微熱少年の禍
6、微熱少年の禍
七月も半ばになり、夏日が続いている。
拓海が尚吾の家に来てから、二週間が経った。
そろそろ拓海の高校も期末テストが終わり、生徒たちは夏休みの予定に浮き足立っていることだろう。
それもこれも、不登校の拓海には関係のない話だ。
学校に行かなくなった頃、友人たちの心配や励ましの連絡が嬉しかった。それも十日も経つと、メールの件数はまばら。そして、ひと月にもなると全く来なくなった。
自身の付き合いの拙さだとわかっているが、寂しかった。
Rでさえ、二度ほどのメールしか来なかった。もちろんこちらが返事を返さなかった所為だとはわかっている。それなのに相手の冷たさを責めていた。
世界が自分の都合のいいようになればいいのに…ひとつも思い通りにならないことに、理不尽だと腹が立って仕方がなかった。
そんな自分が大嫌いで…もう自分の未来なんかどうでもいいと思ったあの頃の自分を、少しだけ笑える日がきたのだと、拓海は部屋のベランダから覗く水平線を眺めながら思った。
そうだ。なにもかもが変わったのだ。
尚吾の家に足を踏み入れた時から、拓海の生きる世界は別次元へと移行したのだ。
そうに違いない。だって、目に映る全てがこんなにも輝いて見える。
今までのつまらない世界、ひずんだ家庭、色の無い自室に居た自分に同情するとしよう。
「おはよ、拓海君。今日もいい天気だよ」
「おはよう、乃亜さん」
屈託のない乃亜の笑顔は、一日を始める拓海の元気の活力だ。
朝七時に起き、着替えて一階に降りる頃には尚吾はもう出勤して家にはいない。夜、尚吾が帰宅するまで、拓海は乃亜とずっとふたりきりになるわけだ。
正直、乃亜のあまりの可愛さに刺激され、欲情することも度々あるけれど、それは尚吾と乃亜がどんな風に愛し合っているかと妄想しての話で、基本拓海自身が受け身の為、乃亜をどうかしたいとはあまり思わない。だがもし乃亜を寝取ったら、尚吾がどんな風に自分と乃亜に罰を与えるのか…などの妄想は止められない。
変態だな、おれ。と拓海は可笑しくてたまらない。それが楽しいから仕方がない。
だが可愛いエプロン姿で部屋中をパタパタしている乃亜を見て、妄想ばかりしている暇もなく、拓海も乃亜の指示で庭の掃除や畑の水やり、野菜の取り入れなどを手伝う。
日差しは厳しく、しばらく家にこもっていた拓海には堪えることも多いけれど、何かをやり遂げた後の汗には達成感があるし、「おつかれさま」と乃亜がもてなすごほうびには喜びがある。
「このアイス、あたらしい味が出てたから買ってみたけど、意外と美味しいね」
「うん、そうだね」
縁側で乃亜とふたりで食べる氷菓子の美味しさと言ったら…
これで口唇にキスでもくれたら、もっと頑張るのに…と、拓海は乃亜のすべすべした頬っぺたに触れたい衝動に駆られるが、乃亜の方はと言えば、拓海を警戒するどころか、かわいい弟かペットのように猫可愛がるものだから、その無防備さに、拓海の方が手を出す気も委縮する。
昼食が終わった午後、乃亜は自宅の裏庭のログハウスにこもり、夕方までアクセサリー作りに専念する。
拓海は勝手に「乃亜のオシャレ工房」と呼んでいるが、簡単な作業場と売り場兼用のログハウスは乃亜らしい自然な彩光と飾り気のない落ち着いたインテリアで整えられている。自然の音と鳥の声だけの心地良い環境に、宣伝もなく高台の高級住宅街の所為か、早々賑わうこともないが、近所の評判も良く、憩いの場所として穴場になり、そこそこの売り上げはあるらしい。
「どれも乃亜さんの手作りなんだろ?乃亜さん、すげえ器用じゃない?」
アクセサリー作りがいつもドジを踏むと反省しきりの乃亜からは考えられないほどの、細かな作業であることは、シロウトの拓海にもわかる。
「うん、時間を掛けてゆっくりやれるものは、割とできるみたい。でもお料理とかって時間の配分が大切じゃない?急かされると何が何だかわかんなくなっちゃって…尚吾に迷惑かけるの。でもね、ゆっくりできる煮込み料理はいつもおいしいって褒めてくれるんだ」
