高雅で感傷的なワルツ
8、高雅で感傷的なワルツ
拓海がヴィンセントを好きだと尚吾たちに打ち明けた翌日、乃亜は拓海の願いを叶える為に、ヴィンセントに拓海と会える機会を伺った。そして、三日後、拓海は島の別荘へ招待されることになった。
…たく、面倒な事をしてくれるんだ…と、尚吾は心の中で乃亜を詰ってみたのだが、どう考えても乃亜の言い分には道理があるから口には出せない。
それに、ヴィンセントに会えると夢心地の顔を絶やさない拓海を眺めていると、これ以上反対しても逆効果な気がする。
失恋の痛手を癒すには新しい恋が特効薬だということは、経験済みの尚吾だ。しかし相手が相手だけに手放しで喜ぶわけにもいかない…さて、どうしたものか…。
こうなると昼間、面倒な禍を忘れて、仕事に没頭できる身分が有難いと思う。
毎年、夏になると常連のお客からの別荘の点検やリフォームの注文、新客からの別荘購入の要件で、乃亜と出会った高原の別荘地へ足を運ぶ。
以前、乃亜の怪我で休養していたあの古い別荘のリフォームもこの春に終わり、週末にはふたりで泊まりに来ることも多かった。
拓海が尚吾の自宅に来てからは、乃亜がこちらに寄る暇はなくなったが、尚吾はこの辺りの仕事のついでに、昼時の休憩に使うことも多々ある。
今日も午前中の仕事を片付け、一服する為に別荘の玄関の鍵を開けようとしたところ、もうすでに開いていた。
不思議に思い、リビングへ足を入れたところ、ソファに座る男の後姿が見えた。それは、最も会いたくない人物ナンバーワンの男だ。
「ヴィンセント…?」
長い黒髪ですぐに彼だと気付いた。名前を呼ばれたヴィンセントはゆっくりと尚吾に振り向き、「やあ、尚吾、待っていたよ」と、優雅に笑う。
「人の家に勝手に入るなよ。だいたいどこから入って鍵を開けたんだよ」
「鍵なら前から持っていた」
「え?」
「おまえに話したいことがあった」
「ちょ、待ってくれ。なんであんたがこの家の鍵を持ってるんだよ」
「私の話を聞けばわかる。しかし、その前におまえはなにか食べるのだろう?昼時だし…」
「う…うん」
「では、それが終わってから話そう。長い話になる」
「…」
そう言って、ヴィンセントは身体を戻し、テーブルの紅茶カップを手に取る。
仕方がないので、尚吾はダイニングテーブルへ移り、弁当を広げて食べ始めた。
紅茶を飲み干したヴィンセントがキッチンへ回り、食べている尚吾の弁当を覗き込んだ。
乃亜が作ったものだと言うと、ヴィンセントはふ~んと言い、キッチンの棚からミルを出し、コーヒーの豆を挽き始めた。
教えてもいないのに迷いもなくミルとコーヒー豆を出したヴィンセントに疑問を持つが、これくらいでいちいち気にしててもキリがないと、尚吾は肝に銘じている。
相手は人間ではないのだ。
乃亜と暮らす日々の中で、会話の合間に人魚だった生活の話などを尚吾が聞くと、乃亜は知っている限りのことを話してくれる。
人魚は昼が苦手なので、太陽が出ている間は人魚の姿で海で過ごして、夜になると人間の姿でいたとか、夜が来ると、五人の兄たちの誰かが、寂しくない様にと乃亜の傍にずっと居てくれていたとか…
何処を切り取っても御伽話のような世界だ。だが乃亜は嘘をつけない人格であり、尚吾は二度と乃亜の言葉を疑う事はしないと決めたから、どんな御伽話であっても、乃亜が話してくれることを尚吾は信じている。
そして、ヴィンセントたちが常識とは違う存在であろうと、生活の感覚の違いがあろうと、こんなに純粋無垢で気立ての良い乃亜を育てた家族ならば、尚吾もまた、彼らを愛しい存在と思いたいと願う。
本当の家族になる為に。
だが、敬意を払ってはみても、ヴィンセントが危険な男には変わりない。
彼らが毎夜、陸に上がる理由は彼らの性欲を満たす一夜を求めているからだ。尚吾にはその生き方を批判する気は無い。彼らにも彼らの都合がある…と、思うからだ。
彼らの生き方には口を挟まないと、尚吾は心に決めている。
