愚者の契約
9、愚者の契約
その後もヴィンセントの話は続く。
尚吾の休憩時間はすでに過ぎているが、仕事どころじゃない事態であることは承知している。しているが、ヴィンセントの話をどこまで信用してよいかは、わかったもんじゃない。わかったもんじゃないが、この時点で尚吾はヴィンセントの罠に嵌っていたのだろう。席を立って話を終らせたいとは微塵も思わなかったのだから。
驚くべきことに乃亜の父親であるトールとヴィンセントは、長い間、恋人関係にあった。
ふたりは深い絆で結ばれ、共にどちらかが死ぬまで傍にいようと誓った仲だ。だが、ある時トールは「愛する人を見つけたから、どうか君の元を去ることを許してほしい」と、ヴィンセントに別れの宣言をする。よりにもよってトールの相手は人間の娘、それも白人でもなく、偏狭な島国の、どこからみてもまだ子供と言ってもおかしくないほどの泥臭い少女だった。少女は真栄里莉那と言う。
ヴィンセントはトールの身勝手さに怒り、失望し、呆れ果て、勝手にしろと突き放した。
しばらくしてヴィンセントにトールから連絡があった。子供が出来たと言う。莉那の父親が住む日本に居るから、心配しないでくれと、言う。
ヴィンセントは唖然とした。
人魚は男女に関係なく、自分の子が生まれれば、その子に生命力を取られ、次第に身体は弱り、一年もたたぬうちに衰弱死する。それを知った上で、人間の女と交わり、子供まで作るとは…。自分の命を捨ててまでその娘との子供を残したいというのか…。
他人であればこうも憤りはしない。が、トールとヴィンセントは長い間、共に海に生き、愛を語り、深く交わった仲だ。
いつかは自分の元へ戻ってくれるのではないか、と心のどこかで信じていた。怒りが憎しみに変わるのに時間かはかからなかった。
ヴィンセントはトールの子を身ごもった莉那を始末する為に、日本に向かった。胎児を殺せば、トールは死なずに済むからだ。
だが、ヴィンセントがトールの元に到着した時には、莉那は早産の為、すでに息はなく。生まれたばかり未熟児の乃亜が、愛する妻を失って泣きじゃくるトールの腕に抱かれていた。
ヴィンセントはトールの腕から赤子を抱き取ると、今にも呼吸の止まりそうな乃亜に自分の生命力を分け与えた。
すでに生まれてしまった乃亜を殺しても、父親であるトールの運命は変わらない。ならばせめてこの赤子の命を生き長得られることが、人魚の長としての責任だと思ったからだ。
「乃亜の祖父、真栄里斗真は、私たちを受け入れた数少ない味方だった。ひとり娘が命を賭して産み落とした孫を守る為に、私達の力が必要であることも冷静に受け止めていた。斗真は若い頃は航海士で世界の海を渡り歩いていたから、人魚の噂も聞いていたんだ。だから私たちの存在も、受け入れることに葛藤はなかったと言う。赤子の乃亜の面倒は祖父の斗真と私達兄弟がかわるがわるにここに来ては世話をした。その時に日本語やこの国についての様々なことを教わったのだ。この家の合い鍵ももちろん斗真が生きていた頃に私にくれたものだ」
「じゃあ、本当にあんたたちは乃亜の育ての親だったわけか…」
「…乃亜が三歳の頃に斗真が病死した。私達は乃亜を連れてこの家を出た。それでも…折に触れ、この家で暮らしたことを思い出すことも多かった…」
「…」
乃亜の過去、そしてヴィンセントのこれまでの人生を聞かされた尚吾は、変な気分だ。まるで幼い頃、母親の話す御伽話を聞いているようだ。好奇心に胸がときめきながら、童話故の残酷さに胸が押し潰される痛み…。だがあれは作り物であり、あの胸の痛みが本物であっても、物語が現実に起こったわけじゃない。それなのにヴィンセントの壮絶な話を聞くと、信じられない気持ちと、現実であるなら一番気の毒なのはヴィンセントじゃないかと、哀れに思うのだ。
「私はね、尚吾。本当に人間が大嫌いなんだよ。人間は私の愛する者たちを勝手に奪っていく。トールも乃亜も…私が一生大切に愛し続けようと決めた者たちだ。私は後悔しているよ。一年前この家に乃亜一人を置いてしまったことを…ずっと後悔しているんだ…」
「ヴィンセント…あの、俺…」
謝るべきなのか、慰めるべきなのか色々な言葉が浮かんできては、どれも勝手な言い草のようで、続かない。
「俺で何かできることがあるなら…なんでも言ってくれよ」
「…なんでも?じゃあ、すぐにでも死んでくれたまえ」
「え?…それは無理。第一乃亜が悲しむ。あんただって乃亜を悲しませるのは嫌だろ?」
「それでは、おまえだけが苦しむ罰でも考えるか…」
「は?」
