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雨が、時々ばちばちと音を立てて窓にぶつかっていく。まだ午後になって間もないというのに厚い雲が太陽を覆い隠していて室内は薄暗く、そろそろ明かりも必要かと思う。麻績義時は、面倒だという気持ちをどうにか抑えて体を起こした。
外出する気になれない天気。それでも、今日は楽しみに呼んでいる小説の新刊が発売するので、買いに行こうと今朝から決めていた。幼少時、所謂「おじいちゃん子」であった義時は、小学校に上がると間も無く亡くなった祖父の部屋に入り浸っては、祖父との思い出とともにそこへ残されていた書籍に触れるにつれ、本の虫というやつになっていき、今の人格の殆どを形成してしまっている。頭でっかち、とも言われるし、博識であるとも話に薀蓄があるとも言われる。
体を伸ばすと、かけっぱなしになっていた音楽がアンプから流れているのに気付き、内心で苦笑い。自分で用意したBGMも耳に入らなくなる程、ぼんやりとしていたものらしい。
ベッドから這い出て、上着を羽織る。11月も半ばを過ぎれば流石に寒い。ハイカラーのジャケットのボタンを上まで留め、財布をレザーの鞄へ放り込み傘を掴んで部屋を出る。
1人で暮らし始めたのは高校に入ってからだ。両親の意向で、自立しろというのが主な主張であったようだが、このところ連絡をすると3度に1度は旅先に繋がる辺り、本心は息子1人を放り出すことによって自分達の余暇を楽しもうというものであったらしい。それはそれで、両親が仲良くしているというのは義時自身嬉しい事でもあるし、友人に羨ましがられるような気侭な暮らしも楽しめているので、お互い様という所だ。
横風が雫を乗せて飛んでくるのを、なるべく人家の塀に寄ることで凌ぎながら、義時は書店へ向かった。この辺りでは最も大きな店舗で品揃えも良く、重宝している。
文庫小説のコーナーへ慣れた店内を進む。背の低い人ではちょっと届かないのではないかという高さまで商品が詰めてあるのがこの店の欠点らしい欠点だ。目的の新刊は平積みにされていたので、それを取り、ふと気が向いて違うコーナーへ足を運ぶ。乱読家という程でもないが、不意に全く自分と関係の無い、興味の無いジャンルの本を読んでみることもある。今日は西洋哲学の棚に足が向いた。
通路に入ると、前方に女性の姿。やはりというべきか、多少小柄な程度の女性になると上の棚の商品というのは取り辛いらしく、懸命に爪先立ちをして手を伸ばしていて、それが大変な作業である事は必死そうな横顔が物語っている。店員を呼べば良さそうなものだが、義時が見回してもそれらしい姿は見当たらず、仕方なく自力で、という事なのかも知れない。
なんとなく気が向いて、という言い訳を自分にしながら、義時は少し離れた場所から声をかけた。
「取りましょうか」
女性は驚いた顔で素早く義時に振り向いた。横顔でも思った事だが、瞳の大きなはっきりとした顔立ちの女性だった。年の頃は自分と同じか、少し上か、という辺り。そして確かに、見覚えがある横顔なのだった。
義時の申し出に微かに困ったような顔をする女性。やはり慣れない事はするものじゃないと後悔しながら、しかしこうなると無かった事にも出来ず義時としても苦笑いで反応を待つしかない。
ややあって、漸く女性は口を開いた。
「いいですか?」
俯け、上げた顔は申し訳なさそうな色に染まっており、むしろ義時の方が恐縮してしまいそうな気分にすらなるが、慌てて頷き返す。
「どれです?」
「その青い背表紙の」
「ああ」
洋書ではないだろうが、英語で書かれたタイトルの書籍。手渡すと、女性はやはり申し訳なさそうな顔で、頭を下げた。思わず義時もそれにならう。
「ありがとうございました」
蚊の鳴くような、とは良く言ったもので、掠れた小さな声での礼ではあったが、再び上げられた顔には笑顔が灯っていて、何かとても良い事を成し遂げたような気分に襲われる。とんでもない、と言って、義時は背を向けたが女性はその後ろに続いてきた。何故だと考え、当然レジへ向かうからだと気付くのに多少時間を要した。何を舞い上がっているのか、と痒くもない鼻の頭を掻く。