「そう…」
尚吾の話をする乃亜の幸せ一杯の顔を見ていると、嫉妬や変な横槍なんてものがさっと消えてしまうからまた不思議なものだ、と、拓海は思う。
「ねえ、拓海君。気に入ったアクセがあったらプレゼントするよ」
「え?いいの?」
「僕の使う材料はね、天然のモノばかりなんだ。特に貝殻は僕が海で潜って拾ったものなんだよ。貝殻ってね、大事に身につけていると自分の想いが貝の中に住みつくんだよ。その想いが叶うと、貝殻が割れるって…。プロミスリングみたいでしょ?」
「…へえ~」
「だから、拓海君もどれか選んで身に着けて願ったら、叶うかもしれないね」
「…」
拓海は青い刺繍糸を編んだ紐に繋がれた小さな巻貝が付いた腕輪を手に取った。
「拓海君の願いが叶いますように…」
乃亜はそう呟きながら、拓海の右手にその腕輪をしっかりと結ぶ。
「ありが、とう…」
「何を祈るのかは拓海君次第だよ」
ニッコリと笑う乃亜に、拓海は乃亜の様に幸せになりたいと願う。でもそれはきっと、祈っただけでは叶う事はないのだろう。
まずは相手だよな。でも、尚吾さんみたいな人は簡単には見つかりそうもないなあ。
午後からの乃亜はアクセサリー作りや客の応対で忙しく、拓海は家に居るのも飽きて、尚吾に教えてもらった海岸で泳いだり、釣りを楽しんでいる。それにも飽きると、乃亜が買い物に使う原付スクーターを借りて、町の図書館へ行く。
勉強道具は持ってこないつもりだったが、知らぬ間にバックの中に大学入試の問題集が入っていた。きっと母親が勝手に入れたのだろう。未だに受験を諦めていないのかと拓海はその赤本を見てうんざりした。
父親は今年の受験は諦めて、浪人をしてもかまわないと言ってくれた。
どちらにしても今年無理に受験しても希望の大学には合格しないであろう。もともと拓海には希望の大学などなかった。拓海に見合う大学をと選んだのは母親だ。
父親と母親の考える未来のレールはどちらも拓海の幸せを考えて敷いてくれているものだろう。そして、見事に幸福を得られるとしても、それは両親が望んだ形であり、拓海が選んだ未来ではない。両親が望む幸せを、何故子供が必死になって叶えてやらなければならないのだ。拓海はそれが単なる子供の反抗心だとは思えない。
それでも、勉学を嫌いになったわけじゃない。知らない事を知ることは面白いし、楽しいのだ。
強制さえ、されなければ…
図書館の帰りには、地元のヨットハーバーへ寄る。
二階は見晴らしの良い喫茶店。そこから見る海の景色は素晴らしいが、コーヒー一杯六百円もするものだから、拓海は桟橋で自販機のジュースを飲む。
ハーバーとしては小さい施設だが、白いセーリングクルーザーやモータークルーザーがズラリと並ぶ光景は、海の無い街で育った拓海には憧れの情景だ。
印象派の絵画のような夕日が海に沈む間際、水平線に帆を張ったヨットが何艘も進んでいる姿ときたら…映画のワンシーンのようで、呼吸をするのさえ忘れ、拓海は高鳴る自分の胸をじっと押え、恋をする者の様にうっとりと眺める。
さて、暗くなってきたから帰ろうとした拓海は、青いラインの入った「マーメイド」と書かれたモータークルーザーから降りてきた一人の男の姿に驚愕した。
男は乃亜の長兄であるヴィンセントだった。
ヴィンセントは桟橋で待っていた一人の少年…拓海とそう違わないであろう…の肩を組み、駐車場の方へ歩いていく。
拓海はふたりに気づかれぬ様にこっそりと後を追いかけた。
駐車場の白いスポーツカーに乗り込んだふたりは当然の様に抱き合ってキスをした。そしてサングラスを掛けたヴィンセントは柱の陰に隠れて盗み見をしている拓海の方をチラリと振り返り、そのまま猛スピードで駐車場を後にしたのだった。
拓海は慌ててスクーターに乗り、自宅へ帰った。
キッチンでは乃亜が忙しそうに夕食の用意をしている。
