。色白になった背の高い樹の根元には土気色の枯葉が絨毯のように積もり、冬が通り過ぎる間、その根を守っているようですらあった。

 日差しは正午に向かうにつれより強くなり始め、歩いているとぽかぽかとした暖かさすら感じるほどになり、絶好の行楽日和という中、2人と1匹で散歩をする、というのもいい気分だった。

「あんまり来ないんだけど、いい所だな」

「そうですね。ほら、耳を澄ませると、車の音も聞こえませんよね?」

「本当だ。市街地にあるとは思えない」

「そういう感覚が、なんというか、好きなんです」

 はにかんで言う奈子の言葉通り、風が時折枝葉を揺らす音や、子供の高い声ぐらいしか耳に入って来ない園内は、日常から突然切り取られた世界のようで、酷く心を落ち着ける環境だった。今後はちょくちょく歩きに来てもいいかも知れないと思いながら、更に園内深くへ。

 人工池を迂回した辺りで、東屋が目に入った。ロンドンをちょっと見てから、少し座ろう、という奈子の提案に頷いて、義時は飲み物を買いに自動販売機へ。戻ると、用意してあったらしい犬用の器に飲み水を注いでいる奈子の姿。

「用意いいね」

「もう御歳ですからね、ロンドン。ちょくちょく休ませてあげないと」

「俺らも一杯やろうか。どっちがいい?」

「あ、お金」

「どっちがいい?」

「えっと……じゃ、こっちを頂きます」

「うん」

 申し訳なさそうに笑い、奈子はスポーツドリンクの封を切った。義時も炭酸飲料を流し込み、思ったより暖まっていた体を冷まさせる。

 暫く無言で、時折ロンドンが水に舌を伸ばす音を聞きながら、東屋に並んで腰掛けていた。

 こうして彼女と2人だけの時間を持つようになってから、精々一ヶ月程度であるが、それが極めて自然な事になってきている事実に、義時は今更ながら気付く。それは、驚きであると同時に喜びでもあるのだが、だからといって自分の感情に整理を付けたいとは思わなかった。分別というよりも自制のようなもので、この聡明な少女に対してこれ以上の物を求めるのは良くない、という不明瞭な時論が先立っての事だ。

 横顔には知性が漂う、井波奈子という少女に踏み込めない理由。考えそうになった所で、その横顔がふと義時へ向いた。

「麻績くん」

「ああ、何?」

「麻績くんは、昨日何を食べたか憶えてますか?」

「お、脳のトレーニングっぽい質問だな。昨日は光物メインの刺身だったよ。それとハマグリの入ったスープ。米は2杯頂いた」

「凄いですね、はっきり」

「まあ、そのぐらいなら。なんで?」

「いえ。もしそれが、本当の記憶じゃないとしたら、とか考えた事はありますか」

 思わず奈子の顔を見ると、驚いたように彼女は首を振って俯いた。

「すみません、変なこと聞いて」

「いや別に変だと思ったわけじゃないよ。というか、それはあれだね。世界五分前仮説」

「あ、読まれましたか、そこまで」

「というかそこだけ。触り程度だけど」

「はい。実は私がラッセル集を買ったのも、世界五分前説が目当てだったりして」

「そうなんだ」

 奈子にしては珍しく、という不遜な前置きと共に、彼女の神妙な横顔を見る。指の中でロンドンのリードをいじくりながら言葉を整理しているようなので、暫し待つ事にした。ロンドンは黙り込んだ2人を見上げ、興味無さそうに伏せて背を向ける。

「5分前の記憶がある、という事だけでは、5分より前にも世界があったとは言い切れない。記憶というのが植えつけられたものであるかも知れないから反証にはなりません」

「うん」

「年輪が10本あるから、この樹は10年生きている。でもその知識も、偽りかも知れない。疑えばどこまでも行けてしまいますが、確かにそういう事です。経験から得たものを必然として思考する事は自然でも、

  必然性から因果を導き出す事は出来ません。そういう概要でした」

「難しい話だ」

「なんとなく、怖くなりませんか? ひょっとしたら、麻績くんと私は、今日初めて会ったのかも知れないとか、考えちゃうと」

 そこまで言って、奈子は暗い色を顔に交えながら、ロンドンへ目をやった。主人の様子の変化に気付いたのか、横たわらせていた体をバセット・ハウンドらしい機敏な体で起こし、素早く足元に寄って鼻を鳴らす。奈子の指先に口を押し付け、また蹲った。

 何かは解らないが、奈子にはこうした懐疑的な話について不安がる要素があるらしかった。そう思うと、口は勝手に開いている。

「まあ怖いよね。中々詭弁めいてるけど」

「詭弁、ですか?」

 意外そうな表情で、奈子は義時を見る。

「うん。だって、結局5分前に世界が出来たとも言い切れないから。どっちであっても、それは同じ事なんじゃないのかな」

「そうなんでしょうか」

「いやあ、俺は馬鹿だからそう考えちゃうだけなんだけどね。確かに、年輪が10本あったら10歳の樹だって事は知識として知ってるだけだから、はっきりした根拠とは言えないかも知れない。現実に10年かけて10本年輪が出来てるとも言い切れない」