自分の会計を済ませ、万引き防止用のゲートを抜けながら鞄へ商品を仕舞い、振り返ると、女性も同じようにして外へ出てくるところだった。
ちょっと眉の上を掻き、義時は自分の「見覚え」を確認したくなって、再度声をかける。
「あの」
やはり第一声はそれで、そしてやはり女性は目を丸くして義時を見た。
「はい」
「井波さん……井波奈子さんじゃありませんか?」
我ながらおかしな問い方だ、と思いもしたが、義時はそう問うていた。
女性は、今度ははっきりと目を大きく丸くして、微かに頷く。
「はい、そうですけど……」
「あ、やっぱり。良かった、違う人だったらどうしようかと。俺、麻績っていうんだけどね。多分、直接会うのは初めてだと思うけど、クラスが一緒だったんだ」
「クラス、というと、高校の」
「そう。去年の」
「どうして私を?」
当然の疑問だった。井波奈子は、怪訝な表情を隠さずに義時の顔を見上げてくる。束の間後悔もしながら、義時は問いに答えた。
「去年、入学してすぐに入院した、って事で失礼だけど印象にあったのと、その時担任に写真を見せてもらった事があって」
「それを、覚えていたんですか」
「うん」
どこか、おかしな物を見るような顔になりつつある奈子を前に、気恥ずかしさがこみあげてきて、半ば早口になりながらの答えに、奈子は1つ2つと頷いた。
「それは、光栄です。確かに、私は井波奈子です」
「そっか。いや、それだけなんだ。見た顔だな、と思ったからつい。ごめんね」
頭を下げると、奈子は微笑んで首を横に振った。優しい表情だ、と躊躇いなく思える顔立ちである。
「取って付けたように聞こえるかも知れませんけど、実は私も声をかけて下さったのが麻績君だってすぐに解りました」
「え?」
「クラスの皆のお写真は、入院当初に見せてもらいましたから。真ん中で居心地悪そうにしてる麻績君を指さして、彼がクラス委員長だと先生が教えてくれましたし」
「そんな事をしてたのか、あの先生は」
「はい」
意外な事を聞くものだったが、彼女が自分を覚えていてくれたのであれば、悪い気もしないのだった。その程度には単純だし、こうして言葉を交わす切っ掛けにもなったのだから感謝しても良いくらいである。
奈子は後ろから出てきた他の客にちょっと目をやって道を譲った。義時も、慌てて通路の端へ寄る。
「ま、ともあれさ。井波さんかな、と思って声をかけただけなんだ。邪魔して本当に悪かったね」
「そんな事。嬉しかったですよ、まさか覚えていてくれるとは思いませんでしたから」
本当に嬉しそうに笑って、奈子はぺこりと小さな頭を下げた。思わず反射的に義時も頭を下げ返し、日本人らしい光景が生まれる。
今少し、彼女と話をしてみたかったが、これ以上引き留めるのも悪いだろう。
「じゃ、俺はこれで」
「はい。あ、本、取ってくれてありがとうございました」
「なに。それじゃあ」
片手をちょっと上げて、背を向ける。傘を持ち直し、内心得をしたような気分になりながら駅ビルの外へ向かう。途中、輸入菓子店で甘いものをいくつか買い、インスタントのコーヒーも保存分が無くなっていた事を思い出して追加しておく。
案外大きな荷物になってしまったが、それらを抱えてなんとか外へ向かうと、出入口の外がおかしな光景になっていた。即ち、豪雨で外が見えない状態である。雨音がビル内に響くほどのものになり、普段なら向かいにある建物が中からでも見えるのだが、雨に煙ってそれが見えない。こんな中を歩いていく気には誰もならないらしく、荒れ模様が過ぎるのを待つ人々の姿が居並んでいた。
その中に、先ほど別れたばかりの奈子の姿を見つける事が出来た。
「井波さん」
「あ、麻績君」
「酷いね、これは」
「はい、困りました」
本当に困った、というように眉を八の字にして、奈子は出入口の外を見やる。一瞬考えて、誘うだけなら良いだろう、と義時は口を開いた。
「井波さん、俺喫茶店で暇つぶししようと思うけど」
「あ、はい」
「一緒にどう?」
ナンパのような台詞だ、と思い、実際似たようなものだと開き直って、奈子を見ると、やはり彼女は目を丸くしていた。表情に感情が出やすいタイプなのかも知れない。