「そうでもしなきゃ、長年の私の恨みは収まらない。そういや…拓海が私に会いたがっているんだが…。明後日だったかな。乃亜に頼まれて拓海と会う約束をしたんだが。…私としてはどうでもいい話だが、拓海は私をとても好きらしいなあ」
「ちょっと…ヴィンセント?」
「おまえの大事な従弟なんだろう?言っておくが私達人魚にはある特性があってな。人間の生命力が好物なんだ。それも性的エネルギー。セックスの最中の性的興奮している相手の生命力はたまらなく美味しい」
「はあ?おまえら吸血鬼かよっ!」
「馬鹿者。吸血鬼のような悪食とは比べないでもらいたい。もっとも興味があるのなら知り合いの吸血鬼を紹介してもいいぞ。尚吾の身体ならあいつらも気に入るだろうからな」
「…冗談でもやめてくれ!」
少しでもヴィンセントを哀れと思った自分が愚かだと思った。一体何が目的でこんな長い話を聞かされ、挙句の果てには吸血鬼に襲われる話になるのだ。
「冗句はこの辺でやめるておくが、…どうする?」
「何が?」
「拓海を私の愛人にしてもいいのか?」
「いいはずねえだろっ。拓海はまだ高校生で、しかも受験生。いくら恋愛自由って言っても色ボケるにはまだ早過ぎるだろーが!大体、大人の…しかも百も歳をとってるあんたが、ガキの未来を少しは考えてやってもいいはずだろ?」
「どうしておまえの従弟の心配を私がしなきゃならない?」
「ちっ…もういい。あんたがその態度なら、俺が拓海に直接言うよ。無理にでもあんたの家には行かせない」
これ以上話をしても無駄だと知った尚吾はカップを持って立ち上がり、キッチンへ行く。そして、洗い物を片づけながら、尚吾はひたすら考える。
このまま、この場を有耶無耶にして、この状況が良くなるとは思えない。だとすればヴィンセントが一体何を欲しがっているのかを、考えなきゃならない。
ヴィンセントの欲しい答えを探し出さなきゃ、拓海はヴィンセントの思うままに陥落されるだろうし、ヴィンセントたちとの交流が悪くなると、兄思いの乃亜ががっかりするだろう。第一、これからのふたりの生活が平穏なままでいられる保証がない…。
尚吾はソファに座ったまま、こちらの様子さえ気にせずに動かないヴィンセントの後姿を見つめた。
…ヴィンセントは俺が苦しむ様を見たいのだろうか…。
だとしたら、答えはこれしかないんだが…。
乃亜を裏切ることにならないだろうか。
いや、多分それがヴィンセントの狙いなんだろう…。
キッチンを片づけた尚吾は、ヴィンセントの前に立ち、見下ろした。
「なあ、あんたが欲しいものって、俺のプライドなんだろ?俺が苦しむ様を楽しみたいんじゃないのか?」
ヴィンセントは尚吾を見上げ、何も言わず微笑んだ。
どうやら尚吾が出した答えは正解らしかった。
尚吾もこの道に関してはシロウトではない。だから覚悟さえ決めれば、受け入れることはそう難しいものではなかった。
乃亜にも話したことはないが、学生の頃はゲイパーティなどで無茶なこともやったし、職場を何度も変えた原因は、尚吾を寵愛した上司からの行き過ぎたセクハラやストーカー紛いの所為に他ならない。勿論、それなりの関係を許した尚吾にも責任はあるのだが…
「じゃあ、さっさと寝室に行こうぜ。俺の身体、好きに弄んでいいからさ」
尚吾はヴィンセントの返事を待つまでもなく踵を返し、リビングから出ようとした。だが、ヴィンセントは動かない。
「愛し合うわけでもないのにベッドは必要ないだろう。ここで十分だよ、尚吾」
「…わかったよ」
ヴィンセントが何を求めているのかがはっきりした今、彼の命に背くことは許されない。尚吾はネクタイを解き靴を、そして服を脱いだ。裸になった尚吾はヴィンセントの目の前に立った。
「で、どんなプレイがやりたいんだよ」
「では、壁際に手をついて立ってもらおうか」
何をされるのだろうとさすがに尚吾も緊張する。SMプレイなどを要求されて、傷跡でもついた時にはどうやって乃亜に言い訳すればいいのだろう…と、妙なところでどうにもならないことを考えてしまう。
尚吾はヴィンセントの言うとおりに壁際に立ち、裸のまま両手をついた。凌辱されるのをじっと待っているだけで、何もされていないのに今まで保ってきたプライドにヒビが入る音が聞こえるようで、嫌な汗が流れた。
しばらくしてヴィンセントの靴の音が聞こえた。
一言も発せぬままの、ヴィンセントの手が尚吾の反応を楽しむように弄ぶ。尚吾は自分の喘ぎを耳にするのが堪えられず、唇を噛んだ。
「何を固くなる。もっと楽にしろ。おまえは乃亜を裏切っているわけじゃないんだろ?私がおまえを勝手にファックしているだけだと思えばいいんだ。狡いのは私の方であり、おまえじゃない…」
「あのなあ…あんたに全部罪を負わせようなんて…思ってねえし、俺は俺の意志であんたに身体を売ってるんだから…俺に気を使ってくれても少しも嬉しくねえんだよ」
「…そうかい。じゃあ、好きにさせてもらう」
それまで気づかなかったヴィンセントの身体から僅かな薔薇の香りがする。一瞬にしてそれまで必死で押さえていた尚吾の欲情のすべてを掴み取られた気がした。
快感などは期待していなかった。だが、思った以上に尚吾を貪るヴィンセントの凌辱は巧みだった。
食いしばる口唇も、踏みしめた足元もいつのまにか緩んでしまい、ヴィンセントにすべてを預けてしまっていた。そして、尚吾の身体はヴィンセントの意のままに従い、あらゆる細胞が官能の快感に溺れ、ヴィンセントを受け入れていた。乃亜の顔さえも浮かばないほどに…
尚吾はヴィンセントにものの見事に完敗した。
尚吾が正気に戻った時、ふたりは床の上で重なっていた。
尚吾は上半身が裸になったヴィンセントの右腕から肩に掛けて浮かび上がる青い幾何学文様のようなものを目にした。次男のヨシュアの両腕に見るタトゥーとよく似ている。
…人魚って奴は本当に不思議な生き物なんだなあ。昔は御伽話でさえ下半身は魚のくせにどうやってセックスするんだ…なんて下らねえ妄想してたこともあったけど…なんだよ、人間よりも何倍もエロいし、巧いじゃん…。
余韻の醒めぬ尚吾に、ふとヴィンセントの顔が近づく。そして、涙の溜まった尚吾の目尻を舐め、口唇に深い接吻をした。
思ってもみないほどの労わりの愛撫に、尚吾はやっと目が覚めた。
すでにヴィンセントは尚吾の身体から離れ、床に寝る尚吾を見下ろしている。
「どうした?立てないのなら、私が抱き上げてバスタブまで連れて行こうか?」
皮肉を言うヴィンセントに答える気力は尚吾にはまだ無かった。身体の痛みを堪えて立ち上がり、風呂場へ向かう。
シャワーを浴び、快楽に酔った身体を冷やしながら、尚吾は深い自己嫌悪に落ちていた。こうなる事も予測していたし、まさに乃亜への罪悪感や意志とは関係なく自身の身体がセックスを楽しんだことに至るまで、ヴィンセントの策略通りなのだろう。それを悔しいとは思わない。
これはヴィンセントと尚吾の契約なのだから。
尚吾がシャワーを終え、バスローブでリビングへ戻った時には、ヴィンセントの姿はなかった。先ほどの情事がまるで感じられない程にきれいに片づけられた部屋と、テーブルにメモ用紙と片方だけのピアスが置かれてあった。
メモ用紙には「Good luck」と、綴られている。
「バカ野郎!手籠めにしておいて何がグッドラックだ!…」
言葉では貶してもヴィンセントを憎めない感情は、一体なんだろう…と、尚吾は自分自身を苦々しく思う。
その日、さすがに体裁が悪い尚吾は飲み会と偽り夜遅く帰宅した。いつものように乃亜は寝ずにリビングで尚吾の帰りを待っていた。
殊更疲れた演技をし、乃亜の差し出す水を飲み干す尚吾に、思いがけないことを乃亜が言いだす。
「今日、山の家でヴィンセントと会ったの?」
「…え?どうして知ってるの?」
さすがに尚吾もギクリとなった。
「だって、今朝ヴィニーから電話があったの。今日、尚吾は山の家に行く予定があるのかって。あるかも知れないって返事したの。何のお話だったの?」
「え~と…色々とさ…乃亜のお母さんやお祖父さんの事や、乃亜を育てた苦労話とか…さ」
「そう…僕、小さい頃身体が弱かったらしいの。覚えてないけど、とっても大変だったって兄さんたち皆が口を揃えて言うから、きっとみんなに心配かけたんだと思うよ。だからね、これからは心配かけないように頑張るし、兄さん達が大変な時は、どんなことをしても助けてあげたいって思っているんだ。尚吾も協力してくれるでしょ?」
「ああ、勿論だよ」
すでに充分協力してきたよ、乃亜…と、心の中で吐露した尚吾は、ポケットからヴィンセントの残したピアスを乃亜に見せた。
「ヴィンセントが乃亜にあげてくれって」
「ホント?あ、これヴィニーが大切にしてるピアスだよ。ホントに貰っていいのかな…」
「いいんじゃねえかな…(どうせ俺が身体で払ったピアスだ)」
「そう…」
乃亜は嬉しそうにそのピアスを片耳につけた。
「どうせなら、両方揃えた方がいいよね」と、軽い冗句を言う乃亜に、尚吾は思わず身震いをする。
もう一度ヴィンセントの玩具になれって言うのかよ、乃亜。頼むからそれだけは勘弁して欲しい…。これ以上あいつに溺れたらと思うと…ゾッとするぜ。
その晩の尚吾の激しさときたら、慣れているはずの乃亜も驚くほどであった。