「拓海君、おかえり~。ごめんね、お仕事が忙しくて、食事の用意が遅くなっちゃった~」
「おれの方こそ…手伝うって約束してたのに、遅くなってごめん」と、乃亜の元に駆け寄る。
「今夜は目玉焼き乗せハンバーグだよ」
「おいしそうだね」
拓海は先刻見た光景を乃亜に話すべきか迷い、とうとう口には出さなかった。本当は喋りたかった。こういう事はひとりで考えるよりも、人に話した方が考え込まなくて済むからだ。だが、乃亜は五人の兄たちを心から敬愛している。
早くに亡くなった乃亜の母の代わりに、兄たちが乃亜を愛情を込めて育てたのだと言う。
ヴィンセントの行動を乃亜がどう思うのか、拓海は知りたい気がしたが、無駄に乃亜を不安にさせる必要もない。
それに…ヴィンセントがあの少年と本気で付き合っているのか遊びなのかはわからないが、どちらにしても拓海のヴィンセントへの憧れは変わらない。
いや、拓海はあの少年を羨ましいと思った。
ヴィンセントに寄り添うあの華奢な少年が、自分だったらどんなにいいのだろうと、遊びでも構わないからヴィンセントと寝てみたいと、強烈に願ったのだ。
夜、ひとりでベッドに寝ていると、ヴィンセントとあの少年のキスの場面が繰り返し思い浮かび、そして車が消えていった先のホテルやら、その二人の行為を妄想した。
いつのまにかあの少年の姿が自分にすり替わり、ヴィンセントに抱かれて、良い声を上げているのだ。
現実に戻った時の惨めな気分ときたら…思わず涙が滲む。
風もなく晴れた午後には、海辺へ向かう。勿論泳ぐ為だ。
拓海は泳ぎには自信がある。
物心が付くか付かない頃から、スイミングスクールへ通っていた。
タイムもほどほどだし、強化選手にも選ばれなかったけれど、タイムを気にせずにずっと泳いでいられる遠泳が好きだった。だが、高校受験の時に母親の命令でスクールを辞めた。
否、母親を責めるのはお門違いだ。すべては母親に逆らえなかった拓海自身にある。
本当に好きなら、続けたかったのなら、誰が何と言っても辞めるべきじゃなかった。
拓海はあの時のことだけじゃなく、これまでの自分の人生にも後悔し続けている。
結局、高校ではバトミントン部に入部したけれど、弱小部の所為か部員たちに真剣な目標もなく、部活動もお遊び程度で、結局Rとの情事ばかりに熱中していた気がする。
もういい加減うんざりなんだよな。と、拓海は周りのすべてに嫌気が差す。
尚吾から秘密基地だと教えてもらった海岸の岩穴は四、五人がなんとか寝れるほどの広さで、泳ぎ疲れたらそこにゴザを敷き、昼寝に興じる。腹ごなしの携帯用の菓子とペットボトルの水も忘れない。陽が傾くころには、いい具合に疲れて家路につくのだ。
そんな或る日の午後、空には雲一つない青空に、拓海は気持ち良く海で泳ぎ、疲れては岩穴で休憩を取りながらウトウトと浅い眠りについていた。
目が覚めた時、目の前には何故かヴィンセントが立っていた。
「…ぎゃあぁああ!」
拓海は尻を着いたまま岩穴の壁に背中を擦るまで後ずさった。
「ごきげんよう、拓海」
「あわわ…ああ…の…」
「何を驚いている。私の顔を忘れたのか?」
「い、いえ…あなたはヴィ、ヴィンセントさんです!驚いたのは…なんでここにあなたが居るかって事でしてっ!」
「コテージから泳いできたのだが…なにか問題でも?」
「も、問題ないけど、び、びっくりするでしょ!」
「それは…驚かせて悪かったな」
あっけらかんと笑うヴィンセントに魅せられ、拓海の胸は高鳴る一方だ。
「あ…あの、どうし…」
狼狽する拓海には一切構わず、ヴィンセントはいきなり拓海の前に屈み込むと、拓海の口唇にキスをした。
え…?一体どうなってんの?
…わけわかんねえじゃん…。
グレーのタンクトップに黒いハーフパンツ。その恰好で泳いできたのかとか、長く輝く黒髪に服も少しも濡れてはいないとか、一体どこから来たのだとか、山のような疑問もヴィンセントのくれたキスで、すべてどうでも良くなってしまった拓海だった。