「いいんですか?」
「いや、むしろ俺がお願いする立場かな、これは」
奈子はちょっと考えるような顔をし、それから優しく微笑んで頷いてくれた。
「はい、それじゃ、喜んで」
「ありがとう、ってのも変か。ま、とりあえず行ってみよう」
1人で雨宿りをするくらいなら2人の方がましだと思ったのもあるし、やはり彼女ともう少し話をしてみたいと思ったのも正直なところである。
駅ビル内にある喫茶店の場所を再確認して連れだって歩いてみると、思いのほか奈子の背丈は小さかった。義時が背の低い方ではないというのもあるだろうが、平均よりは明らかに落ち込む身長をしている。歩く度にさらさらと揺れる髪を横目に、全国的にチェーン展開している喫茶店へ。
暖かい飲み物を頼んで向かい合わせに座ると、先ほど買ったらしい分厚い洋書を大事そうに膝に抱えて、奈子ははにかんだ。
「寒くなりましたね、最近」
「本当にね。雨が降る度に寒くなる」
「雪降りますかね、今年」
「どうだろう」
「麻績くんは寒いの駄目ですか? なんか沢山着込んでるみたいですし」
「ああ、うん。暑いのも嫌だけど」
「私は不思議と寒いの大丈夫なんですよね。むしろ、気持ちいいぐらい」
苦笑いに奈子も笑い、カップにそっと口をつける。言われて見れば、奈子はフェイクファーのついたパープルのダウンジャケットを脱いでしまえば薄着と言ってもいいような格好だった。ブラックのセーターの下はシャツだけのようだし、グレーのスカートは膝までで、その下にタイツを履いておしまいである。対して義時はジーンズとワイシャツの上に分厚いセーターを着込み、裏地はボアのジャケットだ。奈子との温度差は数度あるかも知れない。
「寒いと何かと億劫になるしね。今日出てきたのも本当に気合入れて漸くだから」
「解ります。でもホラ、こういう時だとどこも空いてますよね?」
「そういう事か」
義時もカップを傾け、一息。偶然、面識など無い筈の、しかしクラスメイトという不思議な存在に出会い、こうして喫茶店などに落ち着いてしまっていると、なんとなく笑えてくる。偶然に偶然が重なり合って出来た縁であり、人の世の、という古臭い言い回しを思い浮かべたくなる。
「そうそう、学校の事なんですけど」
「うん」
「結局私1度も行けなくて。高校生ってなんだか面白いことしてそうじゃないですか、だからそういう話とか、聞けたらなって」
「面白いこと?」
「はい。学園祭とか、体育祭とか」
「ううん、どうだろうな」
思い返しながら、昨年のイベントであった出来事などをぽつぽつと義時は語った。クラスの誰それが悪乗りをして資材を破壊した話や、それでも成功に及んだ模擬店、体育祭での勝敗の行方。ただ事実の羅列に過ぎないのだが、奈子は1つ1つを興味深げに、頷きながら、耳に入れていく。
「やっぱり、楽しそうですね」
「どうだろう、人によっちゃ面倒臭い話じゃないかな」
「そういう人も居るでしょうね、きっと。でも、高校生って人生で1度だけでしょう?」
「まるで20代のような発言だな、それは」
「私は16歳のままですよ」
冗談めかして笑い、隣の席に来た他の客に気付くと、奈子は手荷物を自分の膝へ載せる。
「そういえば、さっきの本は? 哲学書のコーナーに居たみたいだけど普段からああいうのを?」
「あ、たまたまです。インターネットで、面白そうだなと思ったからでいつも読む程勤勉じゃないですよ」
言いながら、奈子は書店の紙袋から、ブルーの表紙の本を取り出し、手渡してくる。受け取ってみると、英字のタイトルの下に日本語で「バートランド・ラッセル集」と書かれていた。首を捻る。全く知識の無い名前だ。
「どんな?」
義時の問い掛け方が面白かったのか、奈子はぷっと吹き出した。
「はい。この人そのものはそんなに有名じゃないかも知れませんね。アインシュタインはご存知でしょう?」
「ああ、それは流石に」
「あの人と、核廃絶の思いが共通して、ラッセル=アインシュタイン宣言という事をしてたりします。これが、パグウォッシュ会議の開催に繋がった事で有名ですが」