「はい」

「でも、知ってるんだよね、困った事に」

 言って、義時は持っていた空のペットボトルを奈子に向けて回転をかけながら緩いアーチを描くように放った。思わず両手を掲げてキャッチする奈子。

「お、ナイスバスケ部」

「びっくりしました」

「ごめんね。でもなんで今取れた?」

「……あ」

「体がそう言う風に育ってるんじゃないかな。多分だけどね。バスケやってた経験が、井波さんの、少なくとも腕にはきちんと息づいてる」

 例えこの場で、奈子が思い切りペットボトルを投げ返しても、義時は腕を出すなりして体の致命的な部分は守ろうとするだろう。それはペットボトルが飛んでくる事を意識してやるのではなく、反射というレベルの問題だが、極論すれば生まれたばかりの赤ん坊には出来はしない。ここまで育った麻績義時という人間の中で育った何かがそうさせる。

「そんな事しか言えないんだけど。怖い?」

「……いいえ、なんだか落ち着きました」

「それは良かった」

「麻績くんは凄い人ですね」

「おっと、なんか棘を感じるぞ」

「そんな事ないです、本当にそう思います」

 いくらかむきになりながら言い募る奈子に笑い返して、そうか、と義時は頷く。

 人の体は知識が作る。そう言った、祖父の言葉の受け売りではあったが、少なくとも奈子の暗い顔はいくらか晴れた様に見えた。そしてそれだけで、義時は一先ず十分なのだった。

「そういえば井波さん、言おう言おうと思ってた事が」

「はい」

「それ。いつまでも俺に敬語使う事ないんじゃないの? 同い年なんだし」

「あ、はい。いえ、これはなんというか、癖で」

「癖」

「麻績くん、大人っぽいですからね」

「初めて言われたよそんなの」

「それに、私自身この方が喋り易いんです、臆病なので」

「そっか。無理にとは言わないけど、なんとなく距離を感じるなとか」

「ごめんなさい」

「いや謝らないで、もっと遠いよ井波さんが」

「ごめんなさい……あ、いえ」

 本人が癖だと言うのならそれでいいだろう、と流すことにした。何より、極めて丁寧な日本語を使う様は、奈子の印象にもよく合うし、耳に気持ちの良いものでもある。伝法は自分が勝手にやっていればいいことだと決めた。

「それに、こんな話もしやすいと言いますか」

「こんな話?」

「ええと、実はお願いがあります」

「お願いか、成る程」

 ちょっと吹き出す義時に対し、妙に緊張した声で奈子は切り出してきた。なんだろうか、と思いながら先を促す。

「国営美術館、ありますよね」

「……ああ、名前だけは思い出した。縁が無さ過ぎて」

「はい、私も美術とは縁なんて殆ど無いんですけど。そう、それが、クリスマスの前後でイルミネーションがかけられるそうなんです」

 そういえばそんなイベントがあった、と併せて思い出した。美術館と縁が無ければ、華麗なイルミネーションにも縁の無い義時でも知っている程度には、地元近辺では有名なイベントの1つである。市外からやってくる人間も多く居るぐらいには、派手にやっているものだという知識はあった。

「あるねえ、そんなイベント」

「はい。それで、写真を撮りに行きたいんですけど、やっぱり1人だと恥ずかしいというか」

「解る、大いに解るぜ。周りはどうせカップルだらけだしね!」

 つい先日破綻したアンチカップルイベントの事もあり妙に力の入った返答をすると、奈子は心底可笑しそうに笑い返してきた。

「ですから、良かったら、本当に、良かったらでいいんですけど、付き合って貰えませんか?」

「いつ?」

「イルミネーションはずっとやってるんですけど、24日と25日はシャンパングラスツリーを立てるみたいで、折角ならそれも撮ってみたいなって」

「おっと、イブともなれば周りは本当にカップルしか居ないぜ? その苦行に耐えきれるのかな?」

「が、がんばります」

「よし、じゃあ愚弄しに行こうか!」

「はい!」

 意気込みを見せる奈子と笑いあって、休憩を終えた。奈子に声をかけられたロンドンが、尻尾を振って立ち上がる。流石に老犬と言えど、ハウンド種からしてみると長すぎる休憩だったのかも知れない。

 池を更に反対側へ迂回し、元の道へ。公園はもっと奥まで広がっていて、季節の花などをボランティアが植えていたりするのだそうが、そこまで行くにはロンドンの体力的にも厳しいとの事だった。いずれ、1人ででも覗きに行ってもいいかも知れないと義時は思う。

 出口へ到着した頃には12時もじきに終わろうかという時間。

「そういや井波さん昼は?」

「あ、少し早く食べてきてしまいました」

「そうか、それじゃ俺はどっかで昼飯でも入れていくよ」

「すみません」

「いやいや。じゃあ当日に」

「はい、楽しみにしてます」

 笑う奈子にちょっと手を振って、気軽に食べられるものを求めて駅前へ向かった。

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