どんなに探ろうとも全く本心を見せないヴィンセントは苦手だが、しかし、考えてみれば拓海への牽制をする絶好の機会でもある。
拓海がいくらヴィンセントを好きになろうが、ヴィンセントが相手をしなければ拓海への被害は少なくて済むはずだ。
何らかの対価はあるかもしれないが、拓海の為にやれることはやっておきたい、と、尚吾は心に決めながら、弁当を食べ終えた。
そして、目の前にはヴィンセントが淹れたコーヒーがある。
まさか毒なんてもん、仕込んでねえんだろうけど…睡眠薬ぐらいならあるかもな。
そうは思っても尚吾はそれが現実にはありえないことぐらいわかっている。
先にソファへ座るヴィンセントの後を追いかける様に、尚吾もまた、コーヒーカップとソーサーを持って、テーブルを挟んだヴィンセントと対面するように座った。
まだ舌には熱いコーヒーを啜ってみた。
…充分に美味い。乃亜の淹れるコーヒーと変わらぬ味がする。それが尚吾にはなんとなく悔しい気もした。
「で、俺に何の話があるんでしょうか?」と、尚吾はわざと丁寧に出だしを始める。
「乃亜と暮らし始めて、一年経ったことだし、乃亜のことをおまえに話しておいても良い時期だと思っている」
「乃亜のこと?」
「私は人間を信じない。勿論、おまえを含めてだ。…おまえが乃亜と暮らす前、どんな生活をしてきたのか…この一年をかけて詳細に調べ上げた。そして、また一年間、おまえがひたすら乃亜だけを愛し続けてきた事実も私は認めている。だが、この先、尚吾の気持ちが乃亜から離れないとは限らないだろう。…乃亜はおまえを信じ、人魚として生きることを捨て、命がけで人間になった。もし…おまえに愛されなくなったら二度と乃亜は人魚には戻れない。そして、乃亜はこれから先もおまえ以外の誰かを愛することはないだろう。そうなったら…勿論、私は裏切ったおまえを殺すし、傷ついた乃亜は私が請け負うつもりだが…」
「ちょっと待てよ。俺は一生乃亜を愛し続けるって誓ったし、この世界の大部分の夫婦と同じ様に、どちらかが死ぬまで添い遂げるつもりだ。もし俺が先に死んでしまったら、その時はあんたでも他の兄弟でも、乃亜の事を託してもいいが、それまでは俺が責任を持って守ってみせる。絶対に別れたり浮気したりしない」
「おまえはそうやって今まで、何人の男たちと愛を語ってきたんだ?」
「な、んにんって…そりゃ乃亜と出会う前は、色々遊んできたさ。それが悪いとは今でも思わないよ。…恋をする時はいつだって、本気で相手を好きになるし、幸せにしたいって、幸せになりたいって想う。それが本当の恋なのかどうかってのは、付き合ってみないとわからないけど…」
「ではこれから先、どんな出会いがあったとしても、死ぬまで、乃亜以外の誰かを愛したり惹かれたりすることはない…と、言いきれるのか?」
「それは…」
乃亜以外の者に絶対に恋をしないなんて…言い切れるものだろうか…と、尚吾はヴィンセントの問いに言葉を濁した。
大体何だって今になって、こんなあやふやな話でケンカ腰にならなきゃならない。
「話を戻そう。乃亜のことだ」
と、ヴィンセントは組んだ足を解き、手に持ったコーヒーカップをソーサーに置いた。そして見たこともない真剣な顔で、尚吾を見つめた。
「…」
「乃亜は私達とは本当の兄弟ではない。つまり血縁関係は一切無いということだ」
「…え?」
あまりの衝撃的な言葉に、尚吾は手に持っていたコーヒーカップを落としそうになった。事故は何とかまぬがれ、尚吾は両手でカップをソーサーへ戻し、止めていた息を吐いた。
「乃亜だけじゃない。他の兄弟もそれぞれに親は違う。ヤンとルイは双子だから同じ両親から生まれた人魚だが…」
「…」
冗談だろうと尚吾はヴィンセントの顔を見つめたら、ヴィンセントは真顔で話を続ける。
「ここからは少々難しい話になる。…そもそも人魚には直径と傍系があり、私のような直系の人魚はごく僅か…。人魚の多くは、長い間に人間との交わりで生まれた傍系なのだ」
「じゃあ、乃亜も…」