「それも知ってる。アインシュタインは少し本で読んだからね。11人だっけ、著名な科学者を集めた核兵器の廃絶を訴える会議だとか」
義時の祖父の蔵書にはアインシュタインが多かった。どれも難解なものであったが、いくつかは読み込むことが出来、触り程度の事であれば知識として頭にある。ラッセルについては名前だけ出て来た事を思い返しながら頷くと、奈子は嬉しそうに身を乗り出した。
「はい。核は絶対悪であるとしたラッセルと、抑止、共生を論じたシラードとの対立なども、併せて語られますね」
「この本はそういう?」
「いえ、これはラッセルの論理哲学を主に取り扱ったものだそうです。ラッセルのパラドックスというのは有名なんだそうで、凄く興味を持って。懐疑主義的な話を私が好きだというのもありますけど」
「そこまで来ると俺はついて行けなくなってくるな。哲学か」
「ラッセルのパラドックス自体は私もちょっと理解するのに時間かかりましたけど、他にも思考実験なんかが面白いんですよ。読む人、受け取る人によって、理解の仕方も違います。これは、小説を読んで抱く感想が人それぞれなのと同じようなもので、私が特段難しい本を読んでいるってわけじゃないんです」
いくらか熱を感じさせる奈子の語りに、義時は頷く事しか出来ない。難解な書籍を読んでいる事がそのまま知能の高さに繋がるわけではないが、奈子の言葉の整理の仕方、喋り方には好感が持てる一定以上の水準があって、思わず引き込まれるのを自覚した。
同級生達はこんな話よりも放課後に何をして遊ぶか、どうやって彼女、あるいは彼氏を作るか、というような話ばかりであり、それを下らないとするつもりは義時にも無いが、同年代にこんな子も居るのだという素直な驚きは、心地よくすらあった。
「麻績くんは何を?」
「ああ、俺は毎月歴史小説の続き物が発行されてるから、それをね」
「歴史ですか。過去から学ぶことは沢山ありますよね。日本史ですか?」
「いや、今は中国史。まあ歴史は特に好きだから割と何でも手出すけど」
「素敵な趣味だと思います」
「いやいや」
真っ直ぐに見詰められてそう言われると、照れ臭い方が先に来る。誤魔化しにコーヒーを飲んで、なんとなく携帯電話を触ってみたりする。
「あ、時間大丈夫ですか?」
「井波さん、時間大丈夫?」
「あ、私は大丈夫です。でも、そろそろ行きますか?」
「うん。俺1人で暮らしてるから、飯炊かないとね」
「わ、偉いですね。大変じゃありませんか?」
「まあお金の心配をしないで済むから、そこまで凄い事はしてないんだけどね。家の中のことをやるのが時々面倒だなって感じがするくらいか」
「凄いです」
「なに」
照れ隠しに眉をかくと、奈子はやはり微笑んだ。自然に笑う人だ、と思うと、彼女の性情の穏やかさが見て取れるようで、義時もつられて笑みが出る。
「じゃ、行こうか」
「はい。今日はありがとうございました」
「こっちこそ、暇つぶしに付き合わせちゃって。殆どナンパみたいだし」
「あはは」
「いや本当、ありがとう」
言おうかどうか、一瞬考えて、義時は続ける。
「ナンパついでに、良かったら連絡先を聞いてもいい? 学校じゃこんな話出来る人居ないしさ」
「私のですか」
「うん」
「すみません、私携帯電話を持ってなくて」
丁寧なお断りの言葉だ、と内心苦笑いをするが、そうではないと言うように、すぐに奈子は手帳を取り出した。手帳というよりは、レザーのカバーをかけて使い込んでいるノートのようなサイズのものである。
「携帯電話、教えて下さい。私からは、部屋に繋がってるIP電話を」
「いいの?」
「もちろん。またお話させて下さい」
真っ直ぐに見詰められてそう言われると流石に気恥ずかしいが、押されるようにして義時は自局番号を表示し、奈子へ携帯電話を差し出した。受け取ってメモした後、カバーのポケットから付箋を取り出して、奈子は050から始まる番号を書き込み返してくる。
「夜でしたら、大体部屋に居ますから」
「ありがとう。連絡させてもらうよ」
「はい、待ってます」
やはり自然な笑みを、お互いに浮かべて、別れた。
出会いとはは不思議なものである、と小説の書き出しのように考えながら、義時は軽い足取りで家へ戻った。