「乃亜は、人間と傍系の人魚の混血だ。しかも人魚としては非常に弱い遺伝子しか持っていない」
「どういうことだ?」
「直系の血の濃い人魚には特別な力がある。その最たるイージーな能力は人間の姿でいることだが、乃亜は夜しか人間の姿になれない。それに、人魚は長生きだ。この国にも人魚の肉を食べたら不老不死になるという八尾比丘尼の伝説があるだろう。人魚は不老不死ではないが、総じて長命なのだ。私は幾つに見える?」
「え?…俺より少し上?…乃亜が俺に教えてくれたのは、確か34と言ってた気がする」
「乃亜が疑問に思わぬ様に、それなりの年齢を教えてきただけだ。私はもうじき百歳になる」
「はあ?」
「現在、私は五代目のエクスマス子爵なのだが、三代目からずっと私が代替わりをしているのだよ。幼い頃は外国で育っていると言い、適当な齢になったら、父が死んだことにして息子のフリをして、自国の城へ帰る。家の者は前主人とそっくりな私を見てしまえば、疑う余地はないからな」
「…」
尚吾は呆気に取られてしまった。人魚と理解するだけでもいっぱいいっぱいなのに、これ以上映画やSF小説の世界に引きずらないで欲しい。
「それ以外にも乃亜が知らない私たちの能力は多いのだ」
「え…と、ですね…じゃあ、他のみなさんは…一体どのような?」
ここまで知らない世界を目の前に披露されると、まるで博識の教授に請い伺う学生のような気分だと尚吾は肩を正した。
「乃亜が自分だけが違う存在だと卑下しないように、色々な事を秘密にしてきたのだ。あの子は…特別な子だ。乃亜の父親もまた…人間の娘を愛し、自分の命を捨て、生まれてくる子供の為に命を捧げた男だった……。人魚の世界に伝わる掟では、人間にとって、私たちは架空の生き物でなければならないと、ある。今の世界に人魚の存在を信じる者が居たら、それは敵か味方かのどちらかだ。私たちは物語の世界だけに存在すると信じてもらう方が生きやすいのだ」
ヴィンセントは続けた。
昔、まだ人間とそれ以外の異種の生き物が共有していた時代の頃には、海で生きる者や翼をもった空を飛ぶ者たちがそれぞれの世界の秩序を守り、出来るだけ接触しない様に生きてきた。だが、際立った能力を持たない代わりに生存本能の高い人間が、彼ら以外の異種異形の能力を怖れ、その数に措いて圧倒的な人間たちは彼らをすべて滅亡しようとした。「異種狩り」の時代だ。
異種異形の者たちは凶暴な人間たちを怖れた。話し合いにも哀願にも耳を貸さず狂ったように剣を振り下ろす人間たちに、異種異形の者たちの数はまたたく間に減少し、僅かに生き残った者たちは、どうにかして人間の目に届かぬ居場所を見つけ、細々と生き続けることになった。
翼を持った空に生きる者、山や森の精霊たちを友にしながら生きる者、海に生きる人魚たち、…人間たちは、いつしか彼らを伝説や物語の生き物にしてしまったのだ。
そして、海に生きる人魚世界の王族の直系子孫がヴィンセントだった。
王族には、僅かに生き残った人魚たちを生き長得られさせる役目があった。
もともと人魚は長命であり、しかも一生にひとつの子孫しか残すことが出来ない。自分の命を子供に与え、死んでいく種族だ。
人間たちが彼らを狩らなくても、人魚は絶えていく種族だったのだ。
人魚たちはどうにかして自分たちの種を未来へと繋ぐために、人間との交わりを試してきた。人間に姿を変え、彼らと交わり子を成す。
どういう形態が一番良い人魚に育っていくのかを長い年月をか掛け、命を賭して試されてきたが、やはり直系以上の特別な能力や長命に準ずるものは生まれず、しかも人間の血族の割合が大きい程、人魚としての力も減少することがわかった。
異種世界の生き残る道を模索してきたというヴィンセントの話は、尚吾には驚きばかりだが、それ以上に憐憫で胸が張り裂けそうになった。
…尚吾はまだ知らない。ヴィンセントが何を企み、何を得ようとしているのか。
驚愕する尚吾の感情を楽しむかのように、ヴィンセントは優雅に